明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

京都、行ってみたいところ10選(下)

2023-11-30 22:26:00 | 歴史・旅行

題名に「行ってみたい所」と書いたが、今回は「もう一度」訪ねるという意味も含て書いたつもりである。以前行った事があっても再度訪ね歩いてみれば、また新しい発見があるかも知れない。それが京都の魅力である。最近はあれほど熱烈に住んでみたかった「奈良」も、だんだんと魅力が失せてきて、都会的な施設や医療機関が完備しているだろう「京都」の方が、住むのには便利じゃないかな、と思い始めてきた。訪ねる名所旧跡も、奈良よりは格段に垢抜けているに違いない。さて、どっちに住もうかなぁ・・・。

それを決める前に、一度バーチャルで京都を訪ねてみるのも、悪くないかな、と考えた次第である。そんな個人的な動機で書いてみました。では(下)をどうぞ。

(6)嵐山公園から小倉山を愛でる

私は昔、夏の真っ盛りにてくてく小倉山に登った事がある。桂川の西岸をちょっと歩き、途中から上に登る急な山道を草を掻き分け細い蔓につかまりながら必死の思いでよじ登って、「大悲閣」の展望所のような建物に「裏から」入って、京都市内を遠望した。せっかく大変な苦労をして登ってきたと言うのに、視界は高く伸びた笹に遮られて半分くらいしか見えなかったと記憶している。「なんだ、大した事なかったな」とがっかりして、また同じ山道を這いつくばるようにして下りた。私は後で知ったのだが、大悲閣自体の正式な入り口は別の所にあり、参拝客が車で来れるような立派に舗装された道がすぐ目の前まで来ていたのである。そりゃあそうだろうよ、今時「崖登り」しなきゃお参り出来ないなんて秘境の寺じゃあ、いくら先祖代々の檀家だって、見放すよね。そんなこんなで下りた後に「すっかり汗だく」になっていた私は、ちょうど渡月橋東詰のところにある小さな喫茶店に駆け込んで、キンキンに冷えた「氷あずき」なんぞを食べて、涼を取ったのは言うまでもない。どうも京都は暑いか寒いかの二択しか無いようである。

また別の年、夏休みに京都旅行を計画した私は、新幹線で京都駅に着いてすぐ、メインストリートの五条通りを西にズンズン歩いて天神川を渡り、西大橋で桂川を渡って「団地が林立する」ベッドタウンのような所に迷い込んだ。こんなゴミゴミしたところを見るために新幹線で来たんじゃないぜ!、と方針変更。慌てて北上して「松尾大社」の前を松尾大社に「行かず」に、駅前の喫茶店に「汗だくで駆け込む」という、無謀な観光旅行を始めた記憶がある(有名どころを目の前にして、そこに「行かない」と言うのは私の癖である)。アイスコーヒーを飲んでようやく元気を回復した私は、駅前をさらに北上して渡月橋を「嵐山の側」から渡り、桂川の東岸を上流の方にさらに上がって行って、嵐山公園亀山地区と言う公園に登って「貞信公の和歌を口ずさみ」ながら、目の前に迫る小倉山の美観をじっくり楽しんだのである。確かこの公園は以前来た時には「亀山天皇記念公園」という名前だったと記憶している。いつから呼び名が変わったのかはよくは知らないが、私は以前の呼び名の方が好きなのだが・・・。公園には見晴し台があって、ちょっとした広場になっており、そこから小倉山の中腹にある大悲閣が、手に取るように見える。行ったのは夏だったが、今度は勿論「紅葉の絶景」を楽しめる秋に訪れるつもりだ(春の桜もいいけど)。小倉山全体を覆う広葉樹がさぞかし美しく色付いて、かの有名な歌にも「峰のもみじ葉心あらば〜」と詠まれた類い稀なこの小さな山の姿は、きっと現代の世でも「変わらぬ豪華さ」で我々の目を楽しませてくれるものと期待している。本来はこの場所に「雅なあずまや」を市費で再現し、野点のお茶でも観光客に無料で供したりして、平安貴族の優雅な雰囲気を気軽に味わわせてくれるような演出など、やってくれると嬉しいのだが、まあ期待する方が無理だろう。だって「単なる公園」だもの(何だかなぁ〜)。

