明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

全国迷所紀行 奈良編(続々) (8)大和三山(9)石舞台

2016-04-23 20:00:07 | 歴史・旅行
(8)大和三山は恐い山
僕は京都から奈良に入る時に電車の窓から見る大和三山(耳成山と天の香久山だけで、畝傍山は見えない)が好きだ。平野の中にぽこっと立って、険しいというより可愛らしい姿が微笑ましい。奈良は盆地だから高い山に囲まれていて、生駒山・二上山・葛城山と連なる峻厳な山々を間近に見ることが出来るし、東側には三輪山・鳥見山・伊那佐山、南には吉野の金峯山を筆頭とする深山幽谷の霊山が待ち受けている。山は見慣れた存在だけに、高い山々に囲まれて小さく控えめに立つ大和三山は奈良の人々にとって絶好の参拝場所だったのでは無いかと、いつも見るたびに何か神々しいものを感じてしまう。とくに美しいとは感じないが、奈良に特徴的な佇まいを与えてくれる大和三山は僕に取ってもホッとする景色である。

とくに夜、薄暗い月明かりの中にぼんやり浮かぶ香久山の黒いシルエットは昼間に見る姿と異なり、無言の存在感にドキッとして何か不安を呼び起こすような心理的圧迫感すら感じる。観光スポットとして持て囃されている大和三山だが、奈良時代の昔にはもっと恐れ多い山だったのかも知れないなと、ぼんやり窓の外を眺めながら考えた。奈良は夜は真っ暗である。都会になれた人間の目には真の闇は滅多に出会わないだけに、どこまでも続く真っ暗な世界は冥府の入り口が開いているかのようで恐ろしさまで感じる。美しさと恐怖の同居した世界が、続日本紀の描く狂気の世界だったのである。

それに比べて藤原京は雅で華やかだ。余り遺跡としては形が残って無いので残念だが、宮城とそれを取り巻く縦横の規則正しい道路や建物群を想像するに、朱や青に飾られた見事な建造物と唐からもたらされたであろう大陸文化の融合した、まさに日本の様式美の夜明けであると言っても過言ではない。

春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香久山 (持統天皇)

実際は藤原京から天香久山は見えないらしいので、歌の通り「来たらしい」で良いそうだが、万葉集に名高いこの歌を持統天皇自らが詠んだというのは、眉唾かもと思ってしまう。持統天皇は天武天皇亡き後の政局を藤原不比等と共に乗り切るだけでも大変なのに、吉野に30回も行幸して唐との関係修復に奔走したとの歴史証言もあるようで、歌なんぞ優雅に歌っている場合ではなかったらしい。大津皇子の一件や高市皇子の息子の長屋王の一件また井上内親王の呪詛の一件と、血なまぐさい事件の連続が彩る平城京へと続く歴史の新たな一章が幕を開ける。政治の中心が橿原の辺から奈良の方に移って周りに大寺院が立ち並ぶ大都会と発展したために、東大寺・西大寺・興福寺それに唐招提寺・薬師寺、もともとからあった法隆寺・飛鳥寺など、大寺院が目白押しだ。

しかし寺以外には何も無い。奈良は寺しかないのだ。寺と瀟洒な自然、それが渾然一体となって静謐な学問の世界が現出する。政治は平城京と共に失われて、後には平穏な民百姓の信心深い生活が綿々と続く豊かな田舎が残った。平安貴族にとっては古い都の面影が残る鄙びた家々の点在する遊びの地、伊勢物語にあるような若い男が馬に乗って、自然の中で1日を過ごすのには最適であったと言えよう。奈良は、自然が魅力である。

大和三山は奈良のシンボルだが、案外間近に見るというのは少なく、遠くで姿を見るだけというのが多いようだ。歴史の舞台にも意外なことに出てこない。標高が低過ぎて、戦の舞台にはなりにくいのだろう。高さも同じ位の丘とも言える程度の小山がこれ程までに人々に好かれているのには、それなりに何か魅力があるのだろう。平野の真ん中にポツンとある山はよく見かけるが、三角形に三つ並んでいるのは珍しい。旅の目印としてまた四季の移り変わりを目安として、生活に密着した心安い身近な霊山である。

