明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

古代史刑事(デカ)・柚月一歩の謎解きは晩酌の後で(20)一条このみ「万葉の虹」を読み直す(その4)書紀の「34年ずらし」とは?

2020-11-02 18:33:15 | 歴史・旅行

白村江の戦いは、言わば太平洋戦争にも匹敵する「国運を賭けた大戦争」であった。その認識が「日本書紀編纂者」には、残念ながら無いのである。何故無いのか?。それは近畿天皇家が、白村江の戦いに「参加していなかった」からなのだ!(おおっ、驚愕の事実である)。それはとりも直さず近畿天皇家が、それまで朝鮮半島と凌ぎを削って争っていた当事者「倭国では無い」ことを意味している。

後漢光武帝から「漢委奴国王印」を授与され、魏の司馬氏からは邪馬台国は「親魏倭王印」を贈られた。およそ2、3世紀のことである。その後、倭の五王「讃・珍・済・興・武」の時代には積極的に朝鮮に進出し、武に至っては「渡りて海北を征すること95國」と豪語して、対馬海峡を挟んだ両側に一大国家を形成するまでに強大になっていた。まさに他国と戦争に次ぐ戦争を仕掛けて、自国を拡大・伸長することに邁進していたのである。武は「戦いの王」なのだ。しかるにこの間、近畿大和政権は何をしていたかと言うと、国見をしながら民の竈から煙が上がっているとかどうとかと「のんびり」していたり、兄弟の間で皇位を取り合って「殺し合い」をしたりと、いかにも彼等の最大関心事は「自身の身の回りのこと」に限られているように見える。

倭国と近畿天皇家では、両者のスケールに天と地ほどの差があるではないか。この時、倭王武の雄大な視線の先には、遥か朝鮮半島そして中国が見えていた筈である。

1、継体天皇の反乱?

この前テレビで継体天皇を取り上げていて、継体天皇を得意分野にしている水谷氏も出てきて一席ブッていたが、私はまあ「こんなもんだろう」と、飽きてきてチャンネルを回してしまった。継体天皇というのは歴史の転回点のように言われているけども、実は九州倭国の磐井大王が朝鮮に関わっている隙に襲ったり、近畿大和政権が武烈天皇で断絶した乱れに乗じて王権を奪おうとしたり、言わば「山賊」みたいな集団の頭領という存在に過ぎないのである(ちょっとディスっている?)。このような集団は各地に散在したであろうし、継体以外にも何人もいたと思われる。その中でも特に大きな有力地方勢力で、渡来系の武力集団でもあった継体大王が、その後の「欽明大王系統の発展」の基礎作りをしたと考えられて、日本書紀に天皇として「系図に書き加えられた」らしい、と言うのが私の考えだ。

どっちにしても日本全体の歴史から見れば、「地方の片田舎の争い」に介入した暴力集団の長に過ぎないのである。倭国に攻め入った物部麁鹿火と前後策を謀った言葉が「朕は長門以東を取らむ」と言ったとあるが、その性格の特色がよく出ていると思う。継体天皇というのは、他人から「奪い取る」ことだけを狙っている簒奪集団なのである。一条このみ氏は、527年の磐井の乱から587年の蘇我物部戦争と、その後の倭国の逆襲までを一連のものと考えて、倭国が長躯して「近畿大和に進出した」と考えているようだ。継体天皇は滅ぼされ、それ以降「倭国王多利思北孤が岡本宮(後の板蓋宮)に居を構え」たとしている。大筋では納得しているのだが、そこが私には今一つどうも納得しかねるのである。

じゃあその間の近畿大和王朝の歴史、つまり欽明王朝は日本書紀の描く通りなのかと言うと、そこは「?」なのだが、まだ私には正解は見つかってはいない。どうやら蘇我氏が飛鳥を中心として大和を支配していたが、あくまで九州の倭国に従属している状態だというのが現在の私の理解である。645年の蘇我入鹿誅殺事件(乙巳の変)は、その従属国の状態から「蘇我氏が独立傾向を強めた」結果引き起こされたのか、または逆に「蘇我氏が従属を加速させた」ために起こった事件なのかは、まだ私には分からない。

