朝日新聞4月27日朝刊の論壇時評に、小熊英二さんが大変重要な指摘をしていた。「原発の再稼働の是非が議論されている。そこで欠けがちなのは、原発のコストは社会のリスク感によって変化するという視点である」というものだ。「原子力発電のコストは、実は大部分が安全コストである」から、「人々が安全やリスクに敏感になり、人権意識が浸透すれば高くなる」とのこと。外国に頼っているウラニューム鉱石の採掘や精製について . . . 本文を読む
2月23日のブログで東電の責任について書いたが、そのとき、「僕のお父さんは東電の社員です」という本について、書評だけを見て批判めいたことを書いた。書評だけを見てという点で、後ろめたい気持ちがずっと残っていたので、最近、その本を全部読んでみた。
「僕のお父さんは東電の社員です」という小学生(ゆうだい君という仮名で扱われている)の手紙は、毎日小学生新聞への投書であり、それは、同じく毎日小学生新聞 . . . 本文を読む
「教卓のこちら側」と「あちら側」の間には乗り越えがたい知的位階差があるという信憑が成立する限り、そこでは教育が機能する。これが内田樹さんのブログでの主張だったと思う。「先生はえらいのだ」ということが社会的に合意されていれば、教壇の上に誰が立とうが教育は成り立つということだ。
でも内田さんは言う。「私たちは大学に進学した後に「教師はただ教卓の向こう側にいるだけで、すこしも人間的に卓越している . . . 本文を読む