私は昔、もし死んだらこの公園の高台に葬ってもらえないだろうか、と真剣に考えた事があった。いわゆる「公園墓地」システムである。我ながらいいアイディアだと思ったが、小倉山を真近に望んで春の桜や秋の紅葉を鑑賞し、遥か眼下に目を向ければ「保津川の急流」が音を立てて渡月橋の橋桁を洗っている、なんて風景は滅多に見れるもんじゃ無いと思う。その後しばらくはこの考えに傾いていたのだが、奈良の藤原京跡地を遠望する「蘇我氏ゆかりの川原寺に骨を埋める」というアイディアが頭をもたげて来て、歴史を愛し「歴史を見守る番人」として短い生涯を送ることに僅かながらの矜恃を感じていた私には、いかにも似つかわしい墓所であるとも言えそうだ。さあ、どうする?

という事で、お墓の場所については、もう少しあちこち見てから考えることにした。不本意だが、ペンディングである。

(7)西行庵と高瀬川沿いを散策

私の前の会社が、例年の催事として、12月のクリスマスの時期に「宝ヶ池の国際会館」で有名歌手のクリスマスコンサートに乗っかった展示即売会をやっている。まあ会社としては、夏の全社を挙げての大展示会に次ぐ大々的な催しであると共に、社員にとっても「京都で行うおしゃれな展示会」ということでとても人気がある催事だといえよう。以前は「蹴上のウェスティン都ホテル(今は無い、と思う)」で行っていた催事を、途中から目黒のウェスティン東京に移した結果、東京本部が関西で冬に行う催事としては唯一の合同展示会である。その催事に毎年私も事務方担当として参加していたのだが、宿舎が八条口の都ホテルだった。というのは、余り繁華街に近いと社員が夜「遊びに行く」からと気を回した結果、それを回避しようとして何もない八条口に宿を取った、というのが経営陣の思惑だろうと勘繰っている。ま、そんなことはどうでもいいが、確かに八条口には遊ぶところは何もない。それはそれとして有名な東寺はすぐ近所だし、駅の反対側塩小路出口を東側に行けば「あの森鴎外の小説で有名な高瀬川」がサラサラと静かに流れていて、さらに鴨川を渡れば三十三間堂などの東山観光エリアにも近い。五条から上は特に観光名所が目白押しで、小中学校の卒業旅行から会社の慰安旅行に至るまで、日々観光客が途絶える事は無い賑やかな場所である(今はコロナでそれ程でもないかも知れないが)。一方で、七条から南になると急に人の流れが疎らになり、普段着の京都人の生活が垣間見えて逆に面白い。しかし南に下がるのではなく、三十三間堂蓮華王院の東側の道を北上すると、一気に周りは大寺院の立ち並ぶ国宝級建築物の宝庫になっている。智積院や豊国神社に建仁寺や清水寺など、一気に「観光客がわんさか」密集する見所エリアに突入するから京都は狭い。ここを素通りしてさらに北上し、高台寺と八坂神社の間ぐらいに観光客の目に留まらないようなひっそりとした建物があって、そこがお目当ての「西行」の住んだ庵と言われている(住んだのは一時的にだと言うことらしい)。八坂神社のすぐ北側には円山公園や知恩院もあり、京の七口の一つである「粟田口」はすぐ東側だ。西行の住んだ当時は都の喧騒から遠く離れた、相当に鄙びた寂しい場所であったろうと思われる。今でも観光客が騒がしく往来する道から外れた「ちょっと奥まった所」にあって、私が行った当時は訪れる人も余りいなかったように記憶している。まあ、織田信長や豊臣秀吉と比べれば、それほど万人に知られた有名人というわけでは無いから、観光ルートには乗らないのだろうが、それが逆に静かに西行を偲ぼうと思っている人にとっては「ラッキー」でもある。私は前回この西行庵の前を通った時は(10年ほど前だったと思ったが)清水寺に用事があって、「ああ、ここにあるのか」と思うだけで残念なことに素通りしてしまった。今度訪れるときはゆっくりと建物の中を隈なく見て、庭などじっくりと鑑賞し、西行のその後の「数奇な人生」に想いを馳せてみたい。

