<摩周湖>
アメリカの経済誌フォーブス(Forbes)が発表した2024年版の世界長者番付によると、そのトップはクリスチャン・ディオールやルイ・ヴィトン、ブルガリ、ティファニーなど多くの高級ファッションブランドを手中に収めているベルナール・アルノー氏(仏)で、その資産は日本円で34.95兆円とのことです。2位はテスラのイーロン・マスク氏(29.25兆円)、3位はアマゾンのジェフ・ベゾス氏(29.15兆円)と続いています。以前にも述べたことがありますが、1兆円とは、1万円札を平積みにして高さ10km(100万円を1cmとして計算)にもなる額です。エベレスト(8,849m=8.85km)よりずっと高くなります。
別の計算をしてみます。ある人が1年に100万円の資産を貯めていったとき(平均的なサラリーマンだとこれくらいがギリギリ可能な線だと思うのですが)、1兆円を貯めるためには何年かかるでしょう。金利を考えない単純計算ですが、100万年かかるのです。ですから、ベルナール・アルノー氏と同じ額を貯めようとすると、3,495万年もかかることになります。日本でも、上記の長者番付の29位に入っているユニクロの柳井氏は6.42兆円の資産があるとのことなので、同様の計算をすれば642万年かかることになります。収入がある人はそれ相当の努力をしているからだと言う人がいますが、柳井氏が平均的なサラリーマンの642万倍も努力したなどと言えるでしょうか。ベルナール・アルノー氏に至っては、3,495万倍ということになってしまいます。ですから、資産=努力の量とは言えません。
「彼らは現金でそれだけの資産を持っているわけではない。不動産や株券などの債権がほとんどのはず。だから、そんな話をしてもあまり意味はない」と言う人がいました。しかし、不動産や株券などがそのようにお金で評価されるのは、それを売ればその金額で買う人がいるということであり、売ってお金に替えればそのお金で相当する富やサービスを得ることができます。つまり、現金を持っていることと同じだと考えられます。資産は人それぞれいろいろなかたちで持っていますが、それを「お金」というものに換算することで同じ尺度で比較することができるようになります。
ところで、お金を持っているということは何を意味するのでしょう。この世界の富やサービスは世界中の人が働くことで作り出されています。その富やサービスはお金と交換することで得られるという仕組みになっています。つまり、世界中の人々が作り出したこの世界の富やサービスを各個人がどれだけ得られるかは、その人が持っているお金の量によって決まるということです。100万円持っている人は100万円分の、1兆円持っている人はその100万倍の富やサービスを得られるということになります。
共産主義と独裁制
上記のように途方もないお金持ちがいる一方、2023年の世界の飢餓人口は、約7億3,300万人で、世界人口の11人に1人に相当します。中程度または重度の食料不安に直面する人は23億3,000万人で、世界人口の28.9%に上ります。3.5人に1人です。現在の世界の富の分配の仕組みがこの結果を招いているのです。これは、どう考えても理不尽すぎますね。いったいこの仕組みはどうなっているのでしょう。ここでは詳述しませんが、それを明らかにしたのがマルクスの『資本論』です。この本はその書名の通り資本主義経済の仕組みを明らかにしたものです。読んでいない人は、『資本論』は共産主義とは何かを説いた本だという誤解をしている人が多いように思われます。そうではないので、是非、読んでみることをお勧めします。
