
お台場にて
特に安部政権以降、この国の政治は専制化(集団的自衛権の行使容認などの各種強行採決や、国民の7~8割がこの状況でオリンピックを開催することに反対しているにもかかわらず開催を強行することなど)、劣化(貧困なコロナ対策や国民の分断、非正規雇用=不安定雇用の増大、貧富の差の拡大など)が激しいが、倫理的、道徳的にも崩壊(モラル崩壊)が進んでいる。この政治的崩壊の事実を、崩壊させている当人たちは認識していないようであるが、反対に国民に対しては道徳教育の必要性を叫び、2018年より道徳を教科化して成績評価の対象とした。そして、あえて「教育勅語」を持ち出し、「ナチスも良いことをした」という論理で、その精神を教えることも問題なしと国会で答弁している。朝礼での教育勅語の朗読や暗唱・唱和さえ一概には否定しないとも述べている。萩生田光一文科相の議員会館事務所には教育勅語の大きな掛け軸がかかっているとのこと。森友学園問題も、その幼稚園で園児に教育勅語を暗唱させているのを安倍昭恵首相夫人が見て感激したことがきっかけになっている。
教育勅語には親孝行や友愛、博愛など「良いことが書いてある」と言う。しかし、そんなことを教えるのに、1948年6月19日に衆参両院でその排除・失効確認が決議されている教育勅語をいまさら持ち出す必要などまったくない。その程度のことは何にでも書いてある。それでも敢えて教育勅語を持ち出すのは、そこにしか書かれていないことがあり、それを道徳として教えたいからという理由しか見当たらない。教育勅語にしか書かれていないこととは「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」という部分である。彼らの狙いが、その精神を言葉を変えて復活させることにあることは容易に想像できる。それは倫理的、道徳的に正しいのだろうか。
いったい、倫理、道徳とは本来何だろう。少し考えてみたい。なお、「神」などの超越者が人間を人間たらしめていると考えている人の倫理、道徳観については、ここでは対象としない。たぶん「神」が決めたことだということになるので思考停止になってしまう。なぜ大勢の人たちがそんな説明で納得してしまうのかは不思議であり、考察の対象にはなるが、ここでの問題ではない。
倫理、道徳はあらかじめ与えられたもの、人が生まれながらに体得しているものではなく、人が経験的に学び取ってきたものである。世代を超えて伝えられ、共有化されたものである。遺伝子レベルで持っているものではない。だから、内容の問題は別にして、道徳教育は必要なものである。遺伝子レベルで持っているのは、争いへの嫌悪感や暴力への恐怖など、自身を破壊するものを恐れ、そこから逃れようとする感情であり、そういう事態を避けたいという感情である。それを避けるために人と人はどういう関係を持つべきかという、倫理、道徳が生まれる源泉になる感情である。
倫理、道徳は他者が存在しないところでは意味がないので、それは他者との関係の問題だということができる。その関係とは「この世界は人が相争うことがなくてさえ、生きるに十分厳しい、だから共に助け合いながら生きよう」という関係であるはずだ。共に助け合って生きるには、人は何をすべきか、何をしてはならないかということ、その中で普遍的(特別なとき、場所、場合などにだけあてはまるものではない)と考えられるものが規範化されたもの、それが倫理であり、道徳だと思う。
「一方が他方に従属する」「一方が自分のために他方を利用する」という関係の中からは倫理、道徳は生まれない。そのような関係において必要なことは、相手を押さえつける有形、無形の力であり、欺くための知恵である。ルールがあるとしても、従わせる者が作り、従う者は強制されるだけのものである。
道徳教育は必要なものであるとして、だれが何の目的で教育するのかという点が重要である。それは、共に助け合って生きたいと思う人が、そのような社会を実現するという目的のもと、そのために必要な規範を教育するのである。「いまだけ、金だけ、自分だけ」という連中が、できるだけ多くの利益を、効率よく得られるようにすることを目的として、国民はどうあるべきかを教えるものではない。
倫理、道徳を「共に助け合って生きるため」の規範として考えてみると、その具体的な内容はそれほど難しいものではなく、すぐにいくつかの規範を思いつくことができる。
① 目の前に困った人がいるとき、自分ができる範囲で助けること
どこかで、宮台真司氏が「若い人が、どうすれば友達を作れるのかわからないと言っていたが、簡単なことだ。困っている人を助ければいい」ということを言っていたのを聞いたことがある。いい言葉だと思った。
② 互いに自制しながら良好な関係を作り、それを維持すること
人はそれぞれ欲求を持っており、それを実現するためには自己中心的になりがちである。そのとき、他者も同じ存在であることを忘れないことが重要である。したがって、互いの自制なしに良好な関係を作り、維持することは不可能である。
