世間的に見たら
1、政治 ー ウクライナやイスラエルなどで戦争激化、世界的に政治変革が加速する
2、国際 ー 円安を止められない日本はどんどん落ちていくだけ、というのが確定
3、社会 ー ネットで募集の闇バイトが横行し、日本の安全神話が崩れつつある
4、経済 ー 裏金問題で自民が少数与党に転落。相変わらずの金権体質に批判集中も反省なし
5、情報 ー AIが登場するなど世の中の変化が激しくて、もはや政府が対応できずカオスが始まる
6、自然 ー 年明けから能登半島地震と異常気象で豪雨被害が連発、日本が災害列島化する
だいたい以上が、一応トピックとして挙げられるような一年だった。しかもこれらの出来事は来年はもっと酷くなると思われるので、この先一体世界はどうなるのか予断を許さない状況です。しかし暗い話ばっかりですねぇ。唯一明るい話題と言えば女子ゴルフで古江彩佳がエビアンを取り、メジャーウイナーに加えてベアトロフィまで取っちゃうという最高の一年だったことでしょうか(私は野球は知らないのですいません)。
とまあ、世間はますます暮らしにくくなっていく一方ですが個人的にはこれと言って大きな出来事は無く、その代わりに「ゆっくり老いていく日々」が変わり映えせず通り過ぎていった一年でした。そんな中でお約束の「年末振り返り」を書くとすればこうなるという、皆さんにとっては「ハッキリ言えばどーでもいい」記事なんですね。それでは粛々と始めましょう、ランキング形式でどうぞ・・・
5位、最近自分の事に無頓着だと気付く
どうも日々の生活に覇気が感じられなくなり、おまけに身の回りが「清潔感がなくなって」きたように思う。部屋の中はまだ「ゴミ屋敷」にはなっていないと自負しているが、そうかと言って綺麗に断捨離しようという気も徐々に失せてきた今日この頃である。まあ死ぬ時は一切合切「まるごとゴミ」になるわけだから、後は清掃業者に任せて思い残すことなくあの世に旅立つことにする、ってのも悪くはないかも。
自分に気を使わなくなったいい例が、今年は洋服を一つも買わなかった。昔の服を着ることで「気持ちも若いまま」いられるというオマケ付きだ。傍目に見ると年甲斐もなくという恰好になるが「気にしていない」。他人の評価を気にする年齢はとっくのとうに過ぎたと思っているのだ。実際、見るもの聞くもの全てが「懐かしの昭和テイスト」にどっぷり浸かっている自分に驚かなくなった。もう、新しいものを取り込む力も興味もないから、SNSなんてものも私には無縁である。まあ、さすがに「簡単スマホ」などは使っちゃいないが、YluTube も X も Instagram も TickTock も一度も使ったことはない。Amazon ですら最近は殆ど買ってないので、ほぼ「ネットと無縁」の生活である。これ、いわゆる「高齢者あるある」かも。
4、ゴルフの腕前がやっとこさ一段上がった、気がする
唯一のポジティブなニュースは、週3日通っているゴルフのインドア練習が効果あったのかどうか、なんとなくスイングが「少しずつ分かってきた」ような気がして来た段階である。もうこの歳になると「分かったからってどうなるもんでもない」という気もしないでもないが、やっぱり努力が実を結ぶというのは嬉しいものである。来年は飛距離も伸ばして、もう一度コース再デビューなんか果たしちゃったりして・・・体力との勝負ってこういうことなんだな、と思っています。
3、ラジオで暮らす毎日が新鮮
SNSも興味がなく、世の中の事にもトンと感心がなくなって「部屋に閉じこもる日」が以前と比べて格段に多くなった。そんな中でテレビを見るというのは健康的にも精神的にも自分という個性を失って、存在自体が「無」になるんじゃないだろうか?。それに気付いてからは、ラジオの魅力にどっぷり浸かる毎日である。主に聴くのはパーソナリティ中心のトーク番組と上質な音楽だ。歳を取ると若者の中身の無い「馬鹿っぽい大笑い」は全然いらないのだ。やっぱりラジオは人間が勝負である。
