マリの朗読と作詞作曲

古典や小説などの朗読と自作曲を紹介するブログです。
写真やイラストはフリー素材を拝借しています。

天使の歌声バスの中(エッセイ)

2022年10月09日 | 私の昔

天使の歌声バスの中

 

私が大学生になった年のことだ。

荻窪駅からバスに乗った。

夕方前だったので席には空きがあり、

立っている人はほとんどいなかった。

バスが動き出した。

と、いくらもしないうちに、

バスの中に

それはそれは美しい歌声が流れ出した。

 

 

♪ ポッカレモンの好きなママ

自慢じゃないけどきれいだよ

ママと一緒にポッカレモン ♪

 

歌詞はうろ覚えだが、

当時テレビでしょっちゅう流れていた

CMソングだ。

その歌声はよく通る美しい声で、

音程もリズムも完璧で

聞く人をはっとさせる、

それはそれは魅力的な一節であった。

そして驚いたことに、

その天使のような歌声の主は、

ねんねこ半纏の中にいた。

     (ねんねこ半纏とは)

      佐藤いぬこ様のブログより

      著者の許可を得て転載

年はせいぜい3、4歳であろう。

女の子の声だったが、顔は見えない。

ねんねこ半纏を着た

ズボン姿の中年女性が、

ちょっと恥ずかしそうな顔をして

バスの通路に立っている。

 

当時でさえねんねこ半纏はもう珍しいもので、

サザエさんの漫画の中でしか

見ないものだった。

私も実物を見るのは初めてだった。

 

バスの乗客は

突然の天使の歌声にかすかにざわめいた。

今だったら拍手が起こるところだ。

女性は母親なのか子守さんなのか。

歌声はあのときだけで、

いくらねんねこ半纏の背中を見つめても

もう二度と聞こえてこなかった。

 

私は5、6分でバスを降りてしまったが、

あの子はどこまでいったのだろう。

もう一度歌ったのだろうか。

 

あの天使の歌声を乗せたバスが

青梅街道を走っていく。

どこまでもどこまでも走っていく幻想が、

赤いバスを見ると

ふとわたしに起こるのだ。

・・

 


竹(若い頃の自作詩)

2022年06月29日 | 私の昔

 

以下に掲載する「竹」は、

わたしが18歳か19歳の時に書いた詩。

学生時代に書いたものは

社会人になるときすべて破棄したのだが、

頭の中にはしっかり残っていたので

再び文字にしてみた。

 

 

 

竹        MARI

 

わたしには、

人ヲ殺シタ覚エはないが、

人ヲ殺シタ恐レはある。

どうにかそれを紛らわせたく、

近所の老婆の家の窓辺に立った。

彼女は魔法使いだった。

わたしの訴えを聞いて、

白い布に呪文をいくつか書いてくれた。

わたしは一瞬、

心の隅でその魔力を疑った。

目と目が合った。

わたしは目を伏せた。

彼女は黙って裏山に入ると、

鉈で太い竹を一本、

バサリと切った。

切り口は冷たく天を突いた。

わたしは家に帰った。

 

夜、風が吹いた。

風は竹の切り口に当たり、

鋭く唸った。

それを聞いていると、

忘れていたあの恐れが

鮮やかによみがえってきた。

耳をふさいでいたが

耐えきれなくなったわたしは、

闇を犯して家を出、

竹藪に火を放った。

 

彼女の家がどうなったか、

わたしは知らない。

 

 

              

 

 

この詩を書いた当時、

三歳上のある先輩に見せたら

こんなことを言われた。

「魔法使いの老婆を信じられないのは、

それが自分自身だからである。

老婆を殺してしまったと

明言してないところが優れている。

それこそが

人ヲ殺シタ恐レに他ならないのだから」と。

驚いた。

作品とは、作者の手を離れて

鑑賞され解釈されるものだと知った。

彼は当時のわたしを

一番よく理解していた人かもしれない。

 