③ 他者を非難するために、あるいは自分の非を正当化するために嘘をつかないこと
平気で嘘をつく人は、けっして他者と信頼関係を築くことはできない。自己を正当化しているつもりが、実際には自己のつまらなさをアピールしていることになる。
衆院調査局は、安倍前首相が2019年11月~20年3月の間、国会で計118回の虚偽答弁をしていたことを明らかにしている。そのような人が国民との間に信頼関係など築くことなどできるはずがない。
④ 間違いに気づいたらそれを認め、同じ間違いをしないように努めること
人は世界を完全に理解などしていない。だから世界にはたらきかけることは、わからなかったことと遭遇することでもある。したがって、そこに間違いが起きるのは当然のことであり、その間違いを認めることで、世界についての理解を1つ進め、世界へのはたらきかけをより適切なものにできる。
⑤ 自分の立場を利用して他者をその意に反して従わせないこと
自分が意に反して従わせられる立場になったときは、その関係の理不尽さがよくわかる。しかし、逆の関係になると気付きにくい。身近なことだが、食堂や商店などで客の立場になると横柄な態度をとる人が多い。冷静に考えれば、売り手も買い手も、人としてそこに上下関係はないはずだ。一方は商品を所持し、他方は貨幣を所持し、それを等価で交換するという関係にすぎない。それにもかかわらず、上下関係ができてしまう。それは、そこに強い立場、弱い立場ができるからである。その立場を利用して相手を従わせようという人が出てくる。職場でも同じだ。解雇されると困る人はどうしても立場は弱くなる。そこにつけこむ人が多いのである。
まだまだ、いろいろな規範をあげられると思う。自分の行ないについて、それは「人が共に助け合って生きる」という目的に適っているかどうか、ときどき考えてみるのもいいかもしれない。
残念ながら、人類の歴史を見れば、共に助け合って生きる社会を築くことがいかに困難であるかがわかる。この社会では、偶然に力、頭脳、地の利、既存の関係などの外的条件に恵まれることになった者が、その他大勢を利用し、自分の利益を最大化するという営みがいまなお続いている。そのひとにぎりの者が個人にとっては何の意味もない何兆円という財貨を手に入れ、欲望の限りを尽くしている。(それでも使い切ることなどできない)他方に、きょうあすを生きるのに精一杯だという人々が数多(あまた)いる。
たしかにこの世界は良くなってきている。表向きの奴隷制はなくなり、人種差別は否定され、女性の地位の向上もしてきている。しかし、それは自然に良くなってきたのではなく、虐げられた人々が抵抗する中で、抗議の声をあげ、ときに闘う中で良くしてきていること、今なおその闘いが続けられていることを忘れてはならない。1950年代から1960年代にアメリカで展開された公民権運動、2020年のジョージ・フロイド事件をきっかけに燃え上がったBLM運動はその例である。しかし、実質的な奴隷状態、人種差別、女性蔑視などは陰湿にあるいはおおっぴらに続いているのである。
特に政治的モラルの崩壊が顕著なこの国では、「表現の自由」を盾にして人種差別を助長するようなデモまで行なわれている。それに抗議する人たちからそのデモ隊を守るために多くの警察官まで動員されてる。反対に、人種差別や歴史の歪曲に抗議する集会や展示会に対して反対派が暴力的な妨害行為をほのめかすと、「表現の自由」のためにその妨害行為を排除しようとするのではなく、「混乱が起きたり、市民に危険が及んだりする可能性がある」と言って、その集会や展示会を開く場を貸さない(=開けなくする)ということも常態化している。また、人種差別的発言を声高にしている著名人もいるが、社会的に失墜などしない。彼らの書いた本は堂々と書店に並び、特に隣国の悪口を書いた本はよく売れているようだ。
ネットの世界でも露骨な人種差別的発言が行なわれているが、その場を提供しているツイッタージャパンは、それらの発言がルール(ヘイト行為: 人種、民族、出身地、社会的地位、性的指向、性別、性同一性、信仰している宗教、年齢、障碍、深刻な疾患を理由にして他者への暴力を助長したり、脅迫または嫌がらせを行ったりする投稿を禁じます)に違反しているにもかかわらず放置している。反対に、それらのヘイト行為を批判する人のアカウントはすぐにロックされ、批判ができなくなるという話も聞く。(https://lite-ra.com/2018/06/post-4086.html)
露骨な人種差別的発言をし、歴史の歪曲をしている彼らはその発言内容から見て、例外なく現政権の擁護者である。だからなのか、政府は彼らのヘイト行為を見て見ぬふりをしている。この国では、本来の道徳教育が必要である。特に権力者とその取り巻き、予備軍に対して。
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