明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

古都の面影 (1)京都

2023-12-13 01:55:00 | 歴史・旅行
何とも言えぬ懐かしみと心温まる響き、それは一族の故郷を想い出させる我が祖先代々の土地、会った事のない見も知らぬ人々のはずが何故か何百年も前から知っているような、最後にはそこに帰っていく約束の地、私にとっての母なる大地そのもの、奈良である。
ただし、別に奈良で生まれたわけではない。生まれは茨城県水戸市である。

一方京都は、奈良と違って私とはどこか無関係な、訪れるための人工的な場所のようだ。何処を歩いても何か興味深いものに出逢える、それがコンパクトな地域に展開され凝縮され洗練され優雅に華やいで存在する。京都は別格である。

他の何処にもない高貴な施設、御所のあるところ、それが京都である。今は東京にある御所、しかしどれだけ東京人が天皇のことを愛しているか。東京人が愛しているのはむしろ江戸幕府で花開いた町民文化であり、火消し・町奉行・旗本に象徴される男伊達のドラマである。公家文化は根付かなかった。だから天皇は今でも京都の象徴である。私は個人的には天皇は京都に帰るべきだと思っている。京都御所もある。天皇に関係のある施設も山ほどある。ご先祖たちも泉涌寺にいて伊勢神宮も指呼の間である。いいことずくめだ。何より天皇は京都が相応しい。だから声を大にして言いたい、天皇は京都御所に戻るべきだ、と。天皇もそう思ってるのじゃないかな、聞いたわけじゃないけど。

話を戻すことにする。古都、特に奈良・京都の違いは何処にあるのか。奈良好き京都好きの違いは何処にあるのか。今日は両方の好きなところを書き出していき、結果的に京都・奈良の古都文化論となれば幸いだと思う。

(1)京都

京都は一つの壮大な美術館である、というのが私の意見である。人々の生活そのものをも含めた「京都」という作品を、広大な敷地の中で展開する。中に住んでいる人々は、知ってか知らずか京都という作品の一部になって、京都人である事に誇りを持ち京都を愛し、京都をより京都らしくする為に自分の人生を捧げる。京都は既に1200年そうしてきたし、これからの1200年をも同じ様に京都を守って行くであろう。展示物であり美術館員てありプロモーターであり保存協会員である。エリアそのものが美術館だからである。

しかし、その外観は同じではない。美術館のトイレがウォシュレットに変わり、電球がLEDに変わったように、素朴な昭和の草の生えた小道は、手入れの行き届いた桜の木の舗装された遊歩道に変わっている。古都がそのまま保存されている金沢のような街と違い、京都は外形をそのまま保存・展示する方法をとってはいない。京都は今でも生活の場である。いや寧ろ、生きている。
京都とは、京都人の生活スタイルを町全体で一つの美術館としたものである。アクセスもグルメもホスピタリティーもナイトライフも、京都は訪れる人を飽きさせないツールを進化させ、歴史の重みを加えて、観光というレジャーで大成功を収めた。観客は京都の中に入り込み、一部となり、また新たに京都を形作る、人それぞれに京都はあるのである。


1. 哲学の道

言わずと知れた思索の道である。老若男女がそぞろ歩く京都の一番京都らしい散歩道かもしれない。私は50年前に初めて行き、以来七度ほど行く機会があったが、この前テレビで今の様子を流していたのを見て、随分様変わりしたなあと感じてしまった。まず人が多い。私が行った時は観光シーズンでもなく土日でもなかったせいか、人はまばらでたまにすれ違う程度であったが、いまテレビで見ると、まるで原宿である。桜はほとんどなくまばらでずっと遠くが見渡せたのに、今はびっしりと手入れ良く植えられていて、桜並木の回廊のようである。中程に橋があり鹿ケ谷方面に行く道がダラダラと登って行く反対側の丁度その辺りに、一軒喫茶店があった。確か「法然」と言った。私は無類の喫茶店好きなので、古都で思索の道でボツんとある喫茶店と来れば、立ち寄らないわけにいかない。コーヒーを飲みタバコに火をつけてしばしボーッとしていたら、感想を書き付けるノートが目に入った。パラパラとめくってみたが大して面白いことを書いてあるわけではない、ただ記念に何か書いてみようというだけである。で、私も書いた。大学生だったような気がする。
まだその時のノート、残ってないかな。喫茶店自体があるかどうかも疑問だが、あってもビルかなんかに入っていて、垢抜けた瀟洒なカフェに変わってるんだろうな。勿論オーナーの経営方針と時代の求めるものが合致して今の京都がある。個人の思い出は、個人の引出しにしまって置くべきだとは思う。ただ「昭和の」哲学の道はそれはそれで良かったと思う。付け加えると、永観堂・南禅寺・インクラインと行くのも面白いが、銀閣寺・詩仙堂・一乗寺下がり松と行くのも一興である。ちなみに下がり松は40年前に行った時は、あまりに小さいので驚いた記憶がある。当時の本物はとっくに枯れて今は四代目だとか。吉川英治はこの木は見てたのか、見てたとすると作家の想像力は恐るべきものがあるよねー。

