合理精神と個人主義――夏目漱石「私の個人主義」
近代化の特徴とは、合理精神と個人主義にあると云はれる。近代の合理精神が齎したのが、近代以降の科學であり、この事に就いては、誰しもが、それがどのやうなものか理解も出來、イメージも出來る事と思ふ。が、個人主義に就いては、どうであらうか。どうにも今日の日本に於ては、何か自分勝手なものの考へ方、利己的と云つた風に捉へられてゐるやうだ。
個人主義は、英語にすれば、Individualismであらうか。これは、<1 independence and self-reliance. 2 a social theory that favors the idea that individual people should have freedom of action rather than be controlled by society or the government.>(「Oxford American Dictionary & Thesaurus」)とある。日本人が明確に個人主義と云ふ言葉を意識して用ゐてゐるとは思へないが、大方、2の意味に近い意味で用ゐられてゐるのが、現状であらう。
漱石は、個人主義と云ふ言葉を説明する時、自己本位と云ふ言葉を好んで用ゐた。その事は、
「私の個人主義」を讀めば分る。1は自立や獨立獨歩と云ふ意味だが、そのやうな個人が自由を尊重するのは當然として、だからと云つて、他人の自由や個性を輕視してはならない、と漱石は云ふ。自分勝手に振舞ひ、世間樣に迷惑をかけてはならないと云へば、如何にも日本的な云ひ方になるが、まあ、さう考へても、間違つてはゐない。だが、漱石の云ふ個人主義とは、迷惑をかけ「ない」と云ふやうな消極的な考へ方ではなく、飽く迄、個人の個性が、個人主義と云ふ個人と個人とを尊重する關係の中で、有用に機能しなければならないと云ふ積極的な考へ方だと私は思ふ。
そして、そのやうな自己本位である爲には、理非を重んずるべしと漱石は云ふのであり、道理を重んずる事こそが、漱石が、主に若い人々に求めた大事であつた。だが、その道理の後ろ楯とは、何處に求められるのか。話は飛躍するが、封建道徳も、(クリスト教が根柢に存在してゐる)西洋學問も信ぜられない漱石は、道義の文士たらんとするが爲、道理の後ろ楯の不在に惡戰苦鬪する事となつた。