● 乙巳の変のあとに政権をとった孝徳天皇の対外政策を見ると「朝鮮系渡来氏族の色合い」が強く出ており、蘇我氏全体を見ると「蘇我蝦夷・入鹿親子が一族に離反」したとも考えられる。これらの全体像は、まだまだ蘇我氏という部族の研究をしなくてはならないが、それとは別に「中臣鎌足と天智天皇の関係」も複雑である。この鎌足がどういう人物だったのかをもし解き明かすことができれば、その時は「天智天皇・天武天皇の謎」も一度に氷解するのではないかと期待している。果たして私の生きているうちに謎が解けるかどうか、何とも心許ない気持ちである。誰か神の如き慧眼で、古代史の真実を「バッサリ」明らかにしてくれないものだろうか・・・。

2、蘇我氏の位置

622年に倭国王多利思北孤が亡くなり、息子の歌彌多弗利が皇位を継いだ。歌彌多弗利王は年号を聖徳に改めて、父の仏教傾倒と隋への恭順の道を推し進めたが、632年に隋の使者高表仁と息子が大喧嘩したのをきっかけにして、一気に対外政策を「対決姿勢」へと舵を切る。この頃、中国大陸では隋が滅び、今までの煬帝の崇仏政策が「唐の建国」によって道教優先へと一変し、その影響が倭国にも及んで来たものと思われる。丁度その頃から蘇我氏の専横が目立ってきて、在地の豪族との対立が表面化していくというのも、何か関係があるのかも知れない。

蘇我氏は642年に祖廟を葛城の高宮に建てて、八佾の舞を行ったり、豪族の私有民を使って蝦夷と入鹿の墓を作らせるなど、専横の度合いを強めていたとあるが、私は蘇我氏は「既に大和の主権者だった」と思っている。だから643年に蝦夷は「入鹿に紫の冠を授けて大臣とした」のだ。蝦夷が天皇になったので、息子を大臣につけた。何の不思議もない、当然のことである。この時の天皇は、641年11月に舒明天皇が崩御して642年に即位した「皇極天皇」である。皇極天皇の治世は、蘇我氏の専横が激しくなるのと時を同じくしている。644年、蝦夷と入鹿は甘橿丘に「上の宮門と谷の宮門」を建て、武器を持たせて警護した。一条このみ氏は、甘橿岡は飛鳥を見下ろす要害の土地であり、蝦夷らは天子「利」の動向を監視していた、とする。

一方、歌彌多弗利王は640年に「命長」と年号を改めたがその甲斐もなく、646年に亡くなった。墓は飛鳥川上流の「都塚古墳」と一条このみ氏は考える。父の多利思北孤が石舞台古墳に埋葬されているから、その子が「同型・相似で開口部も同じ南西の方向の方墳」に埋葬されたのも、当然と言えば当然なのだ。古墳と岡本宮(後の板蓋宮)の中間にある「嶋の宮」も、一般に言われているような蘇我氏の住居ではなく、倭国王の宮殿であると言う。

古事記は推古天皇の代で記述を終わっている。その後の舒明から皇極という政権は、実は「蘇我氏が支配」していた。いや、その前の「馬子の崇峻天皇殺害」から蘇我氏の支配に切り替わっていたのである。その蘇我氏政権を645年に倭国勢力が襲い、抵抗する入鹿を打ち破って東国制覇の第一歩としたのが乙巳の変である。一条このみ氏の説明を拙い私の理解で書き直すと、倭国の友好同盟国であった近畿大和政権を「崇峻殺害」で蘇我馬子が乗っ取り、相変わらず倭国に従属はしていたが徐々に専横の度合いを強めてきた。言う事を聞かない蘇我氏に痺れを切らした倭国王が、645年の乙巳の変で蘇我氏を誅滅した。そう言うことのようである。