この仕組みはおかしいと言うと、「おまえは共産主義者だ!」「アカだ!」とまるで悪人のようにバッシングする人がたくさんいます。共産主義とはどういうものかも知らないのに。そして、この世界では共産主義=独裁制=悪という強固なイメージも作られています。しかし、共産主義と独裁制は本質的には関係がありません。ソビエトや中国、北朝鮮などの独裁制は、共産主義を標榜して行なった革命のときに、強い権力を持ったものがそれを手放そうとしないために生まれてしまったものです。共産主義に限らず、どんな分配の仕組みを持った国であろうと、強い権力を持った支配勢力がそれを手放さないでおこうとすれば独裁制を採ります。いまのロシアは共産主義国家ではありませんが、実質プーチンの独裁国家となっています。また、ナチスドイツもヒトラーの独裁国家でしたが、共産主義国家ではありませんでした。そのほか、エリトリア、トルクメニスタン、ジンバブエ、アラブ首長国連邦、エジプト、シンガポール、アフガニスタン、ミャンマーなどなど、共産主義国ではありませんが、すべて独裁国家です。中国も共産主義国家ではないけれど習近平の独裁国家になっています。いまの世界に共産主義国家はないと言えます。でも、独裁国家はいくつもあります。スウェーデンのV-Dem研究所の調査によれば、2003年の時点で、独裁国家で暮らす人の数は全世界の人口の半分でしたが、20年後の2023年には、それが71%にまで上昇しているとのことです。最近、いわゆる先進国と言われている国でも、極右(従来の右翼ではなく、暴力的で強権的なイメージを持ち、独裁制につながるような勢力)が台頭し、議席を増やしていることは、そういう流れが進んでいることの現れかもしれません。危険なことです。
日本でも戦後約80年、実質的に自民党の一党独裁が続いてきています。公明党という自民党を補完する政党がくっついていたり、わずかな期間だけ自民党を離れた人たちによって作られた党が政権をとったりはしていますが。特に安倍政権以降独裁制は顕著になり、首相自らが「私は立法府の長だ」と言うほどに議会は形骸化され、国にとって重要な政策が国会での審議を経ずに、「閣議決定だ」と言って、閣議(全大臣による合議体。全大臣は時の政権党に属しています)だけで決まってしまっています。決まった経緯を明らかにするように、情報開示を求めても全体が真っ黒に塗られた資料が出てくるだけです。それどころか、さっさと廃棄もされます。議事録は作らない、残さないという指示も出ているようです。国会での説明を求めても、はぐらかしの答弁で時間を稼ぎ、結局、説明もしません。口ではいつも「丁寧に説明していきたい」と言っているにもかかわらずです。
この仕組みを支えるものとしての法律
既に述べたように、この世界の富やサービスは、働く人によって作られ、提供されています。そして、いまそれは衣食住などの生活費も含め、お金と交換することによって得る仕組みになっています。したがって、持っているお金の量を比較することによって、この世界の富やサービスをそれぞれの人が手に入れることのできる量の比較ができるわけです。その比較をすると、一部の人が一般的な人の百万倍、千万倍の富やサービス(働く人が作り、提供している)を手に入れることができるという、実に理不尽なものになっていることがよくわかります。でもそれは合法的なのです。むしろ、「法」はそのような仕組みを守るために作られているということが言えます。
近代市民法には3本の柱があります。それは、「所有権の絶対」「契約の自由」「基本的人権の保障」の3本です。「所有権の絶対」とは、何らかの物の所有者は、何の制約なく自由にその物を使用し、そこから収益を上げ、また、処分ができるという原則です。法はこの原則を犯そうとする者から所有者を守ります。「契約の自由」とは、その当事者が自由に契約を結び、その内容を決められるということです。民法はその契約のルールを定めたものです。「基本的人権の保障」とは、何人も等しく人権(人として生きる権利)を持っており、それを保障するということです(実際に保障されているかは別の話ですが)。これは、何人も等しく契約を結ぶ当事者になることができるという意味でもあります。法的には、物の売り買いは売買契約、就労は労働契約を結ぶことによって法的拘束力を持つことになります。
