京都には何度も行っているが、案外同じ様な所に行っていて本当の京都を味わうには至ってない気がずっとしてた。そこで今回は、行ってみたいと常々思っているがなかなかチャンスがなくて行けない所を挙げてみた。京都を代表すると言うのとはちょっと違うが、千年の歴史を感じさせる場所である。まずは(1)〜(5)まで
(1)上賀茂神社
ならの小川は百人一首で名高い川だが、実物をまだ見てないので1度は行ってみたい。それも旧暦6月30日の夏越の祓えに合わせてがオシャレだ。御手洗川と言うのが正式の呼び名だそうだが、従二位家隆は季節の変わり目の一瞬を捉えて、一幅の叙情味溢れる風景を歌に残した。歌人というのはこのように歌にすることで、その風景を永遠のものとして我々の心に留める、なんて素晴らしい技なんだろう。賀茂社は5月の葵祭で有名だが、夏越の祓えはそれ程人に知られているわけではなく、一部のコアな人々に支えられた年中行事の一つだ。ならの小川にかかる舞殿で演じられる巫女達の優雅な踊りは、千年の歴史を紡いで綿々と続けられ、そしてまた千年先まで続くと言う。そんなことを考えながら「御手洗団子」を食べて見たい、と言うのが今の私のささやかな楽しみでもある。京の三大祭りに参加することは東男の私には多分出来ないが、こちらの祭りはハードルが低そうだ。少し静かでしめやかな祭礼の中で、千年の歴史の重みを感じるのも悪くは無い。
(2)泉涌寺
歴代天皇扁額に天武天皇以下称徳天皇までが欠けているって、本当なのか。私は歴史に興味を持つようになった始めに、この事実をなんかの本で知って驚愕した。日本の学校教育は天皇制を万世一系とか言ってるけど、この事実をどう説明するのか?と怒りに震えた。天皇の墓も本当は誰の墓かわからないのがいっぱいあると言うし、掘っくり返して学術調査をちゃんとやれよ!って思う。わからないものを分かったことにして疑問に蓋をする姿勢は、宮内庁の最大の欠陥である。というか、それだけで飯を食ってる連中だから必死に守っているんだとも言える。一度宮内庁を解体して、とことん科学の目で天皇家の歴史をさらい直してみるのが、日本人の歴史認識を改める一番の方法である。まず「天皇制のくびきから解放される」ことが問題の中心だと思う。実際に泉涌寺に行って扁額を見られるかどうかわからないが、何故名前を掲げることを拒んだのか?という問いかけを「当時の人の気持ちになって」考えてみたい。私は、天武天皇は「奈良の大和政権とは血縁関係が無い」のだろうと睨んでいるのだが。
(3)祇王寺
仏御前と嵯峨野の寺巡り、滝口寺も行ってみたい。嵯峨野は京から遠く離れた佗しい所、世を儚むにはぴったりというが、白拍子の悲しい恋物語のお陰で観光客が引きも切らずに押し寄せてるらしく、祇王も「こんなじゃなかったのに」と当てが外れて困惑してると思う。私は常寂光寺と二尊院には行った事があるが、雪のしんしんと積もった正月の人気のない頃だったので、実に神秘的であった。祇王寺と滝口寺はさらに奥まった所にあって、平家物語の素晴らしいエピソードで有名である。あの時代に男女の恋愛感情がどうであったかは、物語や和歌の世界から垣間見ることしか出来ないにしても、其れなりの「普通には考えられない純愛」というテーマでなければ、長く語り継がれるはずは無い。政略結婚が当たり前の世の中で純愛を貫いた物語は、やはり嵯峨野の荒れ果てた寺でこそ「美しくも燃え」るのである。私も年をとって恋愛なんぞとんとご無沙汰だが、まだ行ってない祇王寺や滝口寺を巡って、昔の人の恋物語を訪ねてみたい。ま、行ったからと言って、どうなるもんでも無いといえばそうなのだが。
(4)男山八幡宮
