思いつくままに

ゆく河の流れの淀みに浮かぶ「うたかた」としての生命体、
その1つに映り込んだ世界の断片を思いつくままに書きたい。

敵が攻めてきたらどうするのだ!

2023-10-10 11:35:16 | 随想

壱峻島黒崎半島の砲台跡

 「敵が攻めてきたらどうするのだ!」「攻めてきたときに備えて、負けないような反撃力を持たなければならない」「攻めてくる気配を感じたら、敵基地を先制攻撃することも必要だ」

 この言葉は、あまりものを考えない人たちに対して、強いメッセージとなり、現在の政権がやっている「この国を軍事国家とする」政策を支持する根拠を与えています。しかし、この論理を認めるということは、この政権が敵としている国(中国や北朝鮮)も、上記と同様に主張して自国がより強くなるために軍備を増強することを非難できなくなってしまいます。この論理は、敵より強くなければならないという強迫観念のもと、必然的に、世界中が際限のない軍拡競争をすることを導き出すものです。

 おそらく、先の論理を展開し、軍事力を高めようとする人たちは、日本がそうする権利を主張すれば、敵国であるとしている中国や北朝鮮にも同じことをする権利が生まれるということには思い至らないのでしょう。だから、北朝鮮がロケットを打ち上げるたびにそれを強く非難し、大騒ぎをするわけです。自分だけはそうする権利があるが、他者には同じことをする権利はないという典型的な自己中心的考え方です。

 同じ論理を使って、これを個人間の問題として置き換えるとどうなるでしょう。 「誰かが襲ってきたらどうするのだ!」「だから、身を守るために相手に負けない体力と武術を身に着けることが必要だ」「相手はナイフや銃器を持っているかもしれない。だからこちらもそれを持つ必要がある」「襲ってきそうなやつは先に叩いておくべきだ」となります。先の論理にもっともだと賛成する人は、当然、これも受け入れる必要があります。同じことを言っているわけですから。

 人々はその歴史の中で、個人にせよ、集団にせよ、相争うことが人々を不幸にすることを学んできました。軍拡競争というものがいかに危険で、不毛で、人々を不幸にするかを学んできました。権力者の命令で、何のうらみのない人々が殺し合いをさせられ、軍備を増強するために、人々は重税にあえぎ、貧しく、みじめな生活を強いられることも目の当たりにしてきました。戦争が起きれば、敵によって町や村が破壊され、大勢の人が殺されます。また、権力者であっても、より強い相手に滅ぼされることに怯え続けることになります。軍拡競争の中で、核兵器という人類絶滅兵器まで生み出されました。その威力の一端が広島、長崎で示されました。だからこそ、個人も国も共存するために、互いに理解しあい、争いを避ける努力をしてきたのです。

 世界が「力こそ正義なり」という考え方に戻ってしまうなら、力のないものは虐げられ、争いの絶えない野蛮な世界に戻るということになります。また、核兵器という人類絶滅兵器を手にした中で争いを継続すれば、勝者も敗者もなく、もう人類そのものが滅亡してしまうかもしれません。急速な温暖化による地球環境の変化が人類を滅亡させるかもしれないというこの時期であるにもかかわらず、争いを続け、この危機に真剣に向き合わないとすれば、どちらが原因になるにすれ、滅亡の可能性は高まり、その時間は早まることでしょう。

 戦後、小学校や中学校で教えられてきたのは、「個人であれ国であれ、互いに理解を、そして友好を深めることが大切だということ」「問題が生じたときは平和的な手段によって解決し、暴力的な争いは避けるべきだということ」「平和というものがいかに大切かということ」などではなかったのでしょうか。それを体現したものが日本国憲法という平和憲法であり、国民は歓迎したはずです。「国を守るためには、国民は命を捧げる覚悟が必要だ!」などとは決して教えられてはきませんでした。先の戦争では多くの国民が国を守るために命を捧げました。それにもかかわらず敗れてアメリカの属国となってしまいました。ここにきて現在の政権の中に、またもや戦争を肯定し、「国のために命を捧げる覚悟が必要だ!」とあの時と同じことを叫ぶ人が増えてきました。そういう彼らにとって平和憲法はじゃまものです。だからこそ、憲法を変えようと盛んに述べ立て、戦争ができるようにしようとしています。恐ろしいことです。