唐十郎の状況劇場に

連れて行ってくれたのも

その人だった。

その後、

鈴木忠志の早稲田小劇場を知り、

一人で何回も観に行った。

白石加代子主演の

「劇的なるものをめぐって抄」を

かぶりつきで見られたのは幸運だった。

夕暮れ時、

開演を待って列に並んでいると、

そばには壊れたビルの

高い壁だけが残っていて

ポッカリ開いた窓の向こうに空が見えた。

そして会場の隣の民家からは

夕餉のみそ汁の匂いが漂ってきた。

なんだか劇以上にシュールで、

忘れられない情景であった。

 

親はいい顔をしなかった。

文学や芝居なんぞに深く関わると

ロクなことにならない、と考える

真っ当な精神の持ち主だったのである。

 

やがて社会人になったのを機に、

わたしは書くことからも

アングラ劇を見ることからも

すっぱりと足を洗った。

それと前後して、

わたしの詩を読み解いてくれた人とも

疎遠になった。

多感と未熟と強い自意識の中で

のたうち回っていた学生時代。

あれから今日まで

よく生きてきたもんだ。

 

 


うどんや

2022年06月06日 | 私の昔

 

うどんや

 

駅ビルを堂々と従える現在の荻窪駅からは、

50数年前を思い浮かべるのはとても難しい。

当時、駅の西口にあったのは、

西友ストアの

こじんまりしたビルだけであった。

地階は食品売り場だったが、

ある時、一角にうどん屋ができた。

調理場を囲むカウンターに

丸椅子を10個ほど置いただけのもので、

間仕切りものれんも見当たらない。

それだけなら珍しくもなんともないのだが,

めっぽう旨いとなると話は別である。

母は買い物帰りに、

高校生だった私は学校帰りに、

週1,2回はその窮屈なカウンター席に座った。

 

湯気を背に采配を振るうのは、

40がらみのひっつめ髪のおかみである。

銀色に鈍く光る寸胴鍋の周りには、

真っ白な上っ張りの若い衆が三人。

いづれも、

てきぱきとわき目もふらずに手を動かす。

狭いが清潔な調理場には、

一糸乱れぬ手際の良さがあった。

 

 

食事時ではなくとも、

客は次々と現れた。

手間と費用をかけただろう

ツユのいい匂いが、

さして空腹ではなくとも、

ちょっと一杯食べて行こうか

という気を起させる。

スーパーの片隅のうどんやにしておくには

惜しい味であった。

 

夕飯の支度をしながら母が言った。

「あれはただもんじゃないよ、きっと。

もとをただせば

名のある店の人たちじゃあないのかしらねえ。

今はよんどころない事情で

あんな商売してるけど・・・」

「よんどころない事情?」

「そう。

元は大きな店を張ってたんだろうけどさ、

自家火を出すとか、お家騒動とか、

なんか不名誉なことがあって

世をしのぶ仮の姿って事。

店の名に傷がつくといけないから、

のれんも何も出してないのよ。

だいたい、

ああいう店に四人もの手をかけるなんて、

普通はしないね。

店を再建するまでの間、

職人を遊ばせておいてもいけない

ってわけなのよ。」

母は想像力の人である。

世間しらずの私は、

「まさかぁ」と笑い流しながらも内心、

母の洞察力に感じ入っていた。

そういえば、

不本意な場ではあっても

プロの誇りにかけて

誠心誠意やりぬいているというような気迫が、

確かに彼らにはある。

 

店の人々が本当は何者であるのか、

だれしも好奇心のわくところであろう。

ある日、

満員のカウンターに座っていた中年の主婦が、

こんなお値段でこんなにおいしいなんて、

と愛想よく褒めちぎり出した。

にこりともせずに聞いていたおかみさんは

ただ一言、「ありがとうございます」と

慇懃だがピシャリと言い切った。

次の言葉を飲み込んだ客の前に、

熱々のうどんがすっと運ばれてきた。

 

 

 

 

