(1)出発
秋の連休にかこつけて一つ東北をぐるっと回ってやれ、とばかりに何の準備もないまま夜の4時頃に家を出た。車はスズキのカルタスという、輸出が主な車種で当時国内販売は100台もないレアなオープンカーである。ひたすら6号線を北上して朝方、通勤ラッシュで混雑する仙台を通過した。その頃は旅の感覚もなく、どこを見るという目的もまるでなく、単に車を運転して知らない町を走り回るのが面白かったのである。
オープンカーというのは夜に走ると実に気持ちのいいもので、満天の星空を頭上に頂いて無人の道路をグングン突き進むと、ひんやりした秋風が顔に当たり何とも爽快な気分になる。カーステレオからはお気に入りの稲垣潤一「クリスマスキャロルの頃には」を流す。当時は少し時代遅れの気がしないでもなかったが、オープンカーで流すには最高であった。10連奏のCDチェンジャーに、松田聖子・中西圭三・オフコース・ユーミン・大黒摩季・ZARD・WANDS・織田哲郎などなどを入れて、片っ端から流すこと流すこと、出かけてから戻ってくるまで聞きっぱなしである。スピーカーは残念ながら手を入れるまでには至らなかった、というか音質は普通で充分、ラジカセよりマシなら最高!だった。
仙台を少し行ったところで朝食を取る。これから生まれて初めて行く東北という地域の何とない後進性と閉鎖性が、最果ての地へと期待する気持ちをさらに掻き立てるのだ。石川啄木、太宰治、宮沢賢治、小林多喜二・・・北の憂鬱な空は、心に寒々とした雨を降らす。そんな東北に何があるんだろう、と見極めたかったのも理由の一つだっただろうか。
(2)宮古から太平洋を望む
岩手は海岸線が長い。仙台から45号線を車を走らせて宮古のあたり、ふと路肩に停めてタバコを取り出す。青い海が遙か彼方まで連なり、ドドーンと音を立てて岩に砕け散る波頭を目の隅に眺めながら、マルボロに火をつける。愛車のドアに寄りかかって、たまに通り過ぎる車の後ろ姿をぼんやりと見ている自分を想像すると、・・・ちょーカッコいい!
まあ男というものは何にせよ、カッコつけたがる生き物である、誰が見てるわけじゃないのに、だ。古くは「赤い波止場」の石原裕次郎から「ダーティーハリー」のクリント・イーストウッドまで、いい男は観客の反応を計算している。後を引く余韻に浸るまでも無く、2.3台やり過ごして私も車に乗り込んだ。まだ陽は登り始めたばかり、秋の風が彼女の長く柔らかい髪を優しくなびかせて・・・。ここは絵的には助手席に美女が欲しいのだが、いかんせんモテない私は何時も独りなのでこの部分はイメージである、申し訳ない。
宮古は森進一の歌う太平洋岸の港町である。宮古から見た太平洋のどこまでも続く波の彼方にアメリカがあって、その見えない大陸を目指して船出して行ったコロンブスの勇気に思いを馳せた。地球が丸いという事を1500年頃の船乗りは知っていたのだから、科学の進歩という観念も怪しいもんだ。
翻ってコロンブスは、上下が逆さまになった地球の反対側ではどうして落っこちないで普通に生活できているのか、彼は疑問に思わなかったのだろうか?というのが私の疑問である。答えはまだ聞いてはいないが、とにかく新大陸は思った通りに見つかった。疑問は疑問だが、答えられないと新大陸が消えて無くなるわけではない。財宝を目の前にすれば、疑問など何処かへ吹っ飛んでしまうのが世の常であるらしい。
私が思うにコロンブスも偉いが、「新大陸」に元から住んでいた人々こそいい面の皮である。
(3)野辺地で警察の検問にあう
岩手の海岸線から離れ、八戸から野辺地へ向かうことにした。天気はますます快晴、呑気に景色を楽しもうかと思って走ってたらいきなり物陰から警官が出てきて、公園のような(と言っても都会の整備された公園と違ってただの野っ原であるが)さして広くない所へ無理やり誘導された。そこには何台かの車が同様に停められて検問を受けている。