 あの戦争中、戦前は、偉そうに勇ましいことを言う人がたくさんいましたが、それを声高に言う人ほど、安全なところにいて、人々を戦場に追い立てたり、敗戦を知ると(彼らは一般国民より早くそれを知ることができる立場にいました)国民を見捨て、真っ先に逃げ出したりして、その後も天寿をまっとうしたということを忘れてはなりません。いまもそれは同じです。勇ましいことを言っている人たちは、自分自身が戦場に出かけ、先頭に立って命をかける気持ちなどみじんも持っていないことは容易に想像できます。「戦争ではそれぞれ役割がある。俺たちは作戦をたてたり指揮をしたりするのが役割であり、戦場で殺し、殺されるのはお前たちの役割であり俺たちの役割ではない」と言うことでしょう。

 また、彼らは日本が戦争を始めたら「集団的自衛権」があるので、すぐにアメリカが助けてくれるはずだと思っています。しかし、よく考えればアメリカが助けてくれるなどあり得ません。「どうして日本のためにアメリカ人が血を流し、死ななければならいのか」とアメリカ国民は言うことでしょう。集団的自衛権の行使は、アメリカが始めた戦争に、その属国たる日本が駆け付けるためのものです。逆はあり得ません。と言うのも、例えば尖閣諸島をめぐって日本が中国と戦争を始めたとします。そこにアメリカが参戦するということは、アメリカと中国が戦争をすることになります。それがアメリカにとってどれほどの利益になるのか、反対にアメリカがどれほど大きなリスクを負うことになるのかを考えればすぐにわかることです。アメリカにとって尖閣諸島の領有権が中国に移ったとして、国の命運をかけて戦争をするほどの事件ではないことは容易に想像できるでしょう。だから、アメリカは日本と一緒になって中国と戦うことなどするわけがありません。

 政府は盛んに中国や北朝鮮を危険視し、危機を煽って「もっと軍事力を高めなければならない!」と巨額の税金を支出しています。しかし、少し考えればわかるはずですが、軍拡競争というものは各国が平等な条件のもと、一斉に始めるようなものではありません。その競争は人の人生と同じように、そのスタート地点から平等ではないのです。保有する資源、地勢、位置、気候、そして歴史、文化、そこから生まれる国民の意識等々、国によってすべて異なります。それらは軍事的に強大になるための条件としてかかわってきます。より良い条件を持っている国が必ず勝ちます。資源もなく、遅れてきた国が敗れるのは必然です。それは先の戦争で証明されました。

 それにもかかわらず、また同じことをするのはバカだとしか言いようがありません。そんなバカだけが苦しみ、そして始めた戦争で死ぬのであれば放っておけばいいのかもしれません。しかし、そんなバカによって行なわれる軍拡政策、そして戦争で、この国の多数の人が重税にあえぎ、苦しみ、あげくは殺されるのです。そんなバカたちは余裕のある生活をし、戦争が始まっても安全なところにいて、戦場には行かず、殺し合いもしないのです。それどころか、戦争を忌避するものを背中から銃で撃つのですよ。そんなことを許してはならないと思いませんか。

 もっとも、彼らもそれほどのバカではなく、核兵器による戦争が起きれば自分たちも危機にさらされ、死んでしまうかもしれないことくらいはわかっていて、実際に戦争などするつもりはないのかもしれません。それにもかかわらず、軍拡を叫び続けるのはどうしてなのでしょう。それには、軍事力を高めることで誰が得をするのかを考えるべきです。まず、アメリカです。日本が社会保障のための費用を削り、さらに増税をして、アメリカから在庫の旧型武器を爆買いすることで、アメリカの軍需産業を儲けさせています。また、政府はこのほど、殺傷能力のある武器(殺傷能力のない武器なんてあるのでしょうか?)の輸出を認める方向にかじを切ったとのことです。国内の軍事にかかわる産業もこれからどんどんと儲けが大きくなることでしょう。つまり、彼らが盛んに危機を煽るのは、軍事力を高めることが一部の人たちの大儲けにつながるからではないでしょうか。政治家はそれらの人たちからキックバックを受けることを目的に政治をしているように見えます。「国を守るため」という彼らの言葉は本当の意図を隠すための方便です。そうであれば、そんな彼らから、本当の意味でこの「国」を守ろうとする人が「愛国者」です。「反日」「非国民」とは、自分たちが金もうけをするためにこの国を食い物にする連中のことです。

 「敵が攻めてきたらどうするのだ!」「敵の攻撃に備えよ!」

 この言葉は、人類を苦しめ、そして滅亡に導く呪文です。

 

 



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