一年(?)いや半年するかしないうちに、

店は突然なくなった。

大学生になって

うどんやから足の遠のいていた私は、

母から聞かされて初めて知った。

母は

「きっと店の再建のめどが立ったのよ。

新しい店の場所がわかってたら

食べに行くんだけどね。」と勝手に決め込み、

一人で残念がっている。

閉店お知らせの張り紙なども

一切なかったそうな。

 

 

数週間後、

西友ストアに行ったついでに

地階まで下りてみた。

うどん屋だったあたりは

大幅に模様替えされ、

焼きそばコーナーになっていた。

カウンターの中には

アルバイト風の若い店員が

二人控えていたけれど、

客の姿はまるでなく

閑散としていた。

暫く見るともなく見ていたら、

買い物袋をたくさん下げた主婦が一人、

店の丸椅子にのろのろと腰を下ろした。

食べることにはしたけれど

あまり気乗りしてないように見えたのは

わたしの贔屓目か。

そりゃそうだよね、

あのうどん屋の味を知ってる人ならば・・・。

わたしはわたしでその場をあとにすると、

あのかっこいいおかみさん、

今頃は新しい店で奮闘してるのか

などと勝手に思いをはせながら、

エスカレータで地上へと運ばれて行く。

そして、

新しい店ってどこなんだろう、

値段が高くても一度行ってみたい・・・と、

さらに妄想を膨らませながらビルを出る。

わたしも母の娘なのであった。

 


父の故郷訪問記(7)最終回

2022年04月13日 | 私の昔

 

父の故郷訪問記(7) 最終回

 50年前の思い出

 

シリーズものなので

まだの方は順に読んでね

 

→ 父の故郷訪問記(1) 

 父の故郷訪問記(2) 

→ 父の故郷訪問記(3)

→ 父の故郷訪問記(4)

→ 父の故郷訪問記(5)

→ 父の故郷訪問記(6)

 

 

おばあちゃん = 父の19歳上の実姉

寅四郎さん  = おばあちゃんの四男

 

寅四郎家の黒電話の横に、

町内の電話帳が置いてあった。

見ると、名前と電話番号に並んで

屋号の欄があった。

   屋 号

1ページに何軒も屋号が載っている。

都会っ娘のわたしには珍しかった。

思わずメモってしまうくらいに

珍しかった。

なかでも忘れられないのが、

 

 奉天屋

 満州ランプ屋

 三郎海軍 

 

戦争中に住んでいた土地や生業が

屋号になっていた。

 

 

そのほかにも

どっこん水、

初めて見たハマナス、 

かつて菩提寺に寄進した大灯篭、

地獄に続く釜、

胎内くぐり・・・、

いろいろなエピソードが

ぎゅう詰めの新潟滞在だった。

帰宅してからその体験を

メモっておいたはずだけれど、

いつの間にか散逸してしまった。

 

 

あの時おばあちゃんは、

19歳年下の末弟の娘が

自分の昔の話を興味深く聞き、

時に共感もすることに、

慰めや心の張りを

見出したかもしれない。

おばあちゃんは、単に

実家よりも婚家で過ごした時間が長い

というだけでなく、

芯から婚家の人になりきっていた。

そこには、

白装束と赤い着物の覚悟が

一身を貫いていたことだろう。

隆盛期を知る本家の嫁としての矜持、

長男を失った上に戦後没落した無念、

二十歳のわたしを見ての郷愁、

様々な思いがあったに違いない。

そして今ではわたしが、あの頃の

おばあちゃんの年齢になった。

 

 

おばあちゃんは

わたしが27歳の時に亡くなった。

わたしの親はそれからもずっと、

寅四郎家と年賀状や

もののやり取りをしていたので、

両親の存命中は、新潟のことが

ときに話題に上ったりもした。

 

 

          

 

 

