映画の感想など・・・基本的にネタばれです。
しづのをだまき
【映画】嗚呼、満蒙開拓団
2008年 120分 日本 演出&ナレーター 羽田澄子 製作 工藤充 スティックビルにて2月14日鑑賞
客席は主催者も驚くほど、ぎっしりと詰まっていた。見渡せば、70代から80代の観衆が殆んどだ。山形県や長野県ほどではないが、島根県からも、3000人あまりが渡ったらしい。親戚にも、いま80代で病身の女性が渡満している。
映画は、個々の帰国者へのインタビュー形式で、作られている。私くらいの世代だと、まわりに戦争体験者が沢山いて、父方にも母方にも戦死した叔父がおり、同級生には父親が戦死した母子家庭の友も珍しくなく、童謡(「里の秋」「もずが枯木で」)や童話(「二十四の瞳」)や小説(「人間の条件」)映画などでも豊富に知識が得られた。また、私個人は、両親が語らないあの時代について知りたいという思いが、成長するにつれて増して行き、気がつけば絶えずその資料を求めている。しかしそういう背景の無い人が今30代くらいになっていて、そういう人々にはとっつきが悪いだろうし、最後のナレーションにも押し付けがましさを感じたりするかもしれない。
今も時々ニュースになる中国残留孤児とは、殆んどが開拓団の子供たちだ。泣いていた女児を拾って育てたと言う養父が、帰国した彼女を偲んで拾った経緯を語るのだが、2、3分するとまた言う。あら、認知症だろうか、それとも習慣になったのか、と微笑ましかった。ところが数年後の映像では、症状が進んでいて、養女の夫を見ても誰かわからなくなっているのだが、付き添いの職員に促されて「謝謝」とニコニコと言う笠智衆に似た温容に、胸をつかれた。
1932年「満州国」が建設されてから、政府は初期目標を500万人として日本全国から組織的に移住を促進した。敗戦の2ヶ月前に渡航した人たちもいる。27万余が移住、うち8万人以上が帰れずに死んだ。世界恐慌、農村疲弊、人口増加などの状況が、その構想を生んだ。
満州国がそもそもインチキな国で、中国人の土地を取り上げて移住者に与えたが、そのことを一般大衆は知らなかったし、教育もマスコミも政府のお先棒を担いだに過ぎず、批判力と知識のある層は投獄されるか沈黙させられた。(宮本百合子・顕治・「母べえ」の野上滋など)
羽田澄子の作品は、「アキコ あるダンサーの肖像(1985)」「痴呆性老人の記録(1986)」「元始、女性は太陽だった(2001)」「終りよければすべてよし(2006)」などを見た。いま84歳の彼女はこの作品を、どうしてもこれだけはと作ったとのことだ。子供時代、満州では都会の大連で比較的しあわせにすごし、戦後3年位して帰国船に乗った時、これで皆が帰れるのだろうかと不安を感じた、その思いがあったからだという。
敗戦後、真っ先に帰国した職業軍人や官僚の家族と対照的に、辺境の開拓団は置き去りにされ、逃げ隠れしながら1ヶ月半もかけて辿り着いた土地で、飢えと寒さとチフスの為に、最初の冬に老人、女性、子供4500人が死んだ、その遺骨が、60年代に出てきて、中国政府の許可により、墓が作られたという事だ。場所はハルピンの近く、方正(ほうまさ)という地区。宝星と区別して、ほうまさと呼称する。
映画の初めにその「方正日本人公墓」が出て来る。
講演の予定だった羽田澄子氏は体調を崩してこられなかったが「方正友好交流の会」会長の大類善啓氏が話をされた。65才、驚くほど明るく精力的な話しぶりだった。
→「望郷の鐘~満蒙開拓団の落日」 15-7-21
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