「何ですか?」と聞くと「ご協力お願いします」と若い警官が言う。何となくムカつく。何も悪いことはしていないのだが、悪い事してたらご協力なんて言わないよと突っ込まれるので、素直に言うことを聞いた。きっと何かの事件で犯人が逃げているのだろう、しかしオープンカーで逃げる犯人なんてシャレにもならないぞと心の中でつぶやきつつ、黙ってトランクを開けた。
これで見たことも聞いたこともない白い粉なんかが、ドッサリと米袋かなんかに入って出てきたらあっという間に一丁上がりで刑務所に行かねばならない。もし若い女の全裸死体が出てきて刺身包丁が刺さってたりして、、、まったく悪ふざけが過ぎるゼィ。
あれこれ5分位で「ご苦労様でした」と解放された。何事もなくてよかったよかった。田舎の警察では何が起きるかわかったもんじゃないからな、特に私のような都会の垢抜けた紳士は気をつけないと危ない、クワバラクワバラ。そう言えば、ジョージ・クルーニーも田舎警官は気をつけないと写真を撮られてSNSにアップされて大迷惑だと怒ってた。
意味もないことをぶつぶつ言いながら、私は野辺地に向かった。東北もこの辺まで来ると道が少ない。北に向かう道と十和田湖の方に行く道と、野辺地方面の三つである。犯人が逃げようとしても3箇所で検問をすればどれかに必ずひっかかる。意外と効果的なのかもね、などと妙な感心をした。出来れば丁度いる間に犯人逮捕ドラマが見れたら面白かったのに残念だな、YouTubeにアップするのに。あれ?私こそ田舎警官だ。
ま、いいか。
野辺地は陸奥湾に出て青森に向かう曲がり角である。ここからは又海沿いの道が続く。陸奥湾は美しい内海で、穏やかな波頭がたゆたう浜に奥羽の貧しい土地と、そこに住む人々の辛く悲しい一生とが、風景を1枚の絵画にする。遠く最果ての彼方からやって来る幾千の波の浜辺の護岸テトラに白く砕ける音を聞き、永遠の時間とは何時までのことを言うのだろう、そんな思いを心に描きながら港を群れ飛ぶ海猫のあとを目で追った。路肩に停まって切っていたエンジンを再び掛けて、アクセルを踏み込みまた旅を続ける私の心には、ちょっとした感傷的な感情が生まれていた。「さよなら、今度会う時はお互いもう少し幸せでいような、バイバイ」・・・
いやー、旅というものは何故かロマンチックになる瞬間が、必ず一度やそこらあるものである。このシーンは映画で使えるな、などと考えながら一路青森を目指して走り出した、そろそろ夕方が近づいてきてる。「早いとこ、泊まるところを見つけなきゃ」
(4)青森のホテルで何てことない夕食をとる
浅茅湾を横目に見ながら夕陽が赤く照らす漁船の列に、とうとう青森まで来てしまった距離の重さを感じて内心驚いた、今朝はまだ東京にいたのに。生まれて初めてする車での一人旅、何の目的もないまま出て来てしまったけど、一体僕は誰で何処に行こうとしているのだろう。そういえばハムレットも北国の王子って設定だ、何か共通点があるのかな。青森は海の色まで物悲しい。
さてと、そんな感傷に浸っている場合じゃない、とにかくホテルを探して寝るところを確保しなきゃ。というわけで公衆電話ボックスを見つけてワシントンホテル青森に予約を入れた。当時はそこら中に公衆電話があった、今じゃ見かけることも無くなったけど。
車を三階建ての駐車場に入れてホテルにチェックインしたのは夜9時を回っていた。夜明け前からずっと走り詰めで何処にも止まらず、ただひたすら走るだけ。夕食はホテルの三十三間堂という食堂で食べ、酒を一合飲んで部屋に帰った。別に何するわけじゃないけど、何ともアッサリしたものである。元々の目的が「竜飛岬を見て来る」だからしょうがない。さっさと寝ることにしよう。