ある人の所有物は所有権として守られ、その所有物は売る人と買う人との間に結ばれる売買契約を介して交換されます。労働契約も同じで、労働力を買う人とそれを売る人との間に結ばれる実質的な売買契約です。契約の内容は当事者の話し合いで自由に決められます。一般的には、その時の社会、経済情勢の中で市場価格というものが決まり、その価格で取引が行なわれます。労働契約での労働力の価格=賃金も同じなのですが、そこには大きな問題があります。適正な価格が成立するためには売り手と買い手との間の力の均衡が必要です。どちらかが大きな力を持っているとその価格は力を持っている方にとって有利な価格となります。労働市場で見ると、買い手は売り手に対し圧倒的に優位となります。買い手は「この価格で買いたい。いやなら他を探す。売り手はいくらでもいる」と言えます。しかし、売り手は、買ってもらわなければ生きてゆけません。なにしろこの世界では衣食住すべて生活に必要なものはお金で買わなければならず、そのお金は自分の労働力を売ることでしか得られないからです。
この事実を認め、その力の差を埋めるための法律があります。それが労働法です。その一つ労働基準法では、労働者が劣悪な条件で働かされることがないように、労働時間や休日など働かせ方の基準が定められています。また、労働組合法では、労働者の団結権を認め、労働条件の改善のために集団で、つまり組合として会社側と交渉ができることを定めています。しかし、会社側としては、労働者を以前と変わらない条件で働かせながら、話し合いはいつまでも続けることができるので、労働者側にとって交渉は、話し合いがいつまでも続くだけの意味のないものになってしまいます。そこで与えられているのが「ストライキ権」というものです。ストライキとは、日本語に訳すと「同盟罷業」となり、労働者が同盟して仕事を拒否することを言います。ストライキが続けば会社側の損失はどんどん大きくなります。また、労働者側もストライキ中の賃金は支給されないので長期のストライキはできません。したがって、そこに力の均衡がはたらき、双方が一定の譲歩をすることになって、労働者側としては労働条件の一定の改善を得ることができるようになります。
何年も前は、毎年、恒例のようにストライキは行なわれてきました。特に交通機関でのストライキではバスや電車が止まってしまうので、一般市民に大きな影響がありました。しかし、市民も労働者であり、他の労働組合であってもそのストライキを受け入れていました。ところが近年はストライキが行なわれている現場をほとんど目にすることがなくなりました。労働条件が十分に改善され、賃金も不足のない金額になったからでしょうか。そんなことはないということはみんなが知っています。長時間労働や過酷な労働、そしてパワーハラスメントなどによって会社を辞めたり、自殺をしたりする人が後を絶ちません。結婚して子供を持ち、育てるには十分な収入がないとして、結婚する人が少なくなり、出生率が下がり、人口が減少しています。特に母親一人で子供を育てている人たちの中には「子供の長い休みはいらない。給食がなくなるし、子供の世話をしなければならない時間が増え、生活費を稼いでいる日々の仕事に支障が出るから」と言う人たちもいます。大学で勉強したいという若者の中にも、親からは十分な学費をもらえないので、アルバイトをしながら、また、奨学金という借金をしながら大学に通う人たちが大勢います。彼らは数百万円という借金を背負うかたちで卒業ということになります。先日は、渋谷の駅前で若い乞食を幾人か見て驚きました。このようなことになっている一因は、労働者の組織率の低下や、「連合」などの大きな組織であるにもかかわらず、労働条件の改善要求を怠っていることにあります。むしろ、労働者の不満を吸収して会社側に迷惑をかけないようにする組織に成り下がっているという声もあります。「連合=経団連労務部」という言い方をする人もいます。その一方で、景気がよくないと言いながら、どこそこの企業が史上最高の利益を上げたというニュースをよく見ます。そして株価が上がり、その利益は労働者にではなく、経営者を含む株主に還元されています。だからこそ、その利益を受けられる人たちのところに富が集中してゆくことになります。
どんな仕組みにすればよいのか?
