我が家の御先祖樣「坂田萬味」
萬味、名は道則、俗稱は保兵衞、父は與右衞門也、安藝國賀茂郡西城白市村木原の城主平賀陸奧守家臣田坂左門の末裔にして、廣島市紙屋町に居住す、伊豫屋と號し萬問屋商たりし、享和三年坂田と改姓商を廢て印判職となる、蓋し萬味は寛政十二年紙屋町に生れ、與右衞門の二男なり、父の業を繼ぎ印判彫刻師たり。天保十四年奧田壽太を師として、石門の學を修め、性理の蘊奧を究めて、善導教授竝道話を許され、壽太に從て前講せり、後ち京都明倫舍より諸國印鑑を受け、廣島及郡村に聘せられ、心學道話をなせり。明治六年二月、教部省より教導職十四級試補に命ぜられしが、老且病あるを以て布教するを得ざりき、而して同九年十二月五日、廣島市臺屋町の自邸に於て、歸天す、享年七十有七、神葬式を以て比治山墓地に埋葬す。
「藝備偉人傳 上卷」
萬味、名は道則、俗稱は保兵衞、父は與右衞門也、安藝國賀茂郡西城白市村木原の城主平賀陸奧守家臣田坂左門の末裔にして、廣島市紙屋町に居住す、伊豫屋と號し萬問屋商たりし、享和三年坂田と改姓商を廢て印判職となる、蓋し萬味は寛政十二年紙屋町に生れ、與右衞門の二男なり、父の業を繼ぎ印判彫刻師たり。天保十四年奧田壽太を師として、石門の學を修め、性理の蘊奧を究めて、善導教授竝道話を許され、壽太に從て前講せり、後ち京都明倫舍より諸國印鑑を受け、廣島及郡村に聘せられ、心學道話をなせり。明治六年二月、教部省より教導職十四級試補に命ぜられしが、老且病あるを以て布教するを得ざりき、而して同九年十二月五日、廣島市臺屋町の自邸に於て、歸天す、享年七十有七、神葬式を以て比治山墓地に埋葬す。
「藝備偉人傳 上卷」