2、有名人の訃報を聞くたびに、次は自分かな?って気がする
以前は例えば同僚が亡くなっても不慮の事故という感覚だった。しかし最近はニュースで同年代の訃報を聞くと他人事には思えなく、自分が死亡していても何の不思議も無い、と思うようになった。例を言うと谷村新司(74)・八代亜紀(73)・火野正平(76)・西田敏行(78)と同年代が続いた(もんたよしのり(72)、大橋純子(73)も亡くなっている)。彼らはある意味年も年だし「寿命」と言えるかも知れないが、まだまだ年齢的には20歳も若い息子娘世代の中山美穂(55)が事故で亡くなったと聞いた時には、正直「何で?」と思ったものである。歌の文句ではないが、人の命は儚いものなのかも。クラシック・ファンとしては、現役世界最高峰のピアニスト「マウリツィオ・ポリーニ(83)」の訃報に接した時には、一時代の終焉を感じてひとり感慨に耽ったものである。ついでに言うと私の青春を支えてくれた「ボビー・コールドウェル(71)」も逝ってしまったと聞く。
次々にこの世を去っていく人々。私がその列の後ろに並ぶのはそう遠いことではないと思えば、残された人生を精一杯生きて「一日たりとも無駄にしないぞ!」と意気込んで見るけれど、そうそう充実した日々なぞ簡単に手に入るわけじゃなし。無為に日を過ごし、飲んだくれて床に入るのが関の山なのだ。全ては神の思し召しのままに・・・ってか?
しかし自分の身体に色々不調を感じるようになると、おいそれと「神がどうこう」なんてカッコつけて余裕かましてる場合じゃない、と尻に火が付いた。膝や首が痛くなって来たのもそうだが、一番は何と言っても「睡眠が思うように眠れてない」ことだろうか。そう考えると私の人生も、何となく終わりに近づいているような気になる。この記事を書いている私が今夜布団に入っても「翌朝起きてこない」でそのままお陀仏ということも十分ありえるのだ。つまり、いつ死んでもおかしくない歳になったと言いう事である。そろそろ「就活」を考えねば。
冬の訪れと共に人生の黄昏を迎え、私の人生も「終着駅」に近づきつつあるのを感じる今日この頃です。
1、私にとって最後に残されたものは「読書」だけなんだな、と気付かされる
いよいよ最後のミッションに挑戦する時が来た。それは「中国史」の研究である。勿論中国語の勉強も視野に入ってはいるが取りあえず「紀元前からの中国史」を紐解いてみようと意気込んでいる。まあ、現代の中国には申し訳ないけど余り関心が無くて、興味はもっぱら古い時代の「人々の生活」にあります。狙いは李白・杜甫に代表される「中国詩」と、金瓶梅や紅楼夢などの「小説」を読み耽ることでしょうか。
人間、死んでしまえば全ては忘却の彼方へ消えゆくのみ。であれば、やりたい事をひたすらやり続けるだけである。残り少ない人生を「読書三昧」にあてるのも一興かと。それにしても読書量が足りなかったのは反省です。何よりこの歳になって「いよいよ目が悪くなり」、中々長い事本を読むのが辛くなってきた。思えばあの日本文化の精髄を後世に残した偉大な芸術家「定家」の晩年は、目がほとんど見えなくなっている中、ロウソクの明かりを頼りに「ひたすら源氏を書写していた」そうである。私も見習わねば。
以上、私の令和6年を振り返ってみました。何はともあれプラス・マイナスすればカツカツ良い一年だったかな?、としましょう。人生はいつでもポジティブ・シンキング、というのが私のモットーです。だから最後のときには「一生で一番楽しかった事を思い浮かべ」て死にたいな、と願っています。間違っても死ぬ間際の後悔だけはしたくないですよねぇ、お互いに。
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