ではどんな仕組みにすればよいのか、むつかしい問題です。こうすればすべての問題が一気に解決するなどという仕組みなんてありません。共産制によってすべての問題が解決できるはずがありません。そもそも共産制そのものが具体的にどんなものかもよくわからないのです。マルクスでさえ具体的には答えられなかったと思います。「富はそれを作り出した人たちに返す」とか「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」と一般論としては言えても、それを実現するために具体的にどういう社会の仕組みにすればよいのかを考えるときには、問題は山ほどあります。できるのは、これはどうだ、あれはどうだといろいろな仕組みを考え、それを試してみて、不具合があれば修正してゆくという方法しかないはずです。試行錯誤です。しかし、問題はその「試してみる」ということが簡単にはできないところにあります。いまの仕組みによって潤っている人は、その潤いをもたらす根本のところを変えることには大きな抵抗をします。そして、彼らは、政治の実権を握っているのでそこを変えるような政治はしません。むしろ、より多くの富が自分たちに集まるような政治をします。
また、彼らは各種メディアを使って、それを変えることは「悪」だと思うように人心をコントロールもします。共産主義は彼らに潤いをもたらしている根本のところに焦点をあて、変えようという考え方です。だからこそ「共産主義=悪」というイメージが人々に植え付けられているのです。しかし、生きるか死ぬかのぎりぎりのところに追い込まれ、もはや心の持ち方では解決できない人々は彼らの「聖域」に踏み込もうとするでしょう。そのときは、彼らが持っている暴力装置(警察や軍隊)を起動させ、抑え込むことになります。その暴力は科学技術の発達によってより強力なものになってゆきます。かつては群衆というものが時の権力者を倒すほどの大きな暴力を持つことができました。しかし、いま彼らが持っている暴力はそれを凌駕するほどに大きく、効率的で、それを持つものを倒すのは困難になっています。また、人々を監視する技術も大きく進歩し、人々が集団を構成して権力に逆らうことそのものができなくなってきています。2017年には、2人以上の者が犯罪を行うことを話し合って合意することを「共謀」として処罰する法律が作られています。実行されたかどうかにかかわらず、共謀しただけで関係者が処罰されます。労働組合は2人以上のものが会社にとっては不利益になることを話し合って合意し、実行する組織なので、労働組合を作ろうと相談するだけで、業務妨害をする相談だということになり、共謀罪で言う犯罪になって逮捕され、処罰される時代が来るかもしれません。先ごろ、自民党の高市早苗氏は、警察による通信傍受の強化や、警察官が身分を偽装する仮装身分捜査の導入を検討すべきだと言っています。
民主主義の問題
表面的に暴力は見えなくても、巧妙に隠されたかたちでも暴力は行使されます。その例が民主主義です。多数決は一見公平な決定原理に見えます。しかし、まず、少数の側が多数の側に従わなければならないということそのものが問題です。多数の側にとっては都合がよくても、少数の側にとっては耐え難い場合もあります。そのときは少数の側にとって暴力的なものとして感じられることになります。従わなければ実際に物理的暴力が発動されます。そのために警察や軍隊という暴力装置が用意されています。日本も含めて多くの国で、警察や軍隊の暴力が他国に対してより自国の市民に対して振るわれているのをメディアの報道などでよく見ていることと思います。
なお、民主主義はダメだということではありません。チャーチルの有名な言葉があります。
「民主主義は最悪の政治形態といわれてきた。他に試みられたあらゆる形態を除けば」
いままでに試みられたものの中では最善ではあるがいろいろな問題があるということです。ですから、その運用には十分な注意が必要だということです。大切なことは少数者への配慮です。多数決で決まったことを実行するとき、反対した少数者にどのような影響をもたらすのかということを見極め、適切な処置が必要だということです。社会を維持するためには、勝者が総取り(全てを取る)をするような仕組みは避ける必要があります。内田樹氏の「“全国民が同程度に不満顔”が民主政の理想なのである。民主政はそれを目標にすべきなのである」という言葉は意味が深いですね。