ところで食事と言えばいくつか思い出す事があるので、良い機会だから書いておこうと思う。
その1、出前の昼飯
会社勤めの頃、いつものようにお昼に出前を取ったことがあった。10分程して届いたが、私はフライ定食先輩はハンバーグ定食であった。私は早速パクついて先輩にも来てますよと伝えた。先輩は「どれどれ」と見ていたが、じっとしている。「早く食べたら、うまいよ」と声をかけたが何か様子がおかしい。私が横目でチラッと見ると「何か」がハンバーグの上に乗っている。そのとき先輩がようやく口を開いて信じられない言葉を発した。「これ、ゴキブリだよな、間違いないよな、、、」
ゴキブリが姿揚げ宜しくハンバーグの真ん中にデンと鎮座して、デミグラスソースまでかかっている、グロテスクだ。
いまなら保健所に電話してレストランは営業停止、多分二度と商売はできないだろうけど、当時は衛生観念が余り無かった時代で店に電話したらすっ飛んできたが、替わりの品を届けただけだった。私はフライ定食を普通に食べて「ゴキブリ凄かったね」などと軽口を叩いて笑っていたが、よく考えたら恐ろしい話である。勿論、その店にはその後ランチを頼まなかったのは言うまでもない。それ以来、先輩はハンバーグが食べられなくなったそうだ、私は平気だが。
その2、六甲のラーメン屋
ある年の正月に会社の友人と大阪から六甲へ回ってご来光を見ようということになった。夜まだ明けない薄暗い山頂で朝日の出るのを待つというのは、寒い時には特に辛いものである。初日の出を待って、ソコソコに山を下りた。途中で腹が減ってラーメン屋に入ったが、無言で出されたコップの飲み口がパックリ割れてて、「こいつぅ、嫌がらせやってんのか?殺されんぞ!!」とすぐにも血の雨が降るシチュエーションだ、とお思いだろうがそうではない。
「割れてんだけど」と言ったら、また無言で新しいのを出してきた。客は私達以外にいなかったので、忙しかったわけじゃない。いろいろご意見はあろうかと思うのだが、単に無愛想な店主だったのだ、といまでも私は思っている。味は、忘れた。
その3、デパートの食堂
お昼に近くのデパートの食堂でランチすることになった。例の藤江君はカツカレーで私はナポリタン、料理が来るまでたわいもない話に興じていた。頼んだものが来ていざ食べようと箸でパスタを持ち上げたその時、何やら黒い弾丸のようなものがテーブルの上に現れたかと思うと、矢のような速さで持ち上げたパスタの上を飛び越し座席の後ろの通路に走り去った。「・・・?」
何があったのか理解するまでの間二人は固まっていたが、他のお客はそんな事があったことすら誰も知らない。その得体の知れない黒い物体は丸々と太ったネズミだった。
ネズミだ、ネズミ。顔を見合わせてしばらく言葉を探していたが、結局証拠もなく実害もないということで一件落着。店には黙っていたが、私と藤江君の二人はあの時のネズミに「金メダル」のアダ名を付けて、時々いないかなと探したもんだった。しかし不衛生極まりない時代である。それでも皆んな元気に働いていたんだから、健康って何だろうって不思議になる。そのデパートは、しばらくして潰れたらしいと風の便りに伝え聞いた。天網恢々疎にして漏らさず、である。
その4、池袋のロサ会館
その日は暑かったので会社の帰りに軽く駅横の屋上ビアガーデンに行った。電車の行き交う駅の雑踏を見下ろして呑む大ジョッキは抜群に冷え冷えでクリーミー、ポテトとウィンナーを交互に口に放り込んで「いやっーほーぃ」とか何とか奇声を上げてはハタ迷惑の大騒ぎだ。しかし料金は、グルメでも何でもないので超安い。二杯ほど飲んで次行こうということになって、池袋の西口へ移動した。駅裏の自転車置き場の脇を入った近道を抜けて、ロサ会館のコンパに入った。当時は最先端のファッションと若者の集まる「ちょいワルなヤンキー」の溜まり場で人気があった。私もビールが効いてきたのか、雑踏で肩がぶつかったと言っては「気をつけろ!」などと粋がって見せていたので、女も連れてない状況としては最低のダサ男レベルである。そんな精神状態で乗り込んだコンパの止まり木で水割りを飲みつつ、女同士でやってきてる連中の品定めを始めた。「ロクなのいないよなー」と嘆いて見せたが、それでいてイカした女の子には気後れしてよう行かへんのだった、しょーもない草食男子。もてない奴ほど見栄を張るらしい。すっぱい葡萄とキツネだ。