2. 野宮神社から雪の嵯峨野を歩く

30才の頃、会社で当時仲の良かった女性と、二人で京都に遊びに行ったことがある。着いた日は昨晩からの雪が積もっていて、渡月橋のあたりの桂川は雪の中だった。嵐電を下り野宮神社に詣でて、雪の降り積もった北陸本線の小さな踏切を渡ると、嵯峨野の竹林の小径である。人影もなくシーンとした清冽な朝の空気はひんやりして、25歳の彼女は美しかった。ひとつの思い出である。・・・だいぶ脚色しているが、ここはお許しいただくとして、それから常寂光寺・二尊院・祇王寺など清盛ゆかりの寺巡りを楽しんで帰った。泊まりはユースホステルに泊まったが、今時ユースホステルなんて流行らないことおびただしい。当時は旅も節約だったのである。

私は余り旅館やホテルにお金をかけるのは好きではない。あまりに人工的すぎる空間だし、あまりに訪れる者に媚びているような気がして、古式豊かな旅館と言ってもたかだか四百年、平安時代の雰囲気を味わえる旅館などはあり得ないのだ。わたしは京都に「枕草子」の世界を求める。だから旅は業平のように笥に盛る程度で良いと思っている。しかし料理・宿は京都の看板である。それを楽しみにやってくる人も多い。いや、それが大半かもしれない。いまや、平安時代を京都に求めるなんて時代遅れである。何しろ、応仁の乱によりそれ以前の建物は殆ど残ってないのである。「源氏」なんて夢のまた夢。

3. 正月の二年坂三年坂

会社の仲間と京都へ行ったことがある。暮れの31日大晦日に東名を走り、除夜の鐘のなる頃ようやく知恩院の前の通りに着いた。というか大渋滞で、鐘の音は車の中で聞いた覚えがある。正月は平安神宮で屋台の焼き鳥を食べ、蛇とマングースの闘いを見てサッサと帰った。京都に行ったと言っても京都の何かを見て帰ろうというわけではない、要は車で遠出したかっただけ。なので七回には入れてない。でも楽しかったね。

で、別のやつと二人で行った時、これも正月だったが、この時は正統派のルートで清水寺に行った。ウォークマンなどない時代にラジカセを担いで新幹線に乗り、座席は取らずにデッキで音楽を聴いていた。曲はたしかマービン・ゲイだったと思う。若かったのだ。で、なんでラジカセを持って行ったかというと、当時は二人して駄洒落を連発する会話に凝っていて、それを録音したかったのだ。しょーもない話。こういうつまらないことでもやってみようと思えるほど、若いということはする事がないのである。清水寺から二年坂・三年坂と回ったが、その年はそれから奈良に行き、山辺の道をたどって明日香地方を散策したと思う。だから二年坂・三年坂の記憶は、その後に一人で行った時である。

正月の清水寺はとにかく参拝客が多い。地主神社から舞台までずーっと人の波・波・波である。音羽の滝の水を飲んで、舞台下から上を見上げて、結局一周して出る。なんとなく焼物を見ようと思い、二年坂か三年坂かの焼物店を二三軒入ってひやかしたが、ひとつ気に入ったのがありどうしても欲しくなった。五万円と書いてある。当時の五万円は今の15万円位の価値があり、なかなか簡単には買えない。その日は買わなかったが、翌日また行ってとうとう買ってしまった。持っているお金を全部使ってしまったので、後は観光もやめて真っ直ぐ家に帰って寝た。京都の正月は華やかで、きらびやかに着飾った娘達がこれでもかと押し寄せて来る。二年坂・三年坂はそんな娘波が津波のように、寄せてはまた寄せ返す磯の景観を現出させる。歳の初めに相応しい、まさに都情緒たっぷりの正月である。若い女性が着飾った姿は実に京都によく似合う。不思議である。

4. 高瀬川沿いの夜景

京都で一番好きと言って良いのがこの高野川沿いの静かな裏通りである、というと驚かれる人もいるようだ。今は木屋町通りは若者の天下で賑わってはいるが、昔は静かな通りだった。北は高瀬川一番の舟入から南へとぶらぶら歩くのが、わたしは妙に気に入っている。夜風が爽やかな初夏の宵闇に行き交う美人のうなじ、真夏のうだるような熱帯夜に浴衣の着流しで練り歩く夕べ、秋深く月の明るく清かなる中で詩吟のかすかな声が遠くから聞こえてくる夜、真冬の冷え切った石畳に高下駄のカランコロンという澄んだ音色が響く帰り道、四季折々の風情に如何様にも変化する散歩道は川の水があくまで澄んでいて、川底に映る流れゆく木の葉の影が高瀬川を美しく彩る時、私の心は京都に想いを寄せて遥かに平安の世の雅びを夢見る。