現在の代議員制度にも大きな問題があります。多数決と言っても、議院内閣制では、まず、選挙によって代表者=議員を選び、その議員によって評決が行なわれます。したがって、議員の選び方によっては、多数者の意思とは異なる評決ができることになります。世論調査では半数以上が反対していた、あるいは反対している集団的自衛権の行使や東京オリンピック、原発再稼働、その増設、大阪万博、カジノ、などなどが決定され、強行されています。選択的夫婦別姓制度も国民の半数以上が賛成しているのに導入されません。従来の健康保険証を廃止してマイナンバーカードに機能を移すという施策も同じです。どうしてこんなことになるのかと言えば、その一因として、2012年12月23日の投稿で説明した「小選挙区制」があります。自民党と公明党が獲得した票数は合わせて26,692,148票(有効投票数の約45%)、それ以外の党が獲得した票数の合計は32,781,175票(有効投票数の約55%)であり、後者の方が約600万票も多いにもかかわらず、獲得議席数はなんと前者が246議席、後者は54議席なのです。ほぼ5:1であり、獲得票の少ない方が、多い方の5倍近い議席を獲得しているのです。議会制民主主義とは言っても、これでは多数決の原理さえ成り立っていません。これは小選挙区制という選挙制度によるものですが、その弊害がこれほどはっきりと出ているにもかかわらず、改められません。一度この制度で権力を握ったものがそれを変えようとしないのは当然とも言えます。結果としてこの体制、権力を持つ者の独裁は続くことになります。
それでもやるしかない
このように見てくると、いま虐げられている人たちにとって、この世界はどうしようもない地獄のように見えます。自殺者が多いのもうなずけます。“うぴ子”というシンガーソングライターが歌っています。
「(自殺した人たちは)きっと死にたかった訳じゃなかったんじゃないか?きっと生きることができなかったんだろ」(「翼の折れた弱き天使たちよ」から)
しかし、そんな中でも、少しでも多くの人がその苦しみから逃れることができ、生きるに値する、そういう世の中を作ってゆこうとする試みを、困難ではあっても実際にやっている人たちが大勢います。それぞれの試みが成功するかどうかはわかりません。やってみなければわかりません。しかし、そういうことをすることでしか人類を救う道はないと思います。この世界はおかしいけれど、それは変えることができるはずです。人類にとって、いまのこの世界の仕組みは、歴史の浅い、特別なものであって、変えられない永遠のものなどではありません、ましてや最善のものでもありません。過去の人たちはけっして野蛮でバカな存在ではありませんでした。いまの仕組みが世界を席巻する前には、いろいろな社会的形態を持つコミュニティーが存在していたし、現在の仕組みができあがりいまに至る時間よりもずっと長く続いたものもあります。強いものが暴力的に支配するような社会だけではなく、小規模ではあっても、争いがなく、メンバー全員が衣食住に不自由のない生活ができるような仕組みを持つ社会も存在したことはデヴィット・グレーバーやジャレド・ダイアモンドなど、すぐれた人類学者が明らかにしています。しかし、いまの仕組みはそれらをことごとく邪魔なものとして破壊し、世界中を自分たちにとって利益になるものに変えてしまいました。
絶対的な権力者をつくってはならない
これからの新しい仕組みを模索するとき、「特別な力を持つ権力者をつくらない」ということは最も大切なことの一つだと思われます。19世紀イギリスの思想家・歴史家ジョン・アクトンは「権力は腐敗する傾向を持ち、絶対的な権力は絶対的に腐敗する」と言っています。これは人類の歴史が証明していることです。「人間」が持つ本質的な性質からそうなってしまうのだと思われます。何らかの制度を設計しようとするとき、人を含めてそこにかかわる要素のそれぞれの性質を無視するようなことはできません。それを無視した制度はすぐに崩れてしまいます。ロシア革命でも中国の革命でも、その点で失敗して独裁制を招き、多くの人が犠牲になりました。人間が絶対的な力を手に入れるとどうなるかを証明するものであったわけです。だから、「特別な力を持つ権力者をつくらない」=「特定の人に権力を集中させない」ということは非常に大切なことなのです。