源氏の尊宗を受けた八幡社の出先機関、大元は宇佐神宮で、祭神は八幡大神(応神天皇=誉田天皇)・比売大神・神功皇后とある。平氏の厳島神社と対比して、全国44,000社の八幡様の元締めである。私は1度登ってみた事があるがどうも間違えてたらしく本殿など見てないので、その修正の意味でもちゃんと登って拝んでおきたい。ここは三川合流の地に立っており、後白河法皇が足繁く通った遊女の住んでいるあたりも目と鼻の先である。当時から建っていれば和気清麻呂も宇佐くんだりまで行かなくてもよかったのだろうが、道鏡の話より「源の八幡太郎義家」の名前の由来としての話の方が雄々しく華々しい。登って行くのはキツイので、ケーブルカーが確かあったと思う。御利益を求めて参拝するわけではないので、無理やり荒業をする必要は全然ない。小高い山のてっぺんに鎮座しているので、双眼鏡などでぐるっと見回してみるのも楽しみである。鎌倉の八幡様は正月に行ったので、生きて体が元気なうちに、ゆくゆくは宇佐神宮に詣でたいものである。
(5)義仲寺
京都から少し離れた大津の地にひっそりと佇む義仲寺は、木曽義仲の墓がある所である。義経に追われた義仲が最後を遂げた時、死ぬ時は一緒にと駄々をこねた巴御前を「お前は女だから」と諭して泣く泣く諦めさせたエピソードが涙を誘う。その巴御前が義仲の菩提を弔うために建てた草庵が後に寺となり、芭蕉の度々泊まることになった義仲寺である。ネットで見ると、境内はこじんまりと落ち着いた寺のようだ。芭蕉は亡くなった後遺言でこの寺に葬られたという。朝日将軍と呼ばれた若者が頼朝に追われて最後を遂げた話は、平家物語を彩る悲しい物語の一つである。しかしそれにしても頼朝はやる事がエゲツない。弟の義経を殺して、最後は源氏を3代で潰してしまった。鎌倉幕府を開いたといって歴史を転回させた先見の明がある人物とされているが、私は大した男ではないような気がする。芭蕉もそんな風に感じていたのではないかな。毎年1月第三日曜日に義仲の忌み日法要が開かれるそうで、私も行くならその頃にしたいなと思っている。やはり日本人には、義仲を選ぶメンタリティが似合ってるようだ。
(1)上賀茂神社
ならの小川は百人一首で名高い川だが、実物をまだ見てないので1度は行ってみたい。それも旧暦6月30日の夏越の祓えに合わせてがオシャレだ。御手洗川と言うのが正式の呼び名だそうだが、従二位家隆は季節の変わり目の一瞬を捉えて、一幅の叙情味溢れる風景を歌に残した。歌人というのはこのように歌にすることで、その風景を永遠のものとして我々の心に留める、なんて素晴らしい技なんだろう。賀茂社は5月の葵祭で有名だが、夏越の祓えはそれ程人に知られているわけではなく、一部のコアな人々に支えられた年中行事の一つだ。ならの小川にかかる舞殿で演じられる巫女達の優雅な踊りは、千年の歴史を紡いで綿々と続けられ、そしてまた千年先まで続くと言う。そんなことを考えながら「御手洗団子」を食べて見たい、と言うのが今の私のささやかな楽しみでもある。京の三大祭りに参加することは東男の私には多分出来ないが、こちらの祭りはハードルが低そうだ。少し静かでしめやかな祭礼の中で、千年の歴史の重みを感じるのも悪くは無い。
(2)泉涌寺
歴代天皇扁額に天武天皇以下称徳天皇までが欠けているって、本当なのか。私は歴史に興味を持つようになった始めに、この事実をなんかの本で知って驚愕した。日本の学校教育は天皇制を万世一系とか言ってるけど、この事実をどう説明するのか?と怒りに震えた。天皇の墓も本当は誰の墓かわからないのがいっぱいあると言うし、掘っくり返して学術調査をちゃんとやれよ!って思う。わからないものを分かったことにして疑問に蓋をする姿勢は、宮内庁の最大の欠陥である。というか、それだけで飯を食ってる連中だから必死に守っているんだとも言える。一度宮内庁を解体して、とことん科学の目で天皇家の歴史をさらい直してみるのが、日本人の歴史認識を改める一番の方法である。まず「天皇制のくびきから解放される」ことが問題の中心だと思う。実際に泉涌寺に行って扁額を見られるかどうかわからないが、何故名前を掲げることを拒んだのか?という問いかけを「当時の人の気持ちになって」考えてみたい。私は、天武天皇は「奈良の大和政権とは血縁関係が無い」のだろうと睨んでいるのだが。
