二本足の學者を目指して

賢を見ては齊しからん事を思ふ

平成三十年一月五日(金)近代日本の宿命に就いて語らうと思へば

2018-01-05 17:04:28 | 文學、精神、そして魂
 近代日本の宿命に就いて語らうと思へば

 漱石の「こゝろ」を讀んでゐる人がゐたので、「こゝろ」の「先生」にせよ、「三四郎」の廣田先生にせよ、近代日本の宿命を背負つた知識人なのです、と書き、自分が尊敬してゐる小林秀雄、福田恆存、松原正、そして留守晴夫氏も、その系譜に連なつてゐるのです、但し、近代日本の宿命とは何ぞやと云ふ事になれば、話が長くなるので省略します、とも書いた。成程、慥かに「近代日本の宿命」と云ふ事を、誠實に語らうとすれば、長くなるし、それは大論文の形となる。だが、未だその大論文を書けるだけの知識と伎倆は、私には無いだらう。知識と伎倆を得る爲、勉強するだけの時間さへ、私にはない。學者にでもなれば、或は時間が手に入るのかも知れないが、生憎、そんな宛は全くない。それに大學(院)で學者になれたとしても、大學(院)の先生は、教育者の側面も擔つてゐるのだから、研究のみと云ふ訣にも行くまい。今の知識人の中には、本を書く事で、収入を得てゐる者もゐるが、昔は、本を書く爲にお金を貯めた。本居宣長もさうで、彼は小兒科醫でありながら、お金を貯め、「古事記傳」を書いた。本が出たのは、本居宣長が死んでからであつた、と云ふ事を小林秀雄は語つてゐる(※1)。明治の時代から、今日迄、純文學をやるには、金持ちの息子娘でない事には不可能と云ふ事を、何處かで小谷野敦が語つてゐたのを讀んだ記憶がある。恐らく、「近代日本の宿命」と云ふ大論文を書いても、商業的には償ふまい。そんな論文を書籍化するには、自分で金を貯めるしかない。尤も今の時代、インターネットにアップロードするだけで、世間には簡單に公開出來るのだが。だから、出版に就いて、どうかう考へる必要はない。問題は、自らの生涯をとほして、どれだけ勉強出來るかである。物質的生活に留まらず、精神的生活に迄、自らの暮しを昇華出來るかである。それは、古今東西の文化(樣々な言葉)に就いて、より良く知る事であるし、亦、自らの精神を、生涯をとほして、自らが尊敬してゐる偉人賢人のそれに近附けようと背伸びする事である。慥か、今更、近代でもあるまいと云ふ事を、保守派の新保祐司邊が發言してゐたと記憶してゐるが、この事に就いては、近代日本に肖らうとして、肖り切れない宿命と云ふものに、新保が耐へられなくなつただけのものと私は考へる。近代日本に肖るとは、正字正假名の習得は勿論、古文漢文の素養も必要とされ、西洋の言語にも通ずる必要がある。亦、神佛儒(加へて心學)やクリスト教に就いても、通ずる必要がある。さう云ふ遠囘りをやつてゐる知識人は、少くとも大マスコミには登場してゐない。マスコミは、自分達に都合の良い知識人しか、使はないからである。その點は、産經新聞とて同じである。

 (※1)國民文化研究會・新潮社編「小林秀雄 學生との對話」(新潮社)
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