そういえば、昔会社の同僚と3人で「大晦日の夜」に、知恩院の前の大通りを車で通り過ぎた事があった。ちょうど除夜の鐘が鳴り響いている時間帯に通りに入ってしまい、辺りは参拝客の車で大混雑。結局車の中でハッピーニューイヤーを迎えることになってしまった苦い経験がある。若いからこそこういうバカもやれたのだが、今となっては懐かしい京都の思い出なのだが・・・。

 

(8)哲学の道と鹿ヶ谷謀議の跡を訪ねる

おそらく昭和45年頃、まだ私が大学生の夏休みだったと思う。過去の記憶が全く欠けている私なので、このこと自体は確かな話ではない。だが結構な頻度で京都旅行に行っていた私なので、多分学生時代にも「行っているはずだ」と思っているだけなのだが・・・。それは一人で京都に行った初めての旅行で、南禅寺から永観堂を回り、そこからずーっと哲学の道を南から北へと歩いていた。しばらく行った途中の左側に「法然」という小さな喫茶店があって、その当時はお客が皆んな勝手に好きなことを書くノートが置いてあり、私も面白がって何かつまらぬ事を書いたような覚えがあった。勿論、内容は覚えていない。物は試しと GoogleMap で調べてみると、残念ながらもう「店が無くなっている」みたいである。当時から既におばあさんが一人でやっていたような小さい店なので、多分店主が老齢になったために店を畳んだのであろう。その頃は「哲学の道」といってもただの土手の畦道のような田舎道で、今でこそ綺麗に整備された桜並木が美しい観光名所に整備されてはいるが、当時は桜もまばらで、人通りも今より相当に少なかったと記憶している。確か、鹿ヶ谷方面に上がる交差点の袂にポツンと立っていたと思うが、今となっては正確にここだと言えるだけの情報が残っていないのが残念である。この近辺に「鹿ヶ谷法然院町」という地名があるから、店の名前はここから何らか関係があるのかも知れないな、と想像した。この辺は今や「喫茶店だらけ」のエリアになっていて、歩きながらちょっとコーヒーでも飲んで一息つくのには絶好のエリアである。私のようにブログを書いて日を過ごしている人間にとっては、京都散策と休憩にブログ執筆ができちゃうというのは有難い。この近くに住んで‘毎日の散歩ルートにするのもアリだと感じた。ただ、私が便利に感じるのと同じくらいに観光客も便利なのは当たり前で、どの喫茶店も「お上りさん」で一杯なのは興醒めである。絶好のロケーションで客が少ない喫茶店なんて、ないかなぁ〜(あるわけ無いだろうが!)。

不動産アプリで検索すると、山科区御陵駅近くの1DK10平米のアパートが、家賃「5万8千円」で出ているので、私にも何とかなりそうである。ここからは三条や先斗町なども近くて遊びには困らないし、実は意外と静かなところだから住むのには良いかも知れない。但し、歴史的なものは何もないから、そういう意味では「京都に住んでいる」という気持ちの高揚は余り感じられないかもしれないな、と思う。やはり住むのではなく、たまに遠出をして散歩がてら喫茶店で「お茶する」程度が妥当かなぁ。