ツマミにオニオンスライスを頼んだ私は、一口食べて「おわっ、辛っ」と吐き出した。店のもんに「ちょっとこれ、辛過ぎるぜ」とクレームを付けて、そいつは皿を奥の調理場へ持って行った。全くオニオンスライスの作り方も知らないんだからな、などと言いながらトイレに立ったが、カーテンの奥の通路では客らしき男が店のボーイ2、3人にボッコボコにされていた。オイオイここはまじヤバイぞ。
席に戻った私は、店の男の「皆んなで食べてみたっすけど何ともなかったすよ」とぶっきら棒の説明を聞き、「残りは?」と質問するのが精一杯だった。「全部食べちゃいました」と言われて一緒に行った友人と顔を見合わせ、無言でハイボールを飲み干し店を出た。「ヤバい店だよ、超ヤバい」
ちっともワルじゃない優良サラリーマンだった私達は酔いもすっかり覚め、素に戻って真っ直ぐ家に帰って寝た。何でも家に帰って寝る、というのが、当時の社会経験の反省の仕方である。翌日には元に戻ってまた働いた、実害が身に及ぶ前にさっさと逃げる才覚だけは、備わっているようである。
・・・・とりあえず、食事に関したエピソードは終わりです。
(5)竜飛岬はとても寂しい所だ
翌朝いよいよ旅のクライマックス、唯一の目的地の竜飛岬へと出発した。竜飛岬へは青森から海岸線を行ったが、あれだけ有名な場所なのに道が細くてこの道で合ってるかなと心配になる程だったが、無事到着。時間帯にもよるんだろうが一台の車もなくて、無人の案内板に「本州最北端の地」のような意味の事が書いてあるのが、正に「さい果て」の感を高めていた。かすかにモヤ越しに見える北海道の静かな黒々とした姿を見つめると、泳いでも行ける距離なんだなあと感慨深く思え、ふと関門海峡やドーバー海峡とどっちが近いんだろうと考えてから、テレビのクイズ番組に毒されてるなと自嘲した。竜飛岬には宿泊施設もあると聞いていたが、右手の平屋建てがそうかなあなどと思いつつ、15分程して車に戻った。それ以上いても何もないのだ。見晴台は小高い丘のてっぺんにあるのでただ海峡を渡る風のピューと言う音だけが耳に残る寂しい場所である。少し期待外れではあったが、この程度のものだろうなと思い返して納得した。
所詮は最北端の地というだけの地理上の場所でしかない。文化も歴史も何もないのだ。たぶん、瀬戸大橋みたいに海峡を橋で繋いで龍飛大橋とか名付ければレストランや土産物屋もでて繁盛すると思うが、そうでもしないでこのまま放って置けば未来永劫、ただの最北端の地のままである。まあそれも良いかも知れない、ひっそりと訪れる人も僅かしかない草むした丘に駐車場と碑がポツンと建って北を向いていて、「私はここにいる」と誰かの墓があるわけでもなし、松尾芭蕉の名句が残されているわけでもなし、何も無くただ最北端の地とだけ記してある、その無粋なまでの記述がこの竜飛岬には似合っているようだ。
私はエンジンを静かに掛けて車を出した、屋根は朝から開けてあったのでシートが太陽の光を浴びて熱い。「まだ昼前だ、もうひとっ走りしようか」とばかりに、車を日本海へと向けてアクセルを踏んだ。
ブラボー竜飛岬、ありがとう~。
(続く)この続きは、五所川原・村上・千曲川・碓氷峠編でどうぞ。
