二本足の學者を目指して

賢を見ては齊しからん事を思ふ

平成三十年一月三十日(火)學者馬鹿と學者馬鹿の本を讀むインテリ

2018-01-30 08:54:07 | Writing various things
 學者馬鹿と學者馬鹿の本を讀むインテリ

 以下は、此方のブログ記事からの引用である――。

 つい最近のこの欄にも書いたが、内田の政治論は讀むにたへない。笑つて讀みとばすこれが作法である。でも所どころに氣の利いた臺詞が出てくる。それがいいのだ。

 フランスのホテルやファストフードでの接客について。

「無償の笑顏は文字通り無償であり、彼らにさして良きことをもたらさない。それよりは、權限の範圍内で『いけず』をして、觀光客に屈辱感を味はゝせる方がまだしも氣分が晴れると考へる人々が少なくないのであらう。」

 かういふことは事實なのかどうか確かめようもないが、その直感は私には當つてゐるやうに感じた。

 ――何とも馬鹿馬鹿しい愚論である。「無償の笑顏」抔と云ふものが、それもサーヴィス業に於て、存在してゐると考へる事自體、學者馬鹿である内田樹の「面目躍如」と云つた處である。サーヴィス業に於ては、笑顏もサーヴィス料に含まれてゐるし、殊更、サーヴィス料をとらない日本に於ても、笑顏は、サーヴィスをする側の自衞手段として採用されてゐる。よく謂はれる、鏡の理論と云ふヤツで、「御客樣」は鏡だから、此方側が笑顏であれば、「御客樣」の顏も自然、笑顏になると云ふ考へである。サーヴィスマン(レディ)の笑顏は、自分の爲、自分に危險が及ばない爲に行つてゐるものであつて、「御客樣」の爲のものではない。詰り、「無償」なんかではない。鏡の理論が、現實に即してゐるかどうかは別として。勿論、サーヴィス業の接客に於てに限らず、自然と出る笑顏はあるにはあるが、それが「無償の笑顏」だとして、それが、どうして「さして良きことをもたらさない」と云ふ事になるのか。接客の笑顏は、計算されたものであるから、接客として行ふ笑顏は、「無償」なんぞではない。加へて、個人としての自然の笑顏が「さして良きことをもたらさない」なんぞと云ふ事もない。

 こんな學者馬鹿の本を有難がる讀者も讀者で、「事實なのかどうか確かめようもない」「直感」に就いて、どうして「當つてゐるやうに感じ」るのか、私には理解出來ない。まあ、人がどう感じようが自由なのだが、もう少し論理的になつてはどうか。
コメント
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