(9)六波羅と平家滅亡の美学

六波羅は歴史的に重要な場所なのに、実はまだ私は行ったことが一度もない。どうやら六波羅蜜寺は町屋の立ち並ぶ路地の奥まった所にひっそりと建っているらしい、と何かのテレビで見た記憶がある。つまり「それほど歴史的な雰囲気が残っている」わけでは無いようだ。町名にも六波羅という名前は残っていないようだし、一体「六波羅」という名前はどこから来ているのだろう。Wikipedia によれば、六波羅蜜寺はもとは空也上人の開いたとされる西光寺が起源のようである。今も六波羅蜜寺には空也上人の「口から六体の阿弥陀像を吐き出している」有名な像が置いてあるそうだ。だが私はそれほど仏教に関心がなく、空也上人のことも人柄や事績については多少の興味がないわけじゃないが、まあ歴史上の人物の一人という認識に過ぎない。それより私にとって興味があるのは、平家物語に出てくる「清盛や重盛の豪壮な邸宅」である。こちらの跡地はその後に鎌倉北条氏によって「六波羅(後に六波羅探題)」がおかれるようになったので有名だ。だが、こちらは「太平記の世界」である。私はどちらかというと「太平記」はまだ読んでなくて、余り面白くもなさそうだなぁという気がしている。やはり、絢爛豪華な王朝絵巻の世界が私の興味の中心んであり、「好み」である。

平家物語といえば清盛の栄華と一族滅亡の大スペクタクル・ドラマであるが、その出発点となる舞台の一つが、この六波羅の清盛邸である。五条大橋を東に渡ってちょっと行くと、北側に今でも六波羅蜜寺がある。もし今度訪ねるとすれば、この辺りで「古地図」など広げながら「ぶらぶら散歩」でもして、何とか「清盛邸跡」を探す、なんていうスリリングなミステリーツアーをやってみたい、というのが私の計画である。2時間ほど歩き回ったら喫茶店にでも入ってコーヒーを啜り、電子タバコなんぞを燻らせながら「あれこれ妄想して」時間を潰すのが楽しくってたまらない。これが東京から新幹線で旅行に来ている身であれば、宿の手配とか電車の時間とか、色々と制約が多くて「心置きなく楽しむ」とは行かない。そこはやっぱり京都に住んで、ちょっと「気が向いたら」そこまで歩いてみるか、って調子で「歴史と向き合う」のがベストでは無いだろうか(おおっ、理想のフィールドワークだ!)。折り畳み自転車などに乗って市中を乗り回すのも「さらに乙である」。

そう考えると、京都に住むという案も捨て難いのだ。ああ悩むねぇ。

(10)御所と平安文学の世界

京都に住むとなれば、東西南北に点在する名所旧跡に自由に行ける場所がいいに決まっている。勿論、都会の喧騒が消えた夜のビル街よりは、「嵯峨野の幽遠な静寂」であるとか、東山界隈の「浮世離れした遊興の世界」であるとか、これぞ「京都」という場所に近い方が全然楽しいのは間違いない。しかし年金生活の私には悲しいかな予算にも限りがあり、そうそう高級な住宅に簡単に住めるわけじゃ無い、というのも現実である。まあ、よく頑張っても家賃5、6万が精一杯だろうか。そうなると、京都駅より南側の「九条や東寺」辺りの下町とか、「七条」近辺の京都女子大の学生向けアパートなんか、狙い目である。蹴上や御陵辺りも悪くはないが、京都駅にも近いし、もう少し都会風の施設も利用できて、なおかつ奈良との交通の便を考えると、東寺・九条・七条というのが「穴場」に見えてくる。九条辺りのアパートに住んで平安文学などをサラッと読んだ時に、登場人物の邸宅などを「古地図で調べ」て、実際その場所に行って確かめてみる、というのも酔狂だ。首尾よく邸跡などが文化財保護法などによって残っていれば良し、もし残っていなかったとしても「この辺りにあったんだけどなぁ」などとグルグル回ったりして、ちょっと近場の喫茶店に寄って店主に話を聞いたりし、「もう一度その人物をネットで調べたり」すると、更にグッと知識が深まるというものだ。あちこち市内の散策に歩き疲れたら、「御所」で涼むのも良し。雨が降ったら御所近辺の「シャレオツな喫茶店」でシトシト降りしきる長雨を見上げては、平安時代の悩み多き宮廷女官たちの恨言を「枕草子」など読み耽っては想像を巡らせるのも、また楽しい。