ちなみに四条から坂を上っていく辺りはまだ行った事がないが、一度行ってみたいところである。観光名所は思いつかないので、多分余り有名な場所はなさそうだ。景色も大した事はない。京都でも鄙びた所だ。そういう所だからこそ、一度行ってみたいのである。他意はない。

5. 小倉山峯のもみじ葉心あらば

小倉山の大悲閣は大堰川の向こう側、渡月橋を渡って右に折れ、河岸を上流に上って行くと暫くして登り口がある。大悲閣は何度も見ているが、遠くから見るだけで登るのは初めてである。恐ろしく急な山道に申し訳程度に木の段の付いた参道を、エッチラオッチラと登ると大悲閣の見晴らし楼閣に出る。私は参道と思っているが、もしかしたら裏道かも知れないな、と今気がついた。なんとも暢気である、何せ燃えるように暑い夏の午後、じりじりと太陽が照りつける中を登ったのである。今更ながら「るるぷ京都」などが無い30年前のことだ。見晴らし楼閣からは京の街並みが一望できる筈なのだが、灌木がぼうぼうで全然見えなかった。今はどうなってるか知らないが、当時は観光客も少なかったのじゃないかな。私以外に人はいなかった記憶がある。また同じ山道を下りて戻ったが、なんて事のない寺である。

全体に京都の寺は宗教色が薄い。参道から三門を見上げる大寺院は、多くは京都の周辺に点在する。東福寺・泉涌寺・南禅寺・知恩院・上賀茂下鴨社・大徳寺・大覚寺・醍醐寺・天龍寺、数え上げたらキリがない。町中には西東本願寺があり百花繚乱だ。小さな神社を入れたら一体幾つあるか。

だが不思議と坊さんの姿が見えない。読経している時もあるが、大概観光客の前でパフォーマンスしている時である。京都の寺は建築・障壁画・作庭を見る場所で、仏道修行は奥の院かなんかでひっそりやっているのだろう、観光客には興味ないし第一京都らしく無い。

道元開祖の北陸の名刹「永平寺」に参禅した時の経験だが、とにかく若い僧が一心に修行しているのが印象に残った。永平寺ではまだ、仏道修行は何かを突破するかけがえの無い唯一の道である。それしかなく、それをやり通すしかないのだ。それを13・4の小僧が必死になってやっている。仏の道もいろいろだなあ、と思う。

小倉山は、対岸の亀山記念公園から見るのが綺麗だ。眼下に渡月橋と桂川、右下にはトンネルの出口があり、北陸本線か嵐山のトロッコ電車かのジオラマが、大堰川に浮かんだ観光ボートを一幅の絵画に仕立て上げている。こちらからは大悲閣も小倉山の中腹に鎮座して、錦秋の紅葉・黄葉に映える皇都の雅を愛でるかのようである。

小倉山 峯のもみじ葉 心あらば

今ひとたびの 御幸待たなん

貞信公藤原忠平の作、亭子院宇多上皇が行幸の折、子の醍醐天皇にも見せたいものだと言ったのに合わせて歌ったものだという。名歌である。私の好きな歌の一つである。

何と言ってもリズムが素晴らしい。ま-ば-ば、と「あ」行の脚韻を踏み、の-なん、と「高く言い放って」、小倉山に問い掛けるかのように余韻を頭上に解放する、見事である。

私は最初、死ぬならこの場所でと思ったが、公園なのでお墓を作れない。作ったとしても下を見下ろせない所じゃ意味ないし、この案は一時の浮かれ気分で思いついただけなので、東京に帰って暫くしてすっかり忘れてしまった。今では何番目かの墓所案である。

6. 男山八幡宮

これは付け足し。たまたま1日予定が空いて自由行動だというので、八条口からてくてく歩いた事がある。阪神競馬場を過ぎ、城南宮をちょっと見て、三川合流の山崎の地を渡り男山にたどり着いた。人のいない登り口を頂上まで上がって行くと、狭い見晴台のようなエリアに出た。喫茶スペースがチョロっとあって、こんなもんかいなと思いつつ降りて来て、電車で暗くなる景色を見ながら、京都もイマイチだななんて思ったが、違う所に登っていたのかも知れない。私は余り気にならないが、何処かの坊さんの話と一緒だなと感じた方もおられると思う。そうかも知れない。

まだまだ京都はいっぱいあるが、また次の機会に書き足そう。奈良との古都文化論比較編は次回奈良編の後に、まとめて書きたい。というか、私も結論はまだ考えてない。ただ京都は、人それぞれである。

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