日本共産党は普通の市民のための政策をいろいろと提言しています。その内容は良いものだと思います。しかし、懸念されるのはその組織の在り方です。書記長や委員長に大きな権限が集中しているのではないでしょうか。組織の内部での決定事項に各党員の意見がどれほど反映されているのでしょう。党首公選制の導入を呼びかける著作を出版したことで松竹伸幸さんが除名されたという事件がありました。これは、党組織が権力的であることを映し出しているのではないでしょうか。このことで共産党は怖いというイメージが強化されてしまいました。多くのシンパが離れていったことは間違いありません。それでも、共産党は党として反省をしていません。幹部は、この処置は正しかったと思っているのでしょう。
この他にも、人が共生してゆくためには考慮しなければならないことは山ほどあるでしょう。たとえば、人の能力の内容やその優劣は人それぞれ異なりますが、特定の能力が高いというだけで、分配される富の量が異常に多くなり、その反動を受けて、他方で生きるに困難な量の富しか得られない人たちが生まれてしまうという制度を作ってはなりません。自ら選ぶことができない条件、生まれた場所や家庭によって極端な貧富の差が生じるような制度も同様です。
マインドコントロールから逃れよう
これからの仕組みを考えてゆくとき、これしかないというマインドコントロール(心を操ること)からの脱出が必要です。日本でいまの仕組みが導入されてから200年も経っていません。世界を見ても300年前はこの仕組みが発展するきっかけとなった産業革命さえ始まっていません。いまの仕組みから出発するしかありませんが、それは、いまの仕組みを受け入れることではありません。ヘーゲルによると哲学は「現在的かつ現実的なものを把握することであって、彼岸的なものをうち立てることではない」「哲学が現実の世界を越え出ると思うのは、ある個人がその時代を跳び越し、ロドス島を跳び越えて外に出るのだと妄想するのとまったく同様におろかである」と言っているそうです。そこから、「現在的かつ現実的なもの」が「いまの仕組みで動いているこの世界」であり、「すべての人が生きるに値する世界」は「彼岸的なもの」であり、そんな世界が実現できると思うのは妄想であり、愚かなことだと拡張解釈をする人がいます。ヘーゲルの真意がどうなのかはよくわかりませんが、そのような解釈をするならば、いまの仕組みに適応できない人々にとって、この世界は地獄であり、絶望するしかありません。しかし、いまの仕組みは人類史の中の一つの点でしかありません。そして、最善の仕組みでもありません。もしかすると、人類を破滅に導く最速、最悪の仕組みかもしれません。ですから、人を幸福にしない、いまの仕組みとは別の仕組みを考えることは妄想などではなく、それを実現しようとすることも愚かなことはありません。
先日、兵庫県知事選挙が行なわれました。死者2名を出すなどの数々のパワーハラスメントによって県議会が全会一致で不信任決議をし、知事が失職した後の選挙です。なんと、その元知事が再度、知事として選ばれてしまいました。どうしてこんなことになったのでしょうか。いろいろな理由を考えることができますが、ここでも、一種のマインドコントロールが働き、教養あるはずの人までもが元知事に投票してしまうという現象が起きています。街頭演説やSNSなどでの巧みな広報活動によって、加害者が、まったく反対の被害者であるかのようなイメージが作られました。つまり、元知事はマスメディアによって不当なレッテル(パワハラで2人も自殺に追い込んだ人、部下に対していつも高圧的な態度をとっていた人、視察先ではよく現地の特産品をおねだりしていた人など)を貼られ、県議会で不信任決議を受け、辞職させられたかわいそうな人、つまり被害者であるとしてのイメージがつくられたわけです。それを多くの人が真に受けてしまったことが今回の結果につながったということです。この戦略をプロデュースし、実行したのが株式会社merchu(折田 楓社長)であり(*)、援護射撃したのがN国党の立花氏です。なお、今回の広報活動についてmerchuがその報酬を受け取っていたら公職選挙法違反となり、知事の当選は無効になります。