● 武力による対立の解消ということであれば、一連の流れはうまく説明される。中大兄皇子と中臣鎌足が板蓋宮でクーデターを起こし、それを聞いた蘇我蝦夷が「観念して自害した」という筋書きは、確かに余りにもドラマチックな話である。それよりも、倭国勢力という強大な武力が、蘇我氏と戦ってこれを制圧した、という方が「リーズナブル」な現実だろう。一条このみ氏は、この後の近畿大和は「倭国が直接支配した」と考えたようだ。孝徳政権時における倉山田石川麻呂の謀反といったエピソードも、本当はこの蘇我入鹿の誅滅と同時に倭国兵に倒された話だという。「乙巳の変の真実」は、倭国と蘇我氏の全面的な支配権争いだったと考えると、古事記が推古天皇で終わっていることも納得がいく。

その後、倭国は生駒・葛城山脈の西側、つまり「河内から難波」に大規模な羅城を築いたという。そうすると、孝徳政権というのは「倭国の政権だった」ことになる。倭国は大和に「親倭国勢力の中大兄皇子」を据え、お目付役として中臣鎌足を側に置いて、自身は河内から「朝鮮の情勢を睨んでいた」のであろうか。この倭国孝徳政権の勢力は、九州倭国の「本体」ではないかも知れない。もしかしたら、倭国から派遣されて大和を制圧せよと指示を受けてきた「ナンバー2、ナンバー3」の人物の可能性もある。しかし、結論づけるにはまだ早い。焦らずこの問題は、一旦脇に置いておくことにしよう。

3、持統天皇の吉野行幸で露見した、日本書紀の「悪魔の手法」

万葉集に柿本人麿が詠んだ持統天皇の吉野行幸の従駕歌がある。この中の39番の歌の左注に「歌を作った時期は分からない」と書いてあるところに目をつけたのが、かの有名な「古田武彦教授」である(私が古代史に興味を持ったきっかけが、古田教授の「邪馬台国は無かった」だった)。持統天皇は持統三年から十一年に退位するまでの九年間に、31回もの吉野行幸が記録されている。だが、実は何のためにこれほど頻繁に吉野に行ったのか、「謎」なのである。学校では「亡き夫、天武天皇の思い出に浸るため」と説明しているが、それだと697年に退位した「途端に」行かなくなってしまった理由が、まるで説明つかない。現代学者の「当てずっぽう」も、程々にしてもらいたいというところか。

人麻呂の歌の読まれた日については万葉集もわかる範囲で説明しているが、持統8年4月7日の吉野行幸では、「戻った日が丁亥」となっている。この丁亥は計算上「4月34日」となり、太陰暦では「存在しない」のである!。これはどういう事かと調べた「古田氏」は、「4月に丁亥の日」があるのは「34年前の660年だ」という事を発見したのだ!。この日本書紀の「持統の謎の吉野行き」は、実は別人の「白村江前夜に起きた、ある行動」を、実際の年を変えて別の場所に嵌め込んだ「偽造記事」だったのである!。この「歴史上、最大の謎解きとも言える大発見!」をした古田氏も2015年に89歳で亡くなってしまった。謹んでご冥福を祈る。しかし、この古田氏の「奇跡の大発見」により、日本書紀の重大なカラクリの一部始終が「明るみに出る」ことになったのである。日本書紀だけを読んでいたのでは、このカラクリに気付く事は出来なかった。万葉集という「別の記録」が残っていて、二つを付き合わせることによって「真実が姿を現した」のである。私はこれを「34年ずらし」の悪魔の手法と呼んでいる(ちょっと大袈裟!)。

この「悪魔の手法」を持統十一年4月7日の31回目(最終回)に当てはめると、697ー34=663という数字が導き出される!。いうまでもなく、663年は倭国が白村江で唐・新羅連合軍に敗れた「忘れようとしても、忘れられない」年なのである。この吉野行幸から4ヶ月後の8月27日に、倭国水軍は大敗北を喫したのだ。そして倭国が敗北したその年から、31回にも及ぶ吉野行幸が「ピタリ」と止まったのだ。何と夢のような胸のすく鋭い解答であろう!。これ以上の明快な答えがあるだろうか?。古田武彦、「会心の謎の解明」である。吉野行幸をしたのは、持統ではなかった・・・!!!。

