マリの朗読と作詞作曲

古典や小説などの朗読と自作曲を紹介するブログです。
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父の故郷訪問記(7)最終回

2022年04月13日 | 私の昔

 

父の故郷訪問記(7) 最終回

 50年前の思い出

 

シリーズものなので

まだの方は順に読んでね

 

→ 父の故郷訪問記(1) 

 父の故郷訪問記(2) 

→ 父の故郷訪問記(3)

→ 父の故郷訪問記(4)

→ 父の故郷訪問記(5)

→ 父の故郷訪問記(6)

 

 

おばあちゃん = 父の19歳上の実姉

寅四郎さん  = おばあちゃんの四男

 

寅四郎家の黒電話の横に、

町内の電話帳が置いてあった。

見ると、名前と電話番号に並んで

屋号の欄があった。

   屋 号

1ページに何軒も屋号が載っている。

都会っ娘のわたしには珍しかった。

思わずメモってしまうくらいに

珍しかった。

なかでも忘れられないのが、

 

 奉天屋

 満州ランプ屋

 三郎海軍 

 

戦争中に住んでいた土地や生業が

屋号になっていた。

 

 

そのほかにも

どっこん水、

初めて見たハマナス、 

かつて菩提寺に寄進した大灯篭、

地獄に続く釜、

胎内くぐり・・・、

いろいろなエピソードが

ぎゅう詰めの新潟滞在だった。

帰宅してからその体験を

メモっておいたはずだけれど、

いつの間にか散逸してしまった。

 

 

あの時おばあちゃんは、

19歳年下の末弟の娘が

自分の昔の話を興味深く聞き、

時に共感もすることに、

慰めや心の張りを

見出したかもしれない。

おばあちゃんは、単に

実家よりも婚家で過ごした時間が長い

というだけでなく、

芯から婚家の人になりきっていた。

そこには、

白装束と赤い着物の覚悟が

一身を貫いていたことだろう。

隆盛期を知る本家の嫁としての矜持、

長男を失った上に戦後没落した無念、

二十歳のわたしを見ての郷愁、

様々な思いがあったに違いない。

そして今ではわたしが、あの頃の

おばあちゃんの年齢になった。

 

 

おばあちゃんは

わたしが27歳の時に亡くなった。

わたしの親はそれからもずっと、

寅四郎家と年賀状や

もののやり取りをしていたので、

両親の存命中は、新潟のことが

ときに話題に上ったりもした。

 

 

          

 

 

わたしが新潟を訪れたのは、

50年も昔のことである。

どれくらい覚えているやら、と

軽い気持ちで書き始めたのだが、

いざ記憶を紐解いてみると、

次から次と広がっていったのには

自分でも驚いた。

父が大切に残してくれた

寅四郎家からの品々の力も大きい。

当初は3,4回のつもりが

7回まで行くとは思わなかった。

豊かな思い出とは

人生の財産なのだと知った。

 

新潟で出会った人々はみな、

鬼籍に入ったり

音信が途絶えたりしてしまったが、

わたしの心の中には

鮮やかに生きている。

ことに、本家の嫁として

大正昭和を生きたおばあちゃんは、

わたしの生涯の中の

忘れえぬ人々の一人である。

おばあちゃん、

一家そろって歓待してくれて

ありがとう!

昔の話をたくさん聞かせてくれて

本当にありがとう!!

 

父の故郷訪問記シリーズ  

 

しばらくブログをお休みします

 


父の故郷訪問記(6) 

2022年04月09日 | 私の昔

 

父の故郷訪問記(6)

50年前の思い出

 

シリーズものなので

まだの方は順に読んでね

 

→ 父の故郷訪問記(1) 

→ 父の故郷訪問記(2) 

→ 父の故郷訪問記(3)

→ 父の故郷訪問記(4)

→ 父の故郷訪問記(5)

 

 

 

おばあちゃん = 父の19歳上の実姉

寅四郎さん  = おばあちゃんの四男

 

 

寅四郎さんと父と三人で、

近所の浜辺に出てみた。

海沿いに暫く歩いて行くと

河口にぶつかった。

それはさほど大きくない川だった。

指呼の間、とでもいうのか、

両岸でしっかりと大声を出せば

話ができそうなくらいの川幅で、

護岸工事のない自然の姿のまま

日本海へ注いでいる。

そしてその水は

水晶のように澄んで煌めいている。

おばあちゃんによれば、

あの川を昔はたくさんの鮭が

「ごんごんごんごん上ってきた」

という。

ごんごんごんごん」・・・

わぉ、ぴったりな表現!

 

 

 

おばあちゃんと家の近所を歩いていた時、

空地の荒れ果てた草むらに、

溝のように長く窪んだ箇所があった。

あれは水路の跡で、自分が若い頃は

舟が行き来していたと

おばあちゃんは話してくれた。

 

今では水路を行く舟といえば

観光地しか思い浮かばないけれど、

昔はあちこちの町や村で

舟運は日常生活に密着していた。

マイカーを運転する感覚で、

人や物を載せて

川や水路を往来していたのだ。

 

 

そういえばわたしは、40代の頃

知り合いからこんな話を聞いた。

彼女は若い頃、

同居する祖母のお使いで

祖母の実家を初めて訪れた。

電車やバスを乗り継いで、

大変な大回りの道のりだったという。

帰ってから祖母に

「なんでこんな行き来の不便なとこに

お嫁に来たの」と尋ねたら、

実家と婚家は、利根川沿いの上流と下流

それぞれの地域にあり、

昔は舟で往来していたから

面倒はなかったとのこと。

 

それを聞いたわたしは、

へえ、と思うと同時に

すぐ新潟のことが頭に浮かんだ。

彼女の祖母と新潟のおばあちゃんとは

年頃も近い。

新潟のおばあちゃんも、舟に乗って

嫁いで来たのではなかろうか。

昔の水路の話のときに、ちらと

舟で嫁入りしたと聞いた気もする・・・

水路をすべるように進む舟に

つつましく座す白無垢の花嫁。

同乗しているのは

紋付羽織や黒留袖の人々。

そして、静かに竿を操る船頭・・・。

ああ、

なんと絵になることか!