秋の連休にかこつけて一つ東北をぐるっと回ってやれ、とばかりに何の準備もないまま夜の4時頃に家を出た。車はスズキのカルタスという、輸出が主な車種で当時国内販売は100台もないレアなオープンカーである。ひたすら6号線を北上して朝方、通勤ラッシュで混雑する仙台を通過した。その頃は旅の感覚もなく、どこを見るという目的もまるでなく、単に車を運転して知らない町を走り回るのが面白かったのである。
オープンカーというのは夜に走ると実に気持ちのいいもので、満天の星空を頭上に頂いて無人の道路をグングン突き進むと、ひんやりした秋風が顔に当たり何とも爽快な気分になる。カーステレオからはお気に入りの稲垣潤一「クリスマスキャロルの頃には」を流す。当時は少し時代遅れの気がしないでもなかったが、オープンカーで流すには最高であった。10連奏のCDチェンジャーに、松田聖子・中西圭三・オフコース・ユーミン・大黒摩季・ZARD・WANDS・織田哲郎などなどを入れて、片っ端から流すこと流すこと、出かけてから戻ってくるまで聞きっぱなしである。スピーカーは残念ながら手を入れるまでには至らなかった、というか音質は普通で充分、ラジカセよりマシなら最高!だった。
仙台を少し行ったところで朝食を取る。これから生まれて初めて行く東北という地域の何とない後進性と閉鎖性が、最果ての地へと期待する気持ちをさらに掻き立てるのだ。石川啄木、太宰治、宮沢賢治、小林多喜二・・・北の憂鬱な空は、心に寒々とした雨を降らす。そんな東北に何があるんだろう、と見極めたかったのも理由の一つだっただろうか。
(2)宮古から太平洋を望む
岩手は海岸線が長い。仙台から45号線を車を走らせて宮古のあたり、ふと路肩に停めてタバコを取り出す。青い海が遙か彼方まで連なり、ドドーンと音を立てて岩に砕け散る波頭を目の隅に眺めながら、マルボロに火をつける。愛車のドアに寄りかかって、たまに通り過ぎる車の後ろ姿をぼんやりと見ている自分を想像すると、・・・ちょーカッコいい!
まあ男というものは何にせよ、カッコつけたがる生き物である、誰が見てるわけじゃないのに、だ。古くは「赤い波止場」の石原裕次郎から「ダーティーハリー」のクリント・イーストウッドまで、いい男は観客の反応を計算している。後を引く余韻に浸るまでも無く、2.3台やり過ごして私も車に乗り込んだ。まだ陽は登り始めたばかり、秋の風が彼女の長く柔らかい髪を優しくなびかせて・・・。ここは絵的には助手席に美女が欲しいのだが、いかんせんモテない私は何時も独りなのでこの部分はイメージである、申し訳ない。
宮古は森進一の歌う太平洋岸の港町である。宮古から見た太平洋のどこまでも続く波の彼方にアメリカがあって、その見えない大陸を目指して船出して行ったコロンブスの勇気に思いを馳せた。地球が丸いという事を1500年頃の船乗りは知っていたのだから、科学の進歩という観念も怪しいもんだ。
翻ってコロンブスは、上下が逆さまになった地球の反対側ではどうして落っこちないで普通に生活できているのか、彼は疑問に思わなかったのだろうか?というのが私の疑問である。答えはまだ聞いてはいないが、とにかく新大陸は思った通りに見つかった。疑問は疑問だが、答えられないと新大陸が消えて無くなるわけではない。財宝を目の前にすれば、疑問など何処かへ吹っ飛んでしまうのが世の常であるらしい。
私が思うにコロンブスも偉いが、「新大陸」に元から住んでいた人々こそいい面の皮である。
(3)野辺地で警察の検問にあう
岩手の海岸線から離れ、八戸から野辺地へ向かうことにした。天気はますます快晴、呑気に景色を楽しもうかと思って走ってたらいきなり物陰から警官が出てきて、公園のような(と言っても都会の整備された公園と違ってただの野っ原であるが)さして広くない所へ無理やり誘導された。そこには何台かの車が同様に停められて検問を受けている。
