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祝いの日


そう良い文とは思わないが、当時の雰囲気がしのばれるのでアップした。

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         祝いの日

    4年5組   1954年10月30日

朝礼台の上で、赤白のリボンをつけた優勝カップが、キラキラ光っています。その後の、テントの中の先生方や、お客様の顔々が、にこにこ笑っています。そんな物を見ているうちに、私は「ああ、鴨池の図画コンクールに、3年間優勝したのだなあ。」という考えが、もう一度強く胸に浮び上りました。

(中略)私は2年の時図画に、3年の時作文に入選しましたが、その時の喜びはまだ憶えています。銀色に光ったカップが言っているようです。「皆さん、一生懸命やりましたね。優勝しましたね。あなたたちのがんばりが、この私を引き戻しましたよ。」
校歌を歌う時、前の校長先生の西園先生も、思い出すように、かすかに口を動かして歌っておられました。その背の高いお姿を見ながら、先生がおられた時のことを思い出すと、目がジーンとなって、涙が出てきました。(後略)

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鴨池動物園は、大正5年に日本で4番目、私立としては最初の動物園として開園、昭和18年軍命令で動物(ライオン、熊、ニシキヘビ、ワニ)を殺処分し、その翌月に慰霊祭を行っている。すっかり寂しくなった動物園だが、戦後、タイからゾウ(1951)の寄贈を受け、キリン(1952)、ラクダ(1953)などを購入して、そのたびに大々的に歓迎した。絵画・作文コンクールも同時に開催したようだ。優勝カップとか授賞式と聞くと、なんと大げさな、とも思うが、市立動物園の宣伝もかねていたのかもしれない。

2年生の時(図画ではなくて)「キリンさん」という作文が入選したが、手元には下書きが一枚しか残っていない。不要な描写が長いので、先生にバッサリ切られたらしい。

「ポーンと大きな音をたてて花火があがりました。きっと、キリンが来るのでお祝いのしるしに上げたのでしょう」

で始まる。400字中50字しか残さないとは何という辣腕な編集ぶりか。しかし、結果はよく、「これは本当に子供が書いたのか」と審査員から聞かれて、先生は怒り猛って反論したと言っておられた。(ムッとすると感情が表に出る先生だった)

その先生の名は福迫正健先生である。作文教育に熱心だが、体が弱く、1年生の3学期(1-3月)は病気で休まれ、私も学期はじめ黄疸で休んでいて、治って出て行くと、隣のクラスに編入された。2年の4月に先生は戻られ、互いに喜んだ。休みに友だちと坂元町の先生のお宅(独身でお母さんと同居しておられたようだ)に遊びに行き、戦前の小学生の優秀作文集を何冊か借りて帰ったのを憶えている。かれはいつもカーキ色の国民服を着ていた。戦後間もないころだ。





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