 

 

             

 

父が新潟でもらった古文書

 

父はそれを丸めて筒に入れて

大切にしまっていた。

筒には父の文字で

「乙宝寺議定證文之事」とある。

 

長いので2枚に分けて撮影。

前半部分 

 

この文書は、寺と檀家との

稟議書のようなもの?

後半部分 

 

 

父の故郷訪問記(7)最終回 に続く


父の故郷訪問記(5) 

2022年04月05日 | 私の昔

 

父の故郷訪問記(5)

50年前の思い出

 

シリーズものなので 

まだの方は順に読んでね

 父の故郷訪問記(1) 

→ 父の故郷訪問記(2) 

→ 父の故郷訪問記(3) 

→ 父の故郷訪問記(4)

 

おばあちゃん = 父の19歳上の実姉

 

おばあちゃんの嫁ぎ先の

先祖の墓に案内された。

師走の空は気持ちよく晴れ渡り、

まだ雪もなく、

古刹の墓地の一角は

樹々の蔭に冷え冷えとしていた。

その先祖の墓石というのは、

長年の風雪で角が丸くなり

苔むしていて、

刻まれた文字は読み取りにくい。

その前に立ち、

ご先祖さんについて

なにか話を聞かされたと思うが、

内容はほとんど覚えていない。

 

父とおばあちゃんの会話を

聞くともなく聞きながら、

隣に建つこれまた古い墓石を

何気なく見ていたら、

「悲悩比丘尼」という5文字が

目に飛びこんできた。

いくつもの刻まれた戒名の中に

さり気なく混じっている。

そして

はっきり読める文字の少ない中で、

「悲悩比丘尼」だけは、

確かに読めた。

  悲  悩

普通、こんな文字を墓石に刻む?

胸を突かれた。

 

比丘尼(びくに)とは

もともとは出家した女性の呼称だが、

時代によっては

芸人や下層の娼婦を指したという。

悲悩比丘尼なるこの女性の一生は、

いったいどんなものだったのか・・・。

明るい冬の空の下で

ただ合掌。

 

 

 

 

そのご先祖さんの墓の群れは、

どう見ても

参る人の途絶えた墓だった。

おばあちゃんの連れ合いの

墓所でもないし(なぜか行かなかった)、

花も水も手向けなかった。

先祖の墓を見せることに

どんな意味があったのか、

今となっては知りようもないが、

ただ「悲悩比丘尼」の文字だけが

深く心に残っている。

 

 

            

 

 

父がとっておいたもの

 

新潟から東京に物を送る際に

荷札にしたと思われる厚紙。

宛名の住所表記からすると、

私の中学生以前の時期のもの。

 

だが裏を返すと、なんと

嘉永3年(1850年)の大福帳(?)

表紙の再利用ではないか。

 

私が小さいころから

父は寅四郎家と行き来をしていたが、

「蔵にある古文書を雑用紙に使ってる。

郷土史の研究家に見せれば

喜ばれるだろうに、惜しいことを」

と、よく言っていた。

 

 

 

明治40年12月1日付の新潟新聞 

文字は当然、右書きである。

梱包材の一部だったのだろう。

 

 

父の故郷訪問記(6) に続く

 

・ 

 


父の故郷訪問記(4) 

2022年04月01日 | 私の昔

 

父の故郷訪問記 (4)

50年前の思い出

 

シリーズものなので

まだの方は順に読んでね

 

→ 父の故郷訪問記(1)

→ 父の故郷訪問記(2)

→ 父の故郷訪問記(3)

 

おばあちゃん = 父の19歳上の実姉

 

おばあちゃんはお嫁入りの時、

白無垢で家を出て

婚家で赤い着物に着替えた。

実家を出るときには

一度死ぬという意味での白装束であり、

到着した婚家では

生まれ変わるという意味での

赤い着物だという。

 

 

 

大正時代中頃の

栄えていた旧家同士の婚姻である。

しかも、

長女が本家の長男に嫁ぐのである。

あの広い座敷に

大勢のお客を迎えての婚礼の宴は、

どんなに盛大であったことか。

おばあちゃん自身は、それについて

何も語らなかったけれど。

 

 

              

 

 

父が新潟でもらった金梨地の漆器 

黒漆に金粉が散らされている美しい器。

菓子鉢だろうか。

 

一辺が18㎝くらいで底が狭くなっている。

黒漆の表面が鏡のようなので、

どうしてもスマホや手が

写りこんでしまう。

  

 

 

器の内側は赤漆。

 

 

 

漆器が入っていた箱の上蓋

 

 

 

箱の底面を返して見たら、

文化元子年9月と書いてあった。

 

  

 

調べてみると

文化元年は子年(ねどし)

甲子(かっし)であった。

陰陽道では

甲子は変事の起きやすい年なので、

享和4年の2月、

文化元年に改元された。

 

そして文化元年は何と、

西暦1804年!

え、ほんとに? 

ほんとに箱も器も

二百数十年前の物なの?!

親から受け継いで、

ごく軽い気持ちで

部屋に飾ってあるんだけれど、

箱に入れてしまっとくべきか。

迷う。

 

それにしても、

墨で黒々と消してある部分が

気になるなぁ。

 

父の故郷訪問記(5) に続く