京都にもし住んだとしたら「歴史の秘密の扉を開けてみたい」という興味よりは、平安時代の人々が「出世と格闘する日々」を追いかけて見事に失敗する話に大笑いしたり、あるいは「身分違いの恋」に悩んだ末に、人知れず出家してしまった女性の話を読んで涙する、とかの方が楽しいや、となりそうである。私は特に、藤原兼家と花山天皇の駆け引きの話とか、一条天皇と定子の純粋な愛が悲しい結末を生んだ話とか、さらには道長の絶頂期に出仕していた清少納言と紫式部あるいは和泉式部などの煌びやかな宮廷生活など、この時代の書物を読むのが大好きである。やはり、源氏を読むなら「御所を望む瀟洒な喫茶店のテラス」に座り、木洩れ日の陰でコーヒーを飲みながら「本を読む」というのが一番である。まあ、今は電子書籍の方が便利かな。ただ、私はこれを老後の楽しみとして取っておこうと思っているので、それまではもう少し、住む場所は迷ってみたい。奈良もいいんだけど、ねぇ・・・。

以上、もう一度歩いてみたい京都ベスト10でした!

参考までに(1)〜(5)までを再度コピーしておきます。書いたのは随分前だが、今読み返してみても文体が素直で嫌味が無い。最近の私のブログなど、ウケ狙いも加わってどんどん劣化しているのは私としても忸怩たる思いだ。大いに反省したい。しかし、内容がちょっとずつ進化しているようにも感じられるのは、もしかして「私が贔屓目に見過ぎ」てるせいなんだろうか?。まあその辺は、歳と共に「心境の変化」もあるのかなぁ、と薄々自覚はしています。それが良い方に出てればいいのだけれど・・・。

(1)上賀茂神社

ならの小川は百人一首で名高い川だが、実物をまだ見てないので1度は行ってみたい。それも旧暦6月30日の夏越の祓えに合わせてがオシャレだ。御手洗川と言うのが正式の呼び名だそうだが、従二位家隆は季節の変わり目の一瞬を捉えて、一幅の叙情味溢れる風景を歌に残した。歌人というのはこのように歌にすることで、その風景を永遠のものとして我々の心に留める、なんて素晴らしい技なんだろう。賀茂社は5月の葵祭で有名だが、夏越の祓えはそれ程人に知られているわけではなく、一部のコアな人々に支えられた年中行事の一つだ。ならの小川にかかる舞殿で演じられる巫女達の優雅な踊りは、千年の歴史を紡いで綿々と続けられ、そしてまた千年先まで続くと言う。そんなことを考えながら「御手洗団子」を食べて見たい、と言うのが今の私のささやかな楽しみでもある。京の三大祭りに参加することは東男の私には多分出来ないが、こちらの祭りはハードルが低そうだ。少し静かでしめやかな祭礼の中で、千年の歴史の重みを感じるのも悪くは無い。

(2)泉涌寺

歴代天皇扁額に天武天皇以下称徳天皇までが欠けているって、本当なのか。私は歴史に興味を持つようになった始めに、この事実をなんかの本で知って驚愕した。日本の学校教育は天皇制を万世一系とか言ってるけど、この事実をどう説明するのか?と怒りに震えた。天皇の墓も本当は誰の墓かわからないのがいっぱいあると言うし、掘っくり返して学術調査をちゃんとやれよ!って思う。わからないものを分かったことにして疑問に蓋をする姿勢は、宮内庁の最大の欠陥である。というか、それだけで飯を食ってる連中だから必死に守っているんだとも言える。一度宮内庁を解体して、とことん科学の目で天皇家の歴史をさらい直してみるのが、日本人の歴史認識を改める一番の方法である。まず「天皇制のくびきから解放される」ことが問題の中心だと思う。実際に泉涌寺に行って扁額を見られるかどうかわからないが、何故名前を掲げることを拒んだのか?という問いかけを「当時の人の気持ちになって」考えてみたい。私は、天武天皇は「奈良の大和政権とは血縁関係が無い」のだろうと睨んでいるのだが。