わたしが新潟を訪れたのは、

50年も昔のことである。

どれくらい覚えているやら、と

軽い気持ちで書き始めたのだが、

いざ記憶を紐解いてみると、

次から次と広がっていったのには

自分でも驚いた。

父が大切に残してくれた

寅四郎家からの品々の力も大きい。

当初は3,4回のつもりが

7回まで行くとは思わなかった。

豊かな思い出とは

人生の財産なのだと知った。

 

新潟で出会った人々はみな、

鬼籍に入ったり

音信が途絶えたりしてしまったが、

わたしの心の中には

鮮やかに生きている。

ことに、本家の嫁として

大正昭和を生きたおばあちゃんは、

わたしの生涯の中の

忘れえぬ人々の一人である。

おばあちゃん、

一家そろって歓待してくれて

ありがとう!

昔の話をたくさん聞かせてくれて

本当にありがとう!!

 

父の故郷訪問記シリーズ  

 

しばらくブログをお休みします

 


父の故郷訪問記(6) 

2022年04月09日 | 私の昔

 

父の故郷訪問記(6)

50年前の思い出

 

シリーズものなので

まだの方は順に読んでね

 

→ 父の故郷訪問記(1) 

→ 父の故郷訪問記(2) 

→ 父の故郷訪問記(3)

→ 父の故郷訪問記(4)

→ 父の故郷訪問記(5)

 

 

 

おばあちゃん = 父の19歳上の実姉

寅四郎さん  = おばあちゃんの四男

 

 

寅四郎さんと父と三人で、

近所の浜辺に出てみた。

海沿いに暫く歩いて行くと

河口にぶつかった。

それはさほど大きくない川だった。

指呼の間、とでもいうのか、

両岸でしっかりと大声を出せば

話ができそうなくらいの川幅で、

護岸工事のない自然の姿のまま

日本海へ注いでいる。

そしてその水は

水晶のように澄んで煌めいている。

おばあちゃんによれば、

あの川を昔はたくさんの鮭が

「ごんごんごんごん上ってきた」

という。

ごんごんごんごん」・・・

わぉ、ぴったりな表現!

 

 

 

おばあちゃんと家の近所を歩いていた時、

空地の荒れ果てた草むらに、

溝のように長く窪んだ箇所があった。

あれは水路の跡で、自分が若い頃は

舟が行き来していたと

おばあちゃんは話してくれた。

 

今では水路を行く舟といえば

観光地しか思い浮かばないけれど、

昔はあちこちの町や村で

舟運は日常生活に密着していた。

マイカーを運転する感覚で、

人や物を載せて

川や水路を往来していたのだ。

 

 

そういえばわたしは、40代の頃

知り合いからこんな話を聞いた。

彼女は若い頃、

同居する祖母のお使いで

祖母の実家を初めて訪れた。

電車やバスを乗り継いで、

大変な大回りの道のりだったという。

帰ってから祖母に

「なんでこんな行き来の不便なとこに

お嫁に来たの」と尋ねたら、

実家と婚家は、利根川沿いの上流と下流

それぞれの地域にあり、

昔は舟で往来していたから

面倒はなかったとのこと。

 

それを聞いたわたしは、

へえ、と思うと同時に

すぐ新潟のことが頭に浮かんだ。

彼女の祖母と新潟のおばあちゃんとは

年頃も近い。

新潟のおばあちゃんも、舟に乗って

嫁いで来たのではなかろうか。

昔の水路の話のときに、ちらと

舟で嫁入りしたと聞いた気もする・・・

水路をすべるように進む舟に

つつましく座す白無垢の花嫁。

同乗しているのは

紋付羽織や黒留袖の人々。

そして、静かに竿を操る船頭・・・。

ああ、

なんと絵になることか!

 

 

             

 

父が新潟でもらった古文書

 

父はそれを丸めて筒に入れて

大切にしまっていた。

筒には父の文字で

「乙宝寺議定證文之事」とある。

 

長いので2枚に分けて撮影。

前半部分 

 

この文書は、寺と檀家との

稟議書のようなもの?

後半部分 

 

 

父の故郷訪問記(7)最終回 に続く