いつかは登ってみたいが許可されているのかな?畝傍山はてっぺんに神社があったはずなので、今度登ってみよう。

(9)石舞台
橿原神宮前駅をおりてレンタサイクルを借りる。500円で1日乗り放題だ。最初に本屋に入って「るるぷ奈良」を買う。見所を調べるんじゃなく、単に地図が欲しかったのだ。今じゃハンディナビの良いのがあるしスマホでも見れるのでわざわざ買うことも無いが、折角奈良の自然を満喫しているのだからスマホなんて最新機器の助けを借りるなんてやめて、昔ながらに地図を眺めるのも一興である。駅前のバス通りを左に曲がってしばらく行き、石川池沿いを南下して急な坂道を登り始めると途端に建売住宅がバラバラ見えて、この辺りは随分開発が進んでいるんだななんて思いながら、流石に自転車を降りて押した。グーグルの地図を見ると団地っぽいのが建っているので、人口が増えているかも知れない。橿原神宮前は人気スポットでもあるので、将来住もうという人には要チェックだ。

岡寺から来る道に合流して左に曲がり甘樫丘を左手に見ながら石舞台古墳の方に向かう。奈良の景色は1300年の昔から全然変わってないような、心に優しくハートウォーミングな暖かさがある。それは外観を綺麗に飾った京都のおもてなし文化と違って、自然と寄り添い、花や鳥たちと共に生きてきた民衆の文化が、寧ろ外来の客の身構えを捨てさせて、自然体で懐に入り込む開放感がたまらない。亀石を過ぎ川原寺・橘寺・板蓋宮跡という明日香の香り高き歴史遺跡の間を通って島の庄に入る。蘇我馬子と推古天皇の蘇我氏黄金期、清々しい爽やかな風に吹かれてちょっと田舎びた宮廷を思い出し微笑ましくなった。まだ大王と言っていた時代で、村長に毛が生えたくらいの権力しかなかったらしい馬子だが、絶対的な政治力と資金力でのし上がり、欽明大王から敏達・用明・崇峻・推古の四代に仕えて権勢を欲しいままにしたという。古代人のロマンに溢れた物語が、いくつも記憶に蘇る。蘇我大王の天下は、楽しかったろうな。

石舞台は馬子の墓といわれ巨岩を積み上げた横穴式石室の古墳である。昔は小・中学生の修学旅行のメッカであったが、今時の子供はハワイにでも行ったのか余り見かけない。バスが2台ばかり止まっているが、どうせロクなツアーじゃなし「デカイわねー!」で終わりのオバさんがゾロゾロ出てきて、石舞台の周りをグルグル回って写真を撮り、バスに戻り次の場所へ向かって走り去ってゆく。食べることしか興味の無いオバさんにでも、石舞台は何かのインパクトがあるのだろうか。地下の馬子は毒づいているだろうが、どうしようもないのだ。無念だろう。

昔、修学旅行で来た時に説明員が「石舞台を作った方法は?」と質問していたのを思い出した。下らないこと聞くもんだと思うが、エジプトのクフ王のピラミッドを建てるには想像出来ないような設計技術と建築技術と土木技術が必要であるのに比べれば、石舞台など如何様にも作れるじゃ無いかと馬鹿にしてしまった。説明員も飽きているだろうが、仕事とは言え良い大人のする事じゃない。修学旅行の生徒は何かと高さは何メートルかとか、重さは何百トンかとか、実に馬鹿げたことを聞く癖が付いている。そんなもの聞いたって「スゴイなーっ!」しか言えないでは無いか。日本の教育はかくして堕落していくのである。たまには「この花崗岩はどこの石かわかるかな?」なんて質問をしてくれると、どこから切り出して運搬方法はどうやって、と学問的なアプローチができるのだが・・・。石舞台は野っ原にニョキッと立っている吹きさらしの墓だ。周りの土が皆んななくなったらしい。何とも淋しい姿になったものであるが、これも乙巳の変の逆賊扱いのトバッチリである。

残念なことに奈良は、此処にあったら良いのにな、というところに喫茶店が無いので有名である。で、とんでも無い道端にひょっこりあったりして驚いてしまう。観光客の動向調査など皆目気にしたことが無いのだろう、凡そ人が集まりそうも無いところに意外と良心的な店があるのだ。地元の人はよく知っていてそこそこ人の入りはあるのだが、いかんせん観光客にはマップが無いと素通りどころかかすりもしない。やはり住まないと分からないな。自転車で有名寺社に行けて、コインランドリーが近くにあって、スーパー・コンビニが10分以内にあって、ゴルフ練習場があって、そして小洒落た喫茶店があって、しかもウェイトレスが可愛い子だったりしたら即、引越しするのになと思ったりして、奈良は良いところだ。何よりゴミゴミした都会ずれしてないから、毎日がピクニックである。絶景なんか必要ないから、上質の日常が欲しい、ってね。

結局は、可愛いウェイトレスが目当てのオヤジじゃないか。奈良でもどこでも勝手に行け!

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