(3)祇王寺

仏御前と嵯峨野の寺巡り、滝口寺も行ってみたい。嵯峨野は京から遠く離れた佗しい所、世を儚むにはぴったりというが、白拍子の悲しい恋物語のお陰で観光客が引きも切らずに押し寄せてるらしく、祇王も「こんなじゃなかったのに」と当てが外れて困惑してると思う。私は常寂光寺と二尊院には行った事があるが、雪のしんしんと積もった正月の人気のない頃だったので、実に神秘的であった。祇王寺と滝口寺はさらに奥まった所にあって、平家物語の素晴らしいエピソードで有名である。あの時代に男女の恋愛感情がどうであったかは、物語や和歌の世界から垣間見ることしか出来ないにしても、其れなりの「普通には考えられない純愛」というテーマでなければ、長く語り継がれるはずは無い。政略結婚が当たり前の世の中で純愛を貫いた物語は、やはり嵯峨野の荒れ果てた寺でこそ「美しくも燃え」るのである。私も年をとって恋愛なんぞとんとご無沙汰だが、まだ行ってない祇王寺や滝口寺を巡って、昔の人の恋物語を訪ねてみたい。ま、行ったからと言って、どうなるもんでも無いといえばそうなのだが。

(4)男山八幡宮

源氏の尊宗を受けた八幡社の出先機関、大元は宇佐神宮で、祭神は八幡大神(応神天皇=誉田天皇)・比売大神・神功皇后とある。平氏の厳島神社と対比して、全国44,000社の八幡様の元締めである。私は1度登ってみた事があるがどうも間違えてたらしく本殿など見てないので、その修正の意味でもちゃんと登って拝んでおきたい。ここは三川合流の地に立っており、後白河法皇が足繁く通った遊女の住んでいるあたりも目と鼻の先である。当時から建っていれば和気清麻呂も宇佐くんだりまで行かなくてもよかったのだろうが、道鏡の話より「源の八幡太郎義家」の名前の由来としての話の方が雄々しく華々しい。登って行くのはキツイので、ケーブルカーが確かあったと思う。御利益を求めて参拝するわけではないので、無理やり荒業をする必要は全然ない。小高い山のてっぺんに鎮座しているので、双眼鏡などでぐるっと見回してみるのも楽しみである。鎌倉の八幡様は正月に行ったので、生きて体が元気なうちに、ゆくゆくは宇佐神宮に詣でたいものである。

(5)義仲寺

京都から少し離れた大津の地にひっそりと佇む義仲寺は、木曽義仲の墓がある所である。義経に追われた義仲が最後を遂げた時、死ぬ時は一緒にと駄々をこねた巴御前を「お前は女だから」と諭して泣く泣く諦めさせたエピソードが涙を誘う。その巴御前が義仲の菩提を弔うために建てた草庵が後に寺となり、芭蕉の度々泊まることになった義仲寺である。ネットで見ると、境内はこじんまりと落ち着いた寺のようだ。芭蕉は亡くなった後遺言でこの寺に葬られたという。朝日将軍と呼ばれた若者が頼朝に追われて最後を遂げた話は、平家物語を彩る悲しい物語の一つである。しかしそれにしても頼朝はやる事がエゲツない。弟の義経を殺して、最後は源氏を3代で潰してしまった。鎌倉幕府を開いたといって歴史を転回させた先見の明がある人物とされているが、私は大した男ではないような気がする。芭蕉もそんな風に感じていたのではないかな。毎年1月第三日曜日に義仲の忌み日法要が開かれるそうで、私も行くならその頃にしたいなと思っている。やはり日本人には、義仲を選ぶメンタリティが似合ってるようだ。

以上でした。



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