思いつくままに

ゆく河の流れの淀みに浮かぶ「うたかた」としての生命体、
その1つに映り込んだ世界の断片を思いつくままに書きたい。

『負債論』 第10章 中世(600年――1450年)その2

2021-04-13 18:59:54 | 本の紹介

押し寄せるピンクの津波?(荒川の土手で)

近西:イスラーム(信用としての資本)

<西方/西洋は西ヨーロッパではない。西ヨーロッパは辺境であった>

 中世のほとんどを通じて、世界経済の中枢神経とその劇的な金融革新の源泉は、中国でもインドでもなく西方/西洋にあった。(ここで)西方/西洋とはイスラーム世界のことである。
 この時代、衰退しつつあったビザンツ帝国となかば野蛮なヨーロッパの王国に根をおろしていたキリスト教世界は、ほとんど影響力をもっていなかった。
 西ヨーロッパに居住する人びとは、長きにわたりイスラーム世界を「東方/東洋」の定義そのものと習慣的に同一視してきた。

 世界史的視点からするなら、ユダヤ教とキリスト教とイスラームを、おなじひとつの西洋的知の偉大な伝統の三つの異なった表現とみる方がはるかに理にかなっている
 その伝統は、人類史のほとんどを通じて、メソポタミアとレバントに中心をおきながら、ギリシアにいたるまでのヨーロッパ、エジプトにいたるまでのアフリカ、ときには地中海を横断してさらなる西方へ、あるいはナイル川の下流にいたるまで拡張していった。
 経済的にみれば、ヨーロッパのほとんどの地域は、中世盛期までは、アフリカのほとんどの地域とおなじ状態だった。
 中世のほとんどを通じ、イスラーム世界は西洋文明の中枢であっただけでない。それは西洋文明の拡張する前線であり、インドへの途をつけ、アフリカとヨーロッパに勢力を拡げ、インド洋を越えて宣教師を送り、多くの改宗者を獲得していったのだ。

<政府は軍事力であり、社会の外に存するもの>

 支配的になりつつあった法律と統治と経済にかんするイスラームの姿勢は、中国において普及していたそれの正反対であった。儒者たちの好んだのは、厳格な法規による統治には懐疑的で、開明的な知識人――同時に政府の官吏をつとめることになっていた――が内面化している正義の感覚に依拠することである。
 それに対して、中世のイスラームは(預言者のつくった宗教制度としての)法については熱意をもって支持したが、政府についてはどちらかというと必要悪、つまり真に敬虔な者であれば避けるべき制度とみなしていた。

 アラブ人の軍事的指導者たちは、相変わらずみずからを砂漠の民をもって任じ、おのれの支配することになった都市文明に属しているようには決して考えなかった。
 住民の大多数が支配者の宗教に改宗するのに数世紀もかかったし、改宗のあとでさえ真に支配者と同一化することはなかった。
 政府は軍事力とみなされていた。つまり信仰を守るためにおそらく必要だが、根本的に社会の外に存するものなのである。
 それは、ひとつにはやはり、支配者に対抗して形成された商人と民衆のあいだの特異な連合によるものであった。
 832年のカリフ、アルマムンによる神政政権設立の試みが挫折したあと、政府は宗教問題にかんして不干渉主義をとりはじめる。イスラーム法典のさまざまな宗派は、それぞれの教育機関を自由に創設し、独自の宗教的司法[正義]の体系を保持することができた。
 そこで重要なのは、メソポタミアやシリア、エジプト、北アフリカの各地で同時期に、大多数の帝国住民をイスラームに改宗させるために主要な役割を担った工作者が、まさに法学者のウテメであったことである。ただし、彼らもまた――同業組合、民間連合体、商業団体、信徒組織などの長老たちとおなじように――軍隊と権勢に支えられた政府から一定の距離を保つことに努力を惜しまなかった。

<社会と中世イスラーム国家のあいだに構築された壁、侵略戦争、奴隷兵士>

 カリフ制、そしてのちのイスラーム諸帝国は、古い枢軸帝国に多くの点でとても似たかたちで運営されていた。職業的軍隊を創設し、侵略戦争を起こし、奴隷を捕獲し、戦利品を鋳つぶし、兵士や公務員たちに硬貨として配給し、それらの硬貨を税という形態で返すように求める。(ただし)おなじ諸効果が一般民衆の生活にはほとんど及ばないようなかたちで。

 拡張戦争が進行するにつれ、とてつもない量の金銀が宮殿や神殿、僧院から掠奪され、硬貨鋳造に充当された。それぞれの硬貨の価値はほとんど確実に貴金属の重量に対応し、ほぼ信用的要素がみられなかったのである。

