太宰治の短編小説「待つ」は、
「省線のその小さい駅に、私は毎日、
人をお迎えにまいります。」
という一節で始まる。
省線とは、省線電車のこと。
わたしは小学校に上がる前、親に連れられて
荻窪駅でこの省線に乗り降りした記憶がある。
チョコレート色の
鈍重な感じのする車両であった。
太宰は20代の終わり頃、荻窪に住んでいた。
彼の死の二年後に荻窪で生まれたわたしは、
案外、彼がなじんだのと同じような風景を
見ていたのかもしれない。
わたしが小さい頃の荻窪駅は、
古い木造の建物だった。
改札係は木製の低い柵に囲まれた中に立ち、
切符切りバサミをカチカチと鳴らしていた。
荻窪駅前から続いている
薄暗く狭い通路の両側には市場があった。
漬物や鮮魚などの猥雑なにおいに満ちており、
夕方になると買い物かごを下げた主婦で
ごった返していた。
今の大きな駅ビルなどウソのような
昔々のことである。
太宰は、自分が住んだことのある
荻窪や三鷹周辺をイメージして
この「待つ」を書いたような気もする。
待つ(太宰治)
太宰治(1909~1948年)は、
青森県津軽出身の小説家で、
「晩年」「人間失格」「斜陽」
「走れメロス」「富岳百景」
などの著作がある。
ダメ人間だった太宰だが、
その著作では
ヒトの心情を見事にすくい上げ、
語り口のうまさと相まって
人気の高い作家である。
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