マリの朗読と作詞作曲

古典や小説などの朗読と自作曲を紹介するブログです。
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父の故郷訪問記(5) 

2022年04月05日 | 私の昔

 

父の故郷訪問記(5)

50年前の思い出

 

シリーズものなので 

まだの方は順に読んでね

 父の故郷訪問記(1) 

→ 父の故郷訪問記(2) 

→ 父の故郷訪問記(3) 

→ 父の故郷訪問記(4)

 

おばあちゃん = 父の19歳上の実姉

 

おばあちゃんの嫁ぎ先の

先祖の墓に案内された。

師走の空は気持ちよく晴れ渡り、

まだ雪もなく、

古刹の墓地の一角は

樹々の蔭に冷え冷えとしていた。

その先祖の墓石というのは、

長年の風雪で角が丸くなり

苔むしていて、

刻まれた文字は読み取りにくい。

その前に立ち、

ご先祖さんについて

なにか話を聞かされたと思うが、

内容はほとんど覚えていない。

 

父とおばあちゃんの会話を

聞くともなく聞きながら、

隣に建つこれまた古い墓石を

何気なく見ていたら、

「悲悩比丘尼」という5文字が

目に飛びこんできた。

いくつもの刻まれた戒名の中に

さり気なく混じっている。

そして

はっきり読める文字の少ない中で、

「悲悩比丘尼」だけは、

確かに読めた。

  悲  悩

普通、こんな文字を墓石に刻む?

胸を突かれた。

 

比丘尼(びくに)とは

もともとは出家した女性の呼称だが、

時代によっては

芸人や下層の娼婦を指したという。

悲悩比丘尼なるこの女性の一生は、

いったいどんなものだったのか・・・。

明るい冬の空の下で

ただ合掌。

 

 

 

 

そのご先祖さんの墓の群れは、

どう見ても

参る人の途絶えた墓だった。

おばあちゃんの連れ合いの

墓所でもないし(なぜか行かなかった)、

花も水も手向けなかった。

先祖の墓を見せることに

どんな意味があったのか、

今となっては知りようもないが、

ただ「悲悩比丘尼」の文字だけが

深く心に残っている。

 

 

            

 

 

父がとっておいたもの

 

新潟から東京に物を送る際に

荷札にしたと思われる厚紙。

宛名の住所表記からすると、

私の中学生以前の時期のもの。

 

だが裏を返すと、なんと

嘉永3年(1850年)の大福帳(?)

表紙の再利用ではないか。

 

私が小さいころから

父は寅四郎家と行き来をしていたが、

「蔵にある古文書を雑用紙に使ってる。

郷土史の研究家に見せれば

喜ばれるだろうに、惜しいことを」

と、よく言っていた。

 

 

 

明治40年12月1日付の新潟新聞 

文字は当然、右書きである。

梱包材の一部だったのだろう。

 

 

父の故郷訪問記(6) に続く

 

・ 

 


父の故郷訪問記(4) 

2022年04月01日 | 私の昔

 

父の故郷訪問記 (4)

50年前の思い出

 

シリーズものなので

まだの方は順に読んでね

 

→ 父の故郷訪問記(1)

→ 父の故郷訪問記(2)

→ 父の故郷訪問記(3)

 

おばあちゃん = 父の19歳上の実姉

 

おばあちゃんはお嫁入りの時、

白無垢で家を出て

婚家で赤い着物に着替えた。

実家を出るときには

一度死ぬという意味での白装束であり、

到着した婚家では

生まれ変わるという意味での

赤い着物だという。

 

 

 

大正時代中頃の

栄えていた旧家同士の婚姻である。

しかも、

長女が本家の長男に嫁ぐのである。

あの広い座敷に

大勢のお客を迎えての婚礼の宴は、

どんなに盛大であったことか。

おばあちゃん自身は、それについて

何も語らなかったけれど。

 

 

              

 

 

父が新潟でもらった金梨地の漆器 

黒漆に金粉が散らされている美しい器。

菓子鉢だろうか。

 

一辺が18㎝くらいで底が狭くなっている。

黒漆の表面が鏡のようなので、

どうしてもスマホや手が

写りこんでしまう。

  

 

 

器の内側は赤漆。

 

 

 

漆器が入っていた箱の上蓋

 

 

 

箱の底面を返して見たら、

文化元子年9月と書いてあった。

 

  

 

調べてみると

文化元年は子年(ねどし)

甲子(かっし)であった。

陰陽道では

甲子は変事の起きやすい年なので、

享和4年の2月、

文化元年に改元された。

 

そして文化元年は何と、

西暦1804年!

え、ほんとに? 

ほんとに箱も器も

二百数十年前の物なの?!

親から受け継いで、

ごく軽い気持ちで

部屋に飾ってあるんだけれど、

箱に入れてしまっとくべきか。

迷う。

 

それにしても、

墨で黒々と消してある部分が

気になるなぁ。

 

父の故郷訪問記(5) に続く

 

 


父の故郷訪問記(3)

2022年03月28日 | 私の昔

 

父の故郷訪問記(3)

50年前の思い出

 

シリーズものなので

まだの方は順に読んでね

→ 父の故郷訪問記(1)

→ 父の故郷訪問記(2) 

 

 

おばあちゃん = 父の19歳上の姉

 

おばあちゃんはわたしを、

近所に住む同年配の

茶のみ友達の家に連れて行った。

お友達というのは、

ちょっと目の鋭い、

年の割に上背のある女性だった。

彼女はおばあちゃんとわたしとの

血縁関係を聞かされると、

即座にこう言った。

「ああ、モンジさんの曾孫(ひまご)かぇ」

モンジさんというのは、

どうもわたしの父方の

ひいお爺さんであるようだが、

無論、初耳だった。

ふぅむなるほど、 

この辺りでは

他家の血縁関係にも

よく通じている、と。

 