「何ですか?」と聞くと「ご協力お願いします」と若い警官が言う。何となくムカつく。何も悪いことはしていないのだが、悪い事してたらご協力なんて言わないよと突っ込まれるので、素直に言うことを聞いた。きっと何かの事件で犯人が逃げているのだろう、しかしオープンカーで逃げる犯人なんてシャレにもならないぞと心の中でつぶやきつつ、黙ってトランクを開けた。
これで見たことも聞いたこともない白い粉なんかが、ドッサリと米袋かなんかに入って出てきたらあっという間に一丁上がりで刑務所に行かねばならない。もし若い女の全裸死体が出てきて刺身包丁が刺さってたりして、、、まったく悪ふざけが過ぎるゼィ。
あれこれ5分位で「ご苦労様でした」と解放された。何事もなくてよかったよかった。田舎の警察では何が起きるかわかったもんじゃないからな、特に私のような都会の垢抜けた紳士は気をつけないと危ない、クワバラクワバラ。そう言えば、ジョージ・クルーニーも田舎警官は気をつけないと写真を撮られてSNSにアップされて大迷惑だと怒ってた。
意味もないことをぶつぶつ言いながら、私は野辺地に向かった。東北もこの辺まで来ると道が少ない。北に向かう道と十和田湖の方に行く道と、野辺地方面の三つである。犯人が逃げようとしても3箇所で検問をすればどれかに必ずひっかかる。意外と効果的なのかもね、などと妙な感心をした。出来れば丁度いる間に犯人逮捕ドラマが見れたら面白かったのに残念だな、YouTubeにアップするのに。あれ?私こそ田舎警官だ。
ま、いいか。
野辺地は陸奥湾に出て青森に向かう曲がり角である。ここからは又海沿いの道が続く。陸奥湾は美しい内海で、穏やかな波頭がたゆたう浜に奥羽の貧しい土地と、そこに住む人々の辛く悲しい一生とが、風景を1枚の絵画にする。遠く最果ての彼方からやって来る幾千の波の浜辺の護岸テトラに白く砕ける音を聞き、永遠の時間とは何時までのことを言うのだろう、そんな思いを心に描きながら港を群れ飛ぶ海猫のあとを目で追った。路肩に停まって切っていたエンジンを再び掛けて、アクセルを踏み込みまた旅を続ける私の心には、ちょっとした感傷的な感情が生まれていた。「さよなら、今度会う時はお互いもう少し幸せでいような、バイバイ」・・・
いやー、旅というものは何故かロマンチックになる瞬間が、必ず一度やそこらあるものである。このシーンは映画で使えるな、などと考えながら一路青森を目指して走り出した、そろそろ夕方が近づいてきてる。「早いとこ、泊まるところを見つけなきゃ」
(4)青森のホテルで何てことない夕食をとる
浅茅湾を横目に見ながら夕陽が赤く照らす漁船の列に、とうとう青森まで来てしまった距離の重さを感じて内心驚いた、今朝はまだ東京にいたのに。生まれて初めてする車での一人旅、何の目的もないまま出て来てしまったけど、一体僕は誰で何処に行こうとしているのだろう。そういえばハムレットも北国の王子って設定だ、何か共通点があるのかな。青森は海の色まで物悲しい。
さてと、そんな感傷に浸っている場合じゃない、とにかくホテルを探して寝るところを確保しなきゃ。というわけで公衆電話ボックスを見つけてワシントンホテル青森に予約を入れた。当時はそこら中に公衆電話があった、今じゃ見かけることも無くなったけど。
車を三階建ての駐車場に入れてホテルにチェックインしたのは夜9時を回っていた。夜明け前からずっと走り詰めで何処にも止まらず、ただひたすら走るだけ。夕食はホテルの三十三間堂という食堂で食べ、酒を一合飲んで部屋に帰った。別に何するわけじゃないけど、何ともアッサリしたものである。元々の目的が「竜飛岬を見て来る」だからしょうがない。さっさと寝ることにしよう。
ところで食事と言えばいくつか思い出す事があるので、良い機会だから書いておこうと思う。
