映画の感想など・・・基本的にネタばれです。
しづのをだまき
田辺聖子さんが亡くなって
ことし6月6日に田辺聖子さんが亡くなった。
昨秋から、島根県立図書館で、田辺聖子全集全28巻※を読み始め、その時は23巻※を読んでいる途中だったが、訃報を聞いて思わずふっと力が抜けたような気がした。別に予感したわけではないが、まるで今のうち読まなければとでも言うように、どうしても成し遂げねばならない仕事であるかのように、週に2、3回、一回に数時間かけて読んでいたんだなあと気づいた。
7月の下旬に刺激の多い首都圏のはずれに引越して環境が一変、松江での図書館通いの習慣がすっかり消えてしまった。
≪現代日本画をリードした女性画家の回顧展≫と銘打って平塚市美術館で秋野不矩(あきのふく)展をやっていることを知った。※秋野不矩と言う文字に、彼女の自由闊達な女性像が浮かび、それを見たのが田辺聖子全集の見返しであったのを思い出した。
訂正3つ:
①全集見返しの画家は秋野不矩でなく小倉遊亀だった!
②聖子全集は全部で28巻でなく24巻。
③最後に読んでいたのは23巻目でなく21巻目。
記憶力の衰えと確かめもせずUPするせっかちな自分にほとほと愛想が付きます。申し訳ありません。(19-11-13記)
再訂正
コメントを下さった方が、お二人とも、秋野不矩さんについて言及されているので気づいたのですが、人は必ずしも他人の文章を隅々まできちんと読むものではなく、読み飛ばして自分の知っている又は興味のある部分だけに注意を集中するのですね。記事にあとで手を加えるのはよくないと知りつつ、この上誤りを拡散しないように、拡大強調する箇所を秋野不矩ではなく小倉遊亀に変更しました。(19-11-18)
追記(21-6-4)
けさ手元の切抜帖を見ていたら、毎日新聞の連載「時代の証言者 田辺聖子」全23回の最終回は2009-6-6。まさに10年後の逝去は偶然だろうか。
→「花衣ぬぐやまつわる」21-7-3
→「欲しがりません勝つまでは」7-6-23
→「姥うかれ」7-6-27
→「父の娘」18-9-21
→「父の娘」18-9-21
コメント ( 6 ) | Trackback ( 0 )
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お聖さん・・若い頃好きでよく読みましたが、最近は寂聴や曽野綾子を読んだりしてます。
秋野不矩といえば昔画家が京都美山町の藁屋根に住んでいるということを知り、その家の裏で張っていたことを思い出しました。画題になる藁屋根があるので退屈はしませんでしたが不矩さんが現れるはずもなく・・・・馬鹿なことをしたものです(~_~;)
私と同じファンが居たと見え、イーゼルが落ちていました。勿体ないので持って帰りました。
ハイ、おかげさまで漸く記事を書く気分になり始めました。寂聴や曽野綾子は人生の真理を馬鹿な大衆に教えさとす感じですが、聖子は仲間のように笑いながら語りかける感じでどんどん好きになる一方です。
ところで秋野不矩さんを京都で「張っていた」とは!心酔されていたんですね。「ふく」という本名に、この漢字をあてたところ自由奔放な芸術家らしいですね。
秋野不矩さんは、赤瀬川原平さんの「個人美術館の愉しみ」という本で知り
奔放で情熱的な生き方に惹かれて、以来憧れの画家となりました。
静岡の浜松の方に、秋野不矩さんのすてきな美術館があると本で読み
いつか行ってみたい憧れの場所です。
車でなければ行けない交通の不便な場所にあるので
なかなか機を得られずにいます。
田辺聖子さんの全集の装丁を手掛けていらしたとは。
こちらも是非見てみたいです。
不矩さんは浜松の出身なんですね。不便なところにあると聞くと、それだけで行って見たくなります。赤瀬川原平さんのご推薦とあれば一層ですね。
ところで、末尾の「訂正」でも書いたように、田辺聖子全集の装丁は、秋野不矩さんではなく小倉遊亀さんです。どうもネット上では一旦UPすると、あとで訂正を出しても効果が薄いようですね。これもみな、私がソソッカシイためです。深く反省しなくては。
大阪に住んでいる私にとって親しみのある人で、「ああ、お聖さん亡くなったのよ」と友達にメールをしたりね。中年男性とハイミスとの恋愛、彼女のいう「夢見物語」は、かなり読みました。意外でもないかも知れませんが、サガン好きだったのですね。伊丹にお住まいのころ、叔父の家の近くだったので、妹たちと家を見に行った(ミーハーでしょ)こともあります。人物評価はとてもおもしろいと思うのですが、八木先生は辛辣な人だという評価でした。いずれにしても、「ああ、残念」という気持ちです。
お久しぶりです、コメントありがとうございます。
私も訃報を聞いたのは「お母さん、疲れたよ」を読んでいる最中でした。サガンが好きなところは、貴女と共通ですね。
先生の言葉通り、まちがいなく辛辣さがある。それが強者に向かうところ、痛快でした。
それでいて服装には少女趣味もあり、宝塚好き、多面的な存在でしたね。皆さんが弔意を述べたときはまるで盲人象をなでるという感じでした。