漢が衰退し魏呉蜀三国の争いたけなわの頃、朝鮮半島も公孫氏が勢力を伸ばして、呉と結んで魏と対立を始めていた。このような状況の中で列島の主権者「倭国」はどう対応したか?、というのが今回の「時代の見る眼」である。
古代史の中で一番の人気テーマ「邪馬台国はどこにあったか」という問題も、そのような時代感覚の中で読み取らなければならないと私は考えている。いままで、邪馬台国問題はあくまで世界の動向から無関係に切り離されて、日本という島の中で独立して論議するかのような「卑弥呼の墓探し」に終始している観があった。まあ、邪馬台国は「近畿」地方にあった、などという妄想に「コロリと騙されているアホ」は完全に無視するとして、卑弥呼という「倭王の実像」を考えることは、私の宿願である「列島の古代史」を読み解く上でも絶対必要な事だと思っている。今回は斎藤忠先生の偉大な著作を読みながら、私なりの卑弥呼の実像に迫ってみよう。本を読み進めていく上で「気になった語句」にランダムに私の感想を書いていくスタイルなので、卑弥呼と直接関わりの無いものも雑多に出てくることはご承知おき下さい。なお、日本のことを「列島」と書いているが、日本という呼称は当時はまだなかったので一応、歴史の流れに沿う形で表記した。これは、斎藤忠氏に習った歴史記述の方法である。
1、倭国使は魏の明帝から大歓待を受けた
当時中国は世界に冠たる大帝国「漢」がようやく衰退し、その後を魏・呉・蜀の三国が争う戦乱の世の中であった。中国には辺境の国々から朝貢使が次々やってくる。いわゆる東夷北狄南蛮西戎のオンパレードだ。中国は自らを世界の中心と信じ(中華思想)、四囲をこのように一段下げた形で呼び、区別していた。斎藤忠氏によると当時の倭国の人口は15万戸ほどで、同じ頃に親魏大月王の金印を貰ったクシャン朝ペルシャは10万戸だそうだ。倭国は意外と「大国」なんである。魏のライバルの呉は流石に52万戸あったが、その海軍は黄海から山東半島に至る沿岸海域一帯を押さえていて、海軍力では魏の勢力を圧倒していた。朝鮮半島からも朝貢使は来ていたが、この時に金印を授与されたのは東夷では倭王ただ一人である。倭国は他の国々に比べて大国であったが、それ以上に魏の明帝が歓待した理由が「他にあったのではないか?」、というのが全体の基本テーマである。
2、都護府
都護というのは中国が辺境を支配するために各地に置いた官名である。7世紀の半ば、唐が朝鮮半島を支配下に置いた時も、高句麗や百済・新羅など、征服した土地に置かれていた。だから、太宰府にある「都府楼」も中国の出先機関だと考えても何ら不都合はない。しかし、唐が列島に都護を置いたとする記録は見つかってないようだから、九州の都府楼が唐の都護府跡だという確証はまだ無い。太宰府を守る大規模な水城や土塁などは、そもそも白村江敗戦後に唐の侵入から日本を守るために作られたとする考えを「否定する説」がある。作られた年代はもっと古く、出雲王国との戦いに備えて九州倭国が築いたものだとも言われているが、定かではない。日本が百済を応援しようとして朝鮮半島にちょっかいを出し、唐・新羅の連合軍に返り討ちにあって、もしかすると「唐が攻めてくる」とパニックになったのが太宰府の防衛施設を作った動機、という定説を我々は学校教育により盲目的に信じてきたが、大体あんな大規模な土塁を作るのには「5年や10年」では無理だという専門家の意見もある。これじゃ、唐の侵攻に間に合わないではないか?。それに近畿にある大和を守るのだったら、まず関門海峡を守るべきである。どうも変だ。私は単なる出先機関の太宰府を守るのには、ちょっと「大げさ過ぎる」とずっと思っていた。今までの歴史は一旦捨ててかかる必要がある、というのが私の信念になりつつある。
3、倭人には周の徳が伝承されていた
倭人の祖は「呉の太伯」だという。太伯はもと周王朝の古公亶父の子で、紀元前12ー11世紀の人。末弟の季歴に王位を継がせるため、弟の虞仲と共に荊蛮の地に行き、全身に刺青を彫って自ら周王となる道を断ったという逸話が残っている。そして国を興し荊蛮の人々に慕われたというのが、呉の始まりとされているのだ。その太伯の子孫が倭人だというのである。言い伝えにしても、何らかのつながりがあるかも知れないなと思う。そして、倭国使は皆「大夫」を名乗った、と記録にある。倭国人の歴史はそれほど古いと言うのだ。中国人に対して自分たちは周王朝の末裔と称するのだから、大きく出たものである。しかし、それを聞いた魏の方は「何言ってんの、バッカじゃねぇ?」的な態度を取ったとは全然書かれていないから、信じるか信じないかは別にして、ただの「ホラ吹き」とは受け取ってないようだ。十分有り得る話と受け取ったのか。とにかく列島と中国との関係は深そうである。
4、墓制が示す政権交代
他より早く交代が進んだのは、出雲・吉備地方。環壕は埋められて祭祀文化は終焉を迎える。出雲で大量の銅剣銅矛が発見されたのを見ると、銅矛勢力を鉄剣勢力が圧倒し征服したことが想像される。これを機に、続々と倭国が諸国家の自治権を剥奪して中央集権国家を作っていった流れが見えてくる。これを、「弥生体制の終わり」と考えることが、可能だとも言える。列島の古い墓制は箱式石棺墓だったが、紀元1世紀頃に「南方系甕棺墓」が中央を席巻したことと時期的に符合するのは偶然ではない。この墓制の変換は、弥生期には倭国の主要地域に広がった。祭祀や墓制の変化は、異なる宗教勢力の興隆と考えて問題ないだろう。例えば中国での王朝交代に見るような劇的な政権交代が、列島でも起こっていた、と見るのが正しい。後漢光武帝から金印を貰った委奴国は、桓霊の間の70ー80年に及ぶ「倭国大乱」で消滅し、卑弥呼を王に戴いた一大勢力によって統一されたのだ。卑弥呼は単なる宗教的指導者(シャーマン)として選ばれたのであり、戦闘には直接関与してないとされているが実は、もっと積極的に関わっていたのでは?、というのが「斎藤忠氏の炯眼」である。卑弥呼は3世紀の列島に革命を齎したジャンヌ・ダルクなのか?(続く)
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