 拡張戦争、そしてヨーロッパやアフリカとの交易によって、奴隷の流入はきわめて安定していた。それらの奴隷のうち農場や作業場で労役についた者はあまりいなかった。ほとんどは金持ちの家のお飾りとなるか、あるいは、時間ともにますます兵士になっていった。アッバース朝時代(750―1258年)を通して、帝国はその兵力をほとんどもっぱらマムルーク奴隷にたよっていた。
 奴隷を兵士として使う政策は、ムガール帝国をふくむ後続のすべてのイスラーム国家でも採用された。奴隷というと、武器からは最も遠ざけられるものである。ところが、ここでは制度として奴隷が武器を手にできたのである。
 奴隷とは社会から切断された人びとであるとするなら、これは社会と中世イスラーム国家のあいだに構築された壁の論理的帰結であった

 宗教的導師たちは、この壁を支えるためならば全力を尽したようだ。奴隷兵士への依存の理由のひとつは、信心深い者たちが軍隊に使役することを(信者同胞と闘わねばならない可能性があるため)妨げようとする志向性であった。
 彼らが創出した法制度もまた、イスラーム教徒が奴隷に身を貶められることのないよう考案されていた。
 かつての枢軸時代の社会におけるほとんどすべての虐待を標的にしていた。誘拐、司法懲罰、負債、そして子どもの遺棄や売却に起因する奴隷――これらすべてが禁止されるか、強制できないとされた。負債懲役制度の諸形態についても同様である。最終的にイスラームは、徴利を厳格に禁止している。
 ある意味で、イスラーム法廷の確立を、何千年も以前に開始された家父長的反乱の究極的な勝利とみなすことができる。すなわち、信者たちは、重装備した本物の遊牧民(ノマド)の末裔を野営地や宮殿に封じ込めておくために最大の努力を払いながらも、実在するあるいは想像上の砂漠や草原のエートスについてはそれを普遍的に受け入れたのだ。それを可能にしたのが、階級同盟の根本的な転換である。

 中近東の大いなる都市文明は、行政官と商人のあいだの事実上の同盟によって常に支配されていた。行政官と商人はともに自分たち以外の住民を、負債懲役人の状態か、あるいは負債懲役人にいつ転落するかもしれないという不断の危険にさらされた状態にとどめおいていた。だが、イスラームに改宗することで、ふつうの農民や街の住民からみると長いあいだ諸悪の根源であった商人階級が、立場をひるがえし、嫌われていた所業のすべてを放棄し、いまや国家に対抗するものとしてみずからを定義した社会の指導者になることに同意したのである。

<●価格はアラーの意志によって決まる。価格を上げ下げするのはアラーなのである。
                              ――預言者ムハンマドのものとされている言葉
 ●共同出資者の取り分は、商業的投機における出資の割合によらねばならない。    ――イスラームの戒律>

 そもそもこれが可能であったのは、イスラームが商業に対して肯定的な視点をもっていたからである。
 イスラームの思想家のなかで、まっとうに利潤を追求すること自体をモラルに反するとか信仰に対して有害であるとかみなした者はない。徴利の禁止にしてもほとんどの場合、事業貸付に対してでさえ徹底的に施行されたがどんな意味でも商業の成長を、あるいは複雑な信用手段の発展ですら、抑制するものではなかった。

 それでも利潤が可能だったのは、イスラームの法律専門家たちが、慎重に、ある種の業務報酬については認めており、それ以外に認められた報酬――とりわけ信用買いされた商品を現金買いされたそれらよりも若干高く値踏みするなど――も、銀行家や商人たちに信用業務をおこなうよう奨励していたからである。

 大きな事業にたずさわる商人たちであれば、銀行業をその他の営利事業と組み合わせるものと見込まれていた。その結果、やがて信用手段は交易にとって必須のものになり、どの有力者も、みずからの富のほとんどについて、……硬貨に依存することなくインク壺と紙で日常的取引をおこなうようになったのである。約束手形は、「小切手」とか「預かり証」と呼ばれた。小切手は不渡りになることもあった。

 融資についていえば、有利子の投資よりも好まれた方法は、一方が資本を準備し、他方が企業化するといった共同経営であった。投資者は、利潤の分け前分を受けとった。こうしたことがらにおいては、評判が決定的である。実際に初期の商業法においてさかんだった議論は、評判が(土地、労働、貨幣、それ以外の資源のように)資本の一形態とみなしうるかどうかというものである。場合によっては、商人たちは資本がない状態で、自分たちの名声だけをたよりに共同経営関係をむすんだのである。
 国家の強制機構なしにいとなまれる信用経済においては、支払い手形の価値の大部分が、まさに署名者の良き評判からなる。

 こうした信頼のネットワークは、ひるがえって、中央アジアとサハラ砂漠の隊商ルートを通して、そしてとくに中世の世界貿易の主要な伝達路であるインド洋を横断して拡がったイスラームの伝播に、大いなる役割をはたした。

 イスラーム社会において、商人は、尊敬の対象というだけでなく一種の模範的存在となった。商人は戦士のように遠方への冒険を敢行する名誉ある人間である。戦士と違ってだれにも危害を加えることもない。