* 斉藤知事は、「基本的にはご意見は伺ったり、アイデアは聞いたりしたが、斎藤陣営、斎藤元彦として主体的に対応した」「ポスターの制作などの制作費として70万円ほど支払った」と説明していますが、merchuの折田社長はネットに次のような投稿をしています。
・ご本人(斉藤知事)は私の提案を真剣に聞いてくださり、広報全般を任せていただくことになりました。
・私が監修者として、運用戦略立案、アカウントの立ち上げ、プロフィル作成、コンテンツ企画、文章フォーマット設計、情報選定、校正・推敲、フローの確立、ファクトチェック体制の強化、プライバシーへの配慮など責任を持って行い、信頼できる少数精鋭のチームで協力しながら運用していました。
・質・量・スピード全てが求められ、食べる暇も寝る暇もないほどでした。
なお、この投稿は、公職選挙法違反の疑いがあるとの話が出始めるとすぐに問題になりそうな部分が削除されました。これだけの仕事を会社としてほぼ無償でやっていたとすれば、会社が贈賄側、斉藤知事が収賄側の贈収賄事件になります。両者は知事再選前から親密な関係にあり、斎藤知事が2021年に当選後、折田社長を兵庫県の各種委員(eスポーツ検討委員、地方創生戦略委員、空飛ぶクルマ会議検討委員)に次々と任命していたことがわかっています。また、eスポーツ事業の委託金額が、斎藤知事になって倍増もしています。そのほかこの会社は兵庫県からつぎのような認定も受けています。
・公益財団法人ひょうご産業活性化センター「チャレンジ企業」
・「兵庫県成長期待企業」
・ひょうご仕事と生活センター「ひょうご仕事と生活の調和(ワーク・ライフ・バランス)推進企業」
・ひょうご産業SDGs推進宣言事業 / ひょうご産業SDGs認証企業
・ひょうご・こうべ女性活躍推進企業(ミモザ企業)
冷静に考えればわかることだと思います。知事はパワハラで2人も自殺に追い込んだ人、部下に対していつも高圧的な態度をとっていた人、視察先ではよく現地の特産品をおねだりしていた人であることは多くの関係者が証言しており、だからこそ県議会において全会一致で不信任決議を受けたのであり、百条委員会にかけられている人なのです。一方、関係者のそれぞれの証言がウソであるということはまったく立証されていません。だからけっして不当なレッテルなど貼られておらず、事実が報道されているだけなのです。それにもかかわらず、元知事かわいそう、元知事=被害者というムードが作られ、多くの人がそのムードに流されてしまうことになりました。これはマインドコントロールです。ちなみに、大阪の維新は吉本興業、そしてテレビとタイアップして日常的に大阪府民の前に顔をさらすことによって、親しみを覚えさせることで選挙に圧倒的に強くなっているのも同じことです。今回の衆議院議員選挙で大阪府の全小選挙区で維新が勝利しました。しかし、他府県では大きく当選者数を減らしています。大阪、兵庫、和歌山、京都以外に大阪のテレビ局の電波は届かないからです。「大阪から遊びに来ていた母親が首都圏のテレビを見て、吉村さんが出ていないとびっくりしてました」というX(旧Twitter)への投稿も見ました。
ヒトラーはマインドコントロールによって自らの独裁体制を築いてゆきました。最後にネットに掲載されていた【ヒトラーの大衆扇動術】を紹介しておきます。
・大衆は愚か者である。
・同じ嘘は繰り返し何度も伝えよ。
・共通の敵を作り大衆を団結させよ。
・敵の悪を拡大して伝え大衆を怒らせろ。
・人は小さな嘘より、大きな嘘に騙される。
・大衆を熱狂させたまま置け。考える間を与えるな。
・利口な人の理性ではなく、愚か者の感情に訴えろ。
・貧乏な者、病んでいる者、困窮している者ほど騙しやすい。
・都合の悪い情報は一切与えるな。都合の良い情報は拡大して伝えよ。
・宣伝を総合芸術に仕立て上げろ。大衆の視覚聴覚を刺激して感性で圧倒しろ。
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