わたしたちはお宅におじゃまして、

こじんまりした炬燵に三人で入った。

友達同士が世間話をしている間、

わたしはそばで蜜柑を食べたり

猫をかまったりしていたが、

土地の言葉で交わされる会話は

未知の外国語同然で

ちんぷんかんぷんだった。

 

 

 

家に戻ると、

寅四郎さんの長男のエイ君が

笑いながら言った。

「年寄り同士の話は、

何言ってるか

全然わかんないっしょ。

俺らでもわかるのは

半分くらいだから。」

当時わたしは二十歳、

エイ君は一つ年下。

 

「モンジさんの曾孫」

という言葉に触発され、

わたしは寅四郎家の

家系図を作ってみようと思い立った。

で、大きめの紙と鉛筆を用意して

エイ君にあれこれ尋ねたのだが、

これがまったく要領を得なかった。

そもそも家系などというものに

興味がないのだろう。

私は気が抜けてしまって

この話はすぐに終わりとなり、

興味は他へ逸れた。

が、いっそあの時、

自室にいたおばあちゃんのところに

押しかけて行けばよかった。

喜んで詳しく教えてくれた気がする。

残念なことをしたと、

ずっと後になってから思った。

 

(私が新潟の家を訪れたのは

これが最初で最後だった。)

 

父の故郷訪問記 (4)  に続く

.

 

 


父の故郷訪問記(2)

2022年03月24日 | 私の昔

 

父の故郷訪問記(2)50年前の思い出

 

 父の故郷訪問記(1) から読んでね    

  

 

父と私の乗った列車が到着した駅に、

トラちゃんこと

虎四郎さんが迎えに来てくれた。

名前の通りに伯母の四男で、

年齢は父といくつも違いなかった。

父と寅四郎さんは

顔を合わせるやいなや

「やあやあ、ひさしぶり」と

大声であいさつを交わし始めた。

父は地声が大きいが、

寅四郎さんもそれに負けてない。

20歳の私はちょっと恥ずかしかった。

 

 

おばあちゃん(伯母)の一家は

米作り農家であった。

古い大きな日本家屋に住んでいた。

部屋の襖を次々に開けていくと

ぶっ通しで

何十畳もの広さの座敷になり、

座敷ぼっこが出没しそうなお家。

昔は村の庄屋を務めていたので

お殿様を泊めたこともあったという。

 

 

 

家族がお正月用に

庭から松の枝を切ってきた。

それを見たおばあちゃんは,

「昔は家には

立派な赤絵の花瓶があって、

大切なお客があるときは

おじいさん(亡夫)が黒松を活けたもんだ」

と述懐した。

 

活け花は単なる趣味やお稽古事でなく、

当主の務めのひとつだったのだ。

わたしはその時ふと、

虎四郎さんに活け花ができないのを

おばあちゃんは

無念に思っているのではないか

と感じた。

 

 

虎四郎さんが当主になったのは、

戦後しばらくしてからであった。

兄たちがみな戦死してしまい、

虎四郎さん自身も

満蒙開拓団で大変な苦労をし、

何とか生き延びて帰ってきた。

 

戦前は、

長男だけが当主になるべく

帝王学を叩きこまれた。

おそらくは食事も、

家長と長男だけが

特別だったのではないか。

教養も人脈も

客のもてなしも風流も

教え込まれたのは長男だけなので、

長男がいなくなり、

戦後の農地解放で土地を失うと、

没落と共に

旧家の文化も途絶えた。

 

 

外の水道端に、

様子の良い唐金の建水が

無造作に転がっていたり、

裏庭には

什器と古文書の蔵があったりと、

都会で、親子だけの

ごく普通の勤め人家庭に育った私には、

初めて見る世界であった。

    

 父の故郷訪問記(3) に続く

   

前の記事はこちら

  →  父の故郷訪問記(1) 

  


父の故郷訪問記(1)

2022年03月20日 | 私の昔

 

父の故郷訪問記(1)

 

わたしの父は、新潟県の

海に近い町の生まれであった。

父に連れられて

初めてその町を訪れたのは、

半世紀も昔の二十歳のころ。

12月下旬にしては

珍しく雪のまだない年だった。

 

 

父の生家は地元の旧家で

田畑や山林を所有して裕福だったが、

他人の借金の保証人になったがために

すべての財産を失ったという。

以後、

「絶対、他人の借金の保証人になるな」が

一家の座右の銘となる。

 

 

父は9人兄弟の末っ子だったので、

父が生まれたときには、

19歳年上の長姉はすでに嫁いでいた。

父が子供のころに一家は没落し、

知り合いのいる神戸に引っ越して

赤貧洗うがごとしの生活をおくった。

父の両親は、

その後いくらもしないうちに

相次いで亡くなった。

父は年の離れた兄の援助で

神戸の商業高校を卒業した。

 

 

50年前の新潟訪問時に

当然ながら父の生家はすでになく、

長姉(私の伯母)の嫁ぎ先に泊めてもらった。

父と19歳離れている伯母は

私には祖母の年代といってよかった。

小柄で品のいいお年寄りで、

優しくふわッと発音する「おばあちゃん」

という呼称がぴったりの人であった。

なので、私の中では

おばあちゃんとして認識されている。

   

 → 父の故郷訪問記(2)  に続く