● では何故そんなにしてまで、吉野行幸を隠蔽する必要があったのだろうか。660年当時の近畿大和政権の王は斉明女帝である。中大兄皇子にしたって、吉野といえば「古人大兄王子の逃亡先」ぐらいのことしか思い出せない僻地であり、そんな辺鄙な山の中に「年に3、4回も、しかも合計31回も行幸する理由」が、全く見当もつかないのだ。隠蔽する、というより「何とか理由を探した結果」として、持統が行ったことにしたのであろう。わざわざ隠蔽するぐらいなら、最初からバッサリと切り捨ててしまえば良さそうなものである。だが日本書紀編纂者は、消さずに「移動」した。大王が吉野に足繁く通っていたという伝承が残っていたのか、あるいは吉野という場所は政権にとっては大事な場所であったとの記憶が人々の脳裏に焼き付いていたのか。何れにしても、この事実を移動して別人の仕業にするような「隠蔽作業をする理由」が見つからないのである。書紀編纂者の意図は何なのか。

私は、何らかの記録が書紀編纂者の手元にあって、〇〇年〇月の出来事というような「中途半端な記事」が書いてあったのかも知れないと考えた。しかしその年の記事にしては「どうしても辻褄が合わない」のである。そこで頭を捻った挙句、持統天皇の事績に合わせたのだろうか。持統天皇は703年まで生きていた。古事記は712年の上梓である。そして一旦上梓された古事記をやめて、新たに日本書紀を選定して上梓し直したのが720年だった。持統が生きていれば、このような「虚偽の改訂」は許さなかったと私は想像する(当たり前だ。いくら持統でも、行ってもいない吉野行幸などの虚偽記事は、流石に載せるのを躊躇ったであろう)。やはり日本書紀は天武・持統の削偽定実の意思に反して、思いっきり「嘘とごまかし」に満ち溢れている書物であった。

しかし人間がウソをつくのには「必ず理由がある」筈である。しかも日本書紀と言えば、国家の来歴・事績を書き連ねた「権威ある公的記録」の書物だ。国民の大多数がまだ、記録にある大半の事件を「身をもって体験している」中で、そのような嘘を白々とつけるものだろうか。多分、国民には、日本書紀のような「国家文書」は、目に触れる機会はないのかも知れない。宮廷の一部の高官にしか、読まれる事はなかったのだとも想像される。何しろ「純然たる漢文」で書いてあるのだ。それなりの教養がなければ、機会はあっても「読む事は出来なかった」だろう。箝口令も密かに出されていた筈である。

もしかして日本書紀は、時の大帝国「唐」に命令されて「提出するべく日本の歴史を説明した書物」だったのではないか。だから編纂者も罪の意識なく「嘘を書けた」のだと思いたい。それは、「何らかの事情」があって、倭国の歴史を消し去る必要があった・・・。そう考えなければ、燦然と輝く偉大な倭国の歴史を「すっぱり」消し去ることなぞ、当の書紀編纂者にとっても心苦しいことだった筈である。本人たちは苦し紛れに嘘を書いて一時凌ぎしたのかも知れないが、まさかの称徳天皇で天武の血統が断絶し、その後を継いだのが何と「倭国と無関係の、天智天皇の血統の白壁王(光仁天皇)」だった、というのが最大の誤算だったのではないだろうか。唐を騙して、外交関係を自分たちに都合の良いように上手く持って行こうとした計画は頓挫し、過去の歴史にそれほど関心の薄い「朝鮮系の天皇・桓武」が登場するに及んで、倭国の真実は「闇から闇へと消えて行った」と思いたい。藤原不比等が日本書紀の虚偽改訂の悪役としてクローズアップされているようだが、何だかこの「歴史の誤魔化し」で得られる利益が私には余り見えてこない。まあ焦らずゆっくりと一条このみ氏の著述に従って、順を追って探って行こう。

次回は白村江の真実に迫る。


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