(3)祇王寺
仏御前と嵯峨野の寺巡り、滝口寺も行ってみたい。嵯峨野は京から遠く離れた佗しい所、世を儚むにはぴったりというが、白拍子の悲しい恋物語のお陰で観光客が引きも切らずに押し寄せてるらしく、祇王も「こんなじゃなかったのに」と当てが外れて困惑してると思う。私は常寂光寺と二尊院には行った事があるが、雪のしんしんと積もった正月の人気のない頃だったので、実に神秘的であった。祇王寺と滝口寺はさらに奥まった所にあって、平家物語の素晴らしいエピソードで有名である。あの時代に男女の恋愛感情がどうであったかは、物語や和歌の世界から垣間見ることしか出来ないにしても、其れなりの「普通には考えられない純愛」というテーマでなければ、長く語り継がれるはずは無い。政略結婚が当たり前の世の中で純愛を貫いた物語は、やはり嵯峨野の荒れ果てた寺でこそ「美しくも燃え」るのである。私も年をとって恋愛なんぞとんとご無沙汰だが、まだ行ってない祇王寺や滝口寺を巡って、昔の人の恋物語を訪ねてみたい。ま、行ったからと言って、どうなるもんでも無いといえばそうなのだが。
(4)男山八幡宮
源氏の尊宗を受けた八幡社の出先機関、大元は宇佐神宮で、祭神は八幡大神(応神天皇=誉田天皇)・比売大神・神功皇后とある。平氏の厳島神社と対比して、全国44,000社の八幡様の元締めである。私は1度登ってみた事があるがどうも間違えてたらしく本殿など見てないので、その修正の意味でもちゃんと登って拝んでおきたい。ここは三川合流の地に立っており、後白河法皇が足繁く通った遊女の住んでいるあたりも目と鼻の先である。当時から建っていれば和気清麻呂も宇佐くんだりまで行かなくてもよかったのだろうが、道鏡の話より「源の八幡太郎義家」の名前の由来としての話の方が雄々しく華々しい。登って行くのはキツイので、ケーブルカーが確かあったと思う。御利益を求めて参拝するわけではないので、無理やり荒業をする必要は全然ない。小高い山のてっぺんに鎮座しているので、双眼鏡などでぐるっと見回してみるのも楽しみである。鎌倉の八幡様は正月に行ったので、生きて体が元気なうちに、ゆくゆくは宇佐神宮に詣でたいものである。
(5)義仲寺
京都から少し離れた大津の地にひっそりと佇む義仲寺は、木曽義仲の墓がある所である。義経に追われた義仲が最後を遂げた時、死ぬ時は一緒にと駄々をこねた巴御前を「お前は女だから」と諭して泣く泣く諦めさせたエピソードが涙を誘う。その巴御前が義仲の菩提を弔うために建てた草庵が後に寺となり、芭蕉の度々泊まることになった義仲寺である。ネットで見ると、境内はこじんまりと落ち着いた寺のようだ。芭蕉は亡くなった後遺言でこの寺に葬られたという。朝日将軍と呼ばれた若者が頼朝に追われて最後を遂げた話は、平家物語を彩る悲しい物語の一つである。しかしそれにしても頼朝はやる事がエゲツない。弟の義経を殺して、最後は源氏を3代で潰してしまった。鎌倉幕府を開いたといって歴史を転回させた先見の明がある人物とされているが、私は大した男ではないような気がする。芭蕉もそんな風に感じていたのではないかな。毎年1月第三日曜日に義仲の忌み日法要が開かれるそうで、私も行くならその頃にしたいなと思っている。やはり日本人には、義仲を選ぶメンタリティが似合ってるようだ。
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