明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

読書の勧め(7)平家物語で覚える古語言い回し・・・その ①

2021-09-22 17:06:14 | 歴史・旅行

まず今回読み始めたのは巻の四からです


○ たりふし申されければ
物語では前右大将宗盛卿が平清盛入道相国に占いのことを「垂伏」して言うので、少し思案の後、法皇を城南宮から八条烏丸美福門院御所にお移し申した、とある。この八条烏丸の美福門院御所というのは、鳥羽殿の愛妾「得子」の屋敷で、元は白河院の近臣「夜の関白・藤原顕隆」の邸であった。私的には、出てくる名前が「実に濃いぃーキャラクター」で、そちらの方が興味があるのだが今回は割愛する。たりふしとは「垂伏してねんごろに乞う」さまから転じて「切に・しきりに」の意味で使われた。「切に」といえば宗盛は事態の重大さを十分わかっていて、何とか清盛を説得しようという切迫感を感じさせる書き方になるが、この場合はまだ宗盛に、「それほどまでの先見の明」を持たせるキャラ作りは物語ではやっていない。何となく不審に思った程度の感覚で「しきりに」話している、という表現が当たっているようだ。単なる占いから事件性を読み取る危機管理能力の高さ、というリーダーの資質は、明確に清盛の役回りとして描かれている。宗盛は、壇ノ浦でも死なずに関東に送られて、暫くしてから処刑された。彼は死ぬ間際にも息子清宗のことを思うなど、武士に似合わず人間臭い家庭人としての一面があったようである。最近の歴史家からは「武士としてより、実務官僚として有能だった」という評価がでているが、平家物語では余り評判は良くない。まあ平家物語の主題がドラマチックで極端な栄枯盛衰を具に描くことにあるので、宗盛のような「平穏無事な能吏」というキャラは、物語的には歓迎されないのだろう。出来ればスピンオフ企画などで取り上げて欲しかった人物である。

○ 聞きもあへず
これは聞くのも終わらずに、または聞くや否や、ということ。「あへず」という言い方が、「取る物も取りあへず急いで外に出た」というような感じで、「〜するのを完了せずに」という意味の短縮形では無いかと私は解釈した。早急に、とも。物語では、高野別当湛増の報告で高倉宮の謀反を知った清盛は、「是非に及ぶべからず」と言って「土佐の畑へ流せ」と命令したとある。この土佐の畑とは一般的な「はたけ」ではなく、高知県の西南・「旙多」郡大方町付近で、四万十川河口の「僻遠の地」だという。島流しといっても特段「島」とは限らなくて、「遠流」というのが正確な刑の名前である。まさに、生きて帰ってくることは叶わない場所と認識されていたようだが、それでも無人島みたいなところではなくて、人が普通に暮らしているレッキとした村である。まあ都で豪奢な生活を送っている貴族達にしてみれば、生きることは出来ても「殆ど死んだような味気ない人生」だったのでは無いか。清盛にしてみれば即刻斬首したいぐらい怒り心頭に発したのだろうが、皇族ということでやむなく遠流に落ち着いたと見られる。島流しと言えばすぐに思いつく場所ということでは「俊寛の鬼界が島」が有名だが、彼の悲惨さは伝記のイメージとは違って事実よりか「ちょっとオーバー」に描かれているようである。鬼界ヶ島は現在の硫黄島のことで、鹿児島県南端南西に位置する竹島・黒島と並んでいるうちの真ん中である。第二次大戦中は日米で激しい攻防戦が行われ、クリント・イーストウッドが映画に取り上げた島としても有名だからお気づきになられた方も多いであろう。鬼界ヶ島というから遥か彼方の沖縄あたりを想像するが、佐多岬から40km余りの距離である。鹿ヶ谷事件の首謀者として藤原成経・平康頼と一緒に流されたが、後日清盛の恩赦によって成経と康頼は都に戻れた。しかし、どういうわけか一人取り残された俊寛は、出て行く船にとりすがって一緒に連れて帰るよう泣き叫んだと伝えられている。彼の身分が他の二人よりも一段低かったからじゃないか、と私は想像している。清盛にしてみれば、「僧都」などは人の数には入らないのかも。平家物語は他に例を見ないほどの「ドラマの宝庫」だから、一つ一つのエピソードを深掘りするだけで何百冊にもなってしまう。つくづく「人生の明暗」を描く至玉の名作だ、と溜息をつく。なお、平安時代は死刑廃止だったので、遠流が刑としては一番重い罪だった。これが鎌倉時代ともなると支配地域が拡大して、一般犯罪者は「夷島(北海道)」に流されたらしい。北海道といえばカニやホタテなど「海の幸」食べ放題のイメージがあるが、勿論当時は原生林広がる人跡未踏の地だったわけで、「北海道か、よかった〜!」とはならないのでご注意を。

○ 築地
屋根瓦のある土塀の。よく小説や時代劇などに出てくるが、所謂「築地塀」のことと説明されている。Wikipedia によれば、「版築」という手法で泥を付き固めたものらしい(私の想像ではレンガ状の泥を積み上げたイメージだが、果たして当たっているかどうか詳しくは調べてはいない)。中でも規模の大きいものは「大垣」と呼ばれ、特に「平城京」の南面の築地塀は大きくて、厚みが12メートルもあったという。これは実用上から言ってもデカすぎだろう!。今では見ることは出来ずただ想像することしか出来ないが、狭い日本でこの規模というのは、ちょっと無理筋なような気もしないでもない。何でも真似すりゃ良いってモンじゃないのにねぇ。まあ実用より「虚仮威し」が好きな奈良朝廷らしい建造物ではある。だが、都の大きさで言ったら前の藤原京の方が「相当大きかった」というから、藤原京どんだけ大きかったかって話。やっぱ九州倭国の皇子「高市皇子」である。太宰府に劣らぬ壮大な規模の王都を目指したと結果、唐の長安に習った日本史上初めても条坊制を備えた都が出来上がったというわけだ。私は以前にこの藤原京の跡地を尋ねたことがあるが、だだっ広い原っぱの一角に大極殿の柱を模した円柱が並んでいるきりで、何とも粗末な遺跡になっていた。その跡地にぼんやり佇んで、しばし飛鳥の世に思いを馳せていると、芭蕉の「つわものどもが夢のあと」という句がしみじみと心に浮かんで来る。藤原京を作ってここで天下を治めるつもりだった高市皇子の「野望」が、人っ子一人いない茫漠とした「荒れ野原」に眠っていると思えば、むしろ観光客に溢れた平城京などよりも粗末な丹塗の柱の方が「やけに心に迫ってくる」から不思議である。私が京都よりも奈良の方に親近感を覚える理由が、この辺りにあると言っても過言では無いだろう。話が随分と脇道に逸れてしまった。築地塀ということでは、平安以降の寺などでは定規筋という白い横線を入れた「筋塀」を築き、最高位の寺は筋が「5本」はいっているそうだ。何でもランク付けする京都公家社会ならではの意匠である。

以上(続く)


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