<国家の介入への拒否感、神の見えざる手>

 ほとんどの法学者はムハンマドの決定を次のように解釈した。市場のメカニズムへのどのような政府の妨害も等しく冒涜とみなされねばならない、なぜなら市場は神によって自己調整機構として設計されているのだから、と。

 アダム・スミスの「見えざる神の手」にみごとに類似をみせているのもまったくの偶然ではない。実際に、スミスが参照した議論や用例の多くが、中世ペルシアで書かれた経済文書に直接に出典をもつものだったようだ。
 たとえば、交換とは人間的理性と会話の自然的発展であるという彼の視点は、イスラーム神学者ガザーリー(1058―1111年)および建築家、科学者、哲学者トゥースィー(1201―1274年)の双方にすでにあらわれている。

 スミスにとって、分業とは個人の利益を求めて「取引と交換をおこなう人間の本性」からの発展であるのに対して、トゥースィーにとっては相互扶助の拡張だった。
 神の摂理は、わたしたちのうちに異なった能力、欲望、性向を配置したのだ、とトゥースィーは主張する。市場とは、端的に相互扶助、つまり能力(供給)と必要(需要)の釣り合いをとるという、より一般的な原理の発現なのである。

 市場とはどの社会も究極的にはそれに依拠しているある種の基盤的コミュニズム上に基礎づけられているのみならず、それ自体が基盤的ュミュニズムの拡張でもあるということだ。
 だからといって、トゥースィーがラディカルな平等主義者だったことではまったくない。その逆である。「もし万人が平等だったなら、だれもがみな消滅してしまうだろう」と彼は主張する。
 しかしそれでもなお、市場とはなによりまず競争ではなく協働であるという前提から出発するならばそのモラル上の含意はきわめて異質なものとなる。

 ガザーリーの分業にかんする視点も似たようなものである。しかし彼の貨幣の起源についての考察はそれ以上に興味深い。
 出発点は想像上の未開の部族民ではなく想像上の市場で出逢うよそ者どうしである。
 そこで交換が存在するためには、2つの物品を尺度する方法がなくてはならない。
 共通の質をもたない2つの事物をいかにして比較するのか?彼の結論は、いかなる質もまったくもたない第三の事物と双方を比較することによってのみ、それは可能である、というものである。
 まさにこのために、神はディナールとディルハム、金と銀という、それ以外にはなんの利用法もない二つの金属からなる硬貨を創造したのである。
 それらが象徴であり、尺度の単位でありうるのは、まさにその有用性の欠如のゆえであり、価値よりほかにいっさいの特色も欠けているがゆえである。

 そこからまた、有利子貸付は違法でなければならないという考えがあらわれる。というのも、有利子貸付は貨幣を自己目的化しているからである。「貨幣は貨幣を獲得するために造られたのではない」。
 「ディルハムとディナールは他の財との関係においては文章中の前置詞に似ている」。文法学者が教えるように、前置詞は、じぶん以外の言葉に意味を与えるために使用されるのであるが、それができるのもそれ自体としては意味をもたないがゆえなのである。

 彼の記述している貨幣の特性――象徴、抽象的尺度、それ自体の特性をもたぬこと、恒常的な運動を維持することによってのみ保持される価値などの――は、貨幣が純粋に仮想的な形式において使用されることがごくあたりまえになった時代でなければ、だれもおもいつかなかったであろう。

 このように、わたしたちの自由市場論の多くは、そもそも大変異なった社会的・モラル的宇宙から、少しずつ借用されたものだったようだ。中世における近西の商人階級は並外れた偉業をやってのけた。それ以前の沈黙せる何世紀ものあいだ、隣人たちに大いなる災いをもたらしていた徴利の慣行を放棄することによって、商人たちはみずから帰属する共同体の実質的な指導者――宗教的導師たちとならんで――になることができたのである。

 その共同体は、いまだモスクとバザールという2極の周囲にほぼ組織されているとみなされている。
イスラームの拡張によって市場は世界的な現象となりえた。そして、その市場とは、政府からほとんど独立しみずからの内的諸法則にしたがって機能するものだったのである。
 しかし、これがある意味で純粋な市場であった――つまり政府によって創出され警察と刑務所によって維持されているものではなく、握手契約と署名する者の誠実のみに裏づけられた紙の約束の世界――という事実そのものが、のちにおなじ観念と議論の多くを採用した者たちによって想像された世界にはその市場がなりえなかったことを意味している。
 [イスラームの]市場は、手当たり次第あらゆる手段を駆使して物質的利得を争い合う自己利益に純粋に動かされた諸個人からなる世界という意味での市場にはなりえなかったのである。

* 中世については、まだ残っている。「極西:キリスト教世界(商業、金貸し、戦争)」で、次回としたい。


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