その1、出前の昼飯
会社勤めの頃、いつものようにお昼に出前を取ったことがあった。10分程して届いたが、私はフライ定食先輩はハンバーグ定食であった。私は早速パクついて先輩にも来てますよと伝えた。先輩は「どれどれ」と見ていたが、じっとしている。「早く食べたら、うまいよ」と声をかけたが何か様子がおかしい。私が横目でチラッと見ると「何か」がハンバーグの上に乗っている。そのとき先輩がようやく口を開いて信じられない言葉を発した。「これ、ゴキブリだよな、間違いないよな、、、」
ゴキブリが姿揚げ宜しくハンバーグの真ん中にデンと鎮座して、デミグラスソースまでかかっている、グロテスクだ。
いまなら保健所に電話してレストランは営業停止、多分二度と商売はできないだろうけど、当時は衛生観念が余り無かった時代で店に電話したらすっ飛んできたが、替わりの品を届けただけだった。私はフライ定食を普通に食べて「ゴキブリ凄かったね」などと軽口を叩いて笑っていたが、よく考えたら恐ろしい話である。勿論、その店にはその後ランチを頼まなかったのは言うまでもない。それ以来、先輩はハンバーグが食べられなくなったそうだ、私は平気だが。
その2、六甲のラーメン屋
ある年の正月に会社の友人と大阪から六甲へ回ってご来光を見ようということになった。夜まだ明けない薄暗い山頂で朝日の出るのを待つというのは、寒い時には特に辛いものである。初日の出を待って、ソコソコに山を下りた。途中で腹が減ってラーメン屋に入ったが、無言で出されたコップの飲み口がパックリ割れてて、「こいつぅ、嫌がらせやってんのか?殺されんぞ!!」とすぐにも血の雨が降るシチュエーションだ、とお思いだろうがそうではない。
「割れてんだけど」と言ったら、また無言で新しいのを出してきた。客は私達以外にいなかったので、忙しかったわけじゃない。いろいろご意見はあろうかと思うのだが、単に無愛想な店主だったのだ、といまでも私は思っている。味は、忘れた。
その3、デパートの食堂
お昼に近くのデパートの食堂でランチすることになった。例の藤江君はカツカレーで私はナポリタン、料理が来るまでたわいもない話に興じていた。頼んだものが来ていざ食べようと箸でパスタを持ち上げたその時、何やら黒い弾丸のようなものがテーブルの上に現れたかと思うと、矢のような速さで持ち上げたパスタの上を飛び越し座席の後ろの通路に走り去った。「・・・?」
何があったのか理解するまでの間二人は固まっていたが、他のお客はそんな事があったことすら誰も知らない。その得体の知れない黒い物体は丸々と太ったネズミだった。
ネズミだ、ネズミ。顔を見合わせてしばらく言葉を探していたが、結局証拠もなく実害もないということで一件落着。店には黙っていたが、私と藤江君の二人はあの時のネズミに「金メダル」のアダ名を付けて、時々いないかなと探したもんだった。しかし不衛生極まりない時代である。それでも皆んな元気に働いていたんだから、健康って何だろうって不思議になる。そのデパートは、しばらくして潰れたらしいと風の便りに伝え聞いた。天網恢々疎にして漏らさず、である。
その4、池袋のロサ会館
その日は暑かったので会社の帰りに軽く駅横の屋上ビアガーデンに行った。電車の行き交う駅の雑踏を見下ろして呑む大ジョッキは抜群に冷え冷えでクリーミー、ポテトとウィンナーを交互に口に放り込んで「いやっーほーぃ」とか何とか奇声を上げてはハタ迷惑の大騒ぎだ。しかし料金は、グルメでも何でもないので超安い。二杯ほど飲んで次行こうということになって、池袋の西口へ移動した。駅裏の自転車置き場の脇を入った近道を抜けて、ロサ会館のコンパに入った。当時は最先端のファッションと若者の集まる「ちょいワルなヤンキー」の溜まり場で人気があった。私もビールが効いてきたのか、雑踏で肩がぶつかったと言っては「気をつけろ!」などと粋がって見せていたので、女も連れてない状況としては最低のダサ男レベルである。そんな精神状態で乗り込んだコンパの止まり木で水割りを飲みつつ、女同士でやってきてる連中の品定めを始めた。「ロクなのいないよなー」と嘆いて見せたが、それでいてイカした女の子には気後れしてよう行かへんのだった、しょーもない草食男子。もてない奴ほど見栄を張るらしい。すっぱい葡萄とキツネだ。
ツマミにオニオンスライスを頼んだ私は、一口食べて「おわっ、辛っ」と吐き出した。店のもんに「ちょっとこれ、辛過ぎるぜ」とクレームを付けて、そいつは皿を奥の調理場へ持って行った。全くオニオンスライスの作り方も知らないんだからな、などと言いながらトイレに立ったが、カーテンの奥の通路では客らしき男が店のボーイ2、3人にボッコボコにされていた。オイオイここはまじヤバイぞ。
席に戻った私は、店の男の「皆んなで食べてみたっすけど何ともなかったすよ」とぶっきら棒の説明を聞き、「残りは?」と質問するのが精一杯だった。「全部食べちゃいました」と言われて一緒に行った友人と顔を見合わせ、無言でハイボールを飲み干し店を出た。「ヤバい店だよ、超ヤバい」
ちっともワルじゃない優良サラリーマンだった私達は酔いもすっかり覚め、素に戻って真っ直ぐ家に帰って寝た。何でも家に帰って寝る、というのが、当時の社会経験の反省の仕方である。翌日には元に戻ってまた働いた、実害が身に及ぶ前にさっさと逃げる才覚だけは、備わっているようである。
・・・・とりあえず、食事に関したエピソードは終わりです。
(5)竜飛岬はとても寂しい所だ
翌朝いよいよ旅のクライマックス、唯一の目的地の竜飛岬へと出発した。竜飛岬へは青森から海岸線を行ったが、あれだけ有名な場所なのに道が細くてこの道で合ってるかなと心配になる程だったが、無事到着。時間帯にもよるんだろうが一台の車もなくて、無人の案内板に「本州最北端の地」のような意味の事が書いてあるのが、正に「さい果て」の感を高めていた。かすかにモヤ越しに見える北海道の静かな黒々とした姿を見つめると、泳いでも行ける距離なんだなあと感慨深く思え、ふと関門海峡やドーバー海峡とどっちが近いんだろうと考えてから、テレビのクイズ番組に毒されてるなと自嘲した。竜飛岬には宿泊施設もあると聞いていたが、右手の平屋建てがそうかなあなどと思いつつ、15分程して車に戻った。それ以上いても何もないのだ。見晴台は小高い丘のてっぺんにあるのでただ海峡を渡る風のピューと言う音だけが耳に残る寂しい場所である。少し期待外れではあったが、この程度のものだろうなと思い返して納得した。
所詮は最北端の地というだけの地理上の場所でしかない。文化も歴史も何もないのだ。たぶん、瀬戸大橋みたいに海峡を橋で繋いで龍飛大橋とか名付ければレストランや土産物屋もでて繁盛すると思うが、そうでもしないでこのまま放って置けば未来永劫、ただの最北端の地のままである。まあそれも良いかも知れない、ひっそりと訪れる人も僅かしかない草むした丘に駐車場と碑がポツンと建って北を向いていて、「私はここにいる」と誰かの墓があるわけでもなし、松尾芭蕉の名句が残されているわけでもなし、何も無くただ最北端の地とだけ記してある、その無粋なまでの記述がこの竜飛岬には似合っているようだ。
私はエンジンを静かに掛けて車を出した、屋根は朝から開けてあったのでシートが太陽の光を浴びて熱い。「まだ昼前だ、もうひとっ走りしようか」とばかりに、車を日本海へと向けてアクセルを踏んだ。
ブラボー竜飛岬、ありがとう~。
(続く)この続きは、五所川原・村上・千曲川・碓氷峠編でどうぞ。
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