明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

六国史を読むー5月15日

2017-05-15 20:00:29 | 歴史・旅行
つまらない洋書のだらだらとした読書がようやく終わって、今日から六国史に入る。六国史は言わずと知れた勅選の歴史書であるが、最初に出された日本書紀からして謎を満載しているので、私としては大いに興味をそそられるのである。謎とは、天智天皇と天武天皇に関する一連の問題が目を引く。倭の5王や継体天皇も実に不可解であるがとりあえず、この二人の存在が古代日本の最も大きな謎であることは間違いが無い。欽明-敏達-用明-崇峻-推古-舒明と続く皇統は蘇我入鹿の横暴により大化の改新というクーデターを招き、その結果皇極女帝の退位によって孝徳政権の河内へと政治の中枢は移った。教科書では蘇我氏滅亡などと変な説明で捻じ曲げられているようだが、孝徳政権を支えていたのは阿部や蘇我石川麻呂であったのだからむしろ、飛鳥を地盤とする勢力を河内の勢力が打倒したと見るのが正しいと思う。私の時代では学校では蘇我氏の横暴は誰一人疑うことのない史実だったが、今の教育ではどうなっているのか。安倍政権の戦前回帰的な教育方針からすると、全く変わってないどころか逆方向に加速しそうで恐ろしい。この一事を見ても古代史は全面的に見直す必要がある、と私は思っていてる。私が古代史を研究するのも、それが基本のテーマだからである。

そもそも九州と大和では、同一地名が非常に多い。アメリカに渡ったピューリタンの手で作られた都市をイギリスのヨークを真似てニューヨークとしたように、どっちが先でどっちが新しいかは別として九州の地名は奈良の地名とそっくりである。これは元いた人が故郷を離れて新天地に移り住んだ関係に似ている。おそらく時代の関係から、九州から奈良に引っ越したのだと私は見ている。今日の読書で最初に突き当たった疑問は、天智天皇の大津の宮が「滋賀県の琵琶湖の大津」にあったとする歴史は「どうも変だ」である。なぜなら歴史では「白村江で大負けした日本が唐新羅連合軍の追撃を恐れて」都を移したと説明されているが、宮を孝徳政権の大阪から元の飛鳥に戻してまで飛鳥の地にこだわった天智が、負けたからといって大津に逃げたのでは「飛鳥は空っぽ」になってしまうではないか。当然韓国から攻めてくる唐新羅連合軍にしてみれば、飛鳥に常駐して大津の天智暫定政権にプレッシャーを掛けていてもおかしくない。しかるに郭務宋等の大軍団は九州博多の太宰府へはやって来るが、飛鳥や大津の方はも「鼻も引っ掛けてはいない」のである。変ではないか?

こんな疑問は何も私でなくても誰でも考える事だが、世の歴史の大先生方は一向に思いつかないらしく、学校でも授業の中で取り上げた記憶はないのだ。もし唐-新羅の連合軍が怖いのであれば、どうせなら不破の関を越えて熱田の方にでも逃げた方がよっぽどましではなかろうか。だいたい飛鳥と大津では「近すぎて大差無い」のである。飛鳥なら生駒山脈があってまだ防御の役に立つが、大津じゃ河内から攻めて来たら「間に何も無く、ひとたまりも無い」のである。大津に逃げるという選択肢は見当違いも甚だしいと言える。また唐-新羅連合軍が日本と一大決戦をするつもりがなかったとしたなら、九州くんだりで暇つぶしをせずに、飛鳥や大津に直接来て戦後処理や賠償問題を話し合うのが筋だと思うのだが如何だろうか。考えるに、これは大津といっても琵琶湖に畔ではなく、九州の那の大津ではないかという説が思い浮かぶ。天武天皇と持統天皇との子供すなわち、草壁の皇子は那の大津で生まれたとする記事が日本書紀に載っていて、大津と言えば「那の大津」を指すのは当時当たり前であったと思える。持統天皇は那の大津に住んでいた筈である。持統天皇は天武天皇に嫁入りしたのだが天武天皇にして見れば何人もいる妃のうちの一人であるから天武天皇が那の大津に住んでいたわけでは無いが、飛鳥のような離れた所に住んでいて出張したついでに子供を作ったというような格の低い妃では無かったのだから、天武天皇はそこそこ近い場所に住んでいたと考えるのが妥当だろう。それにしても飛鳥に天智の影が殆ど残されていないのが不思議ではないか。というか天智という人物は飛鳥の風土に馴染めないのである。私のカンだが(母親の斉明天皇もそうだが)、どうも天智は「外国人」のような気がするのである。蘇我氏が渡来人なのではないかとは多くの研究や資料に明らかであるが、その蘇我氏を打倒した天智も渡来人だとするのは不思議な気もする。この当時渡来人はいっぱいいて、古い渡来人と新しい渡来人とが元々の原日本人とまぜこぜになっていたのではないか、というのが私のイメージである。果たして天智は何処の地を本拠地としていたのか、そして一方、那の大津は天武の生まれ育った地元なのだろうか。

天武が九州に勢力を持っていたのは壬申の乱の時の参加メンバーから明らかな事実であるが、近畿地方から東の岐阜や熱田の方にも天武の味方はいっぱいいるようだ。天智が病気になって死期が近いとなった時まで天武は大皇弟と呼ばれていたと言うが、天武の広範囲なバックアップ勢力を考えると天武は相当古い伝統を持つ氏族団の長であったのではないか。前々から疑問であった「天智と天武は、どっちが九州倭国系でどっちが大和日本系」かに対する答えは、どうやら天武が大和日本で天智が九州倭国となりそうである。当時は日本人という感覚は薄く韓国と密接に繋がっており、百済と倭国とは兄弟のような関係にあった「いわば半島と列島両方にまたがる政権」のようである。だから白村江の戦いなどが起こったのであるが、負けたのは天智であり九州に本拠地を置く「海峡国家の倭国」である可能性が大である、と私は考えている。だから天智は那の大津という「船で逃げるの最適な地に宮を移した」と考えたい。天智が7年間も帝位につかずにいたのは唐との戦後処理に一定の目処がついて、唐に滅ぼされる危険がひとまず去ったと分かったからではないだろうか。天智がようやく天皇位に就き、政権も安定したころから少しずつ天武の名前が歴史に出てくるようになった。唐から郭務宋が日本に来たのはマッカーサーの進駐軍が日本に来たのと全く同じで、日本を非武装化して唐に対抗しないようにするのが第一の目的と思われる。その目的に乗っかって勢力を伸ばしたのが天武ではないか。つまり戦後の吉田茂と同じような感じで唐と交渉していたのが天武である、という古田説に私は賛成したい(というか古田説を読んでそう思ったと言う方が当たっているが、天智が九州倭国の王としている点で古田説とは真逆である)。天武は漢の高祖の易姓革命に倣って壬申の乱を戦ったと言うが、正統な倭国の王族であれば易姓革命にならないのでやはり「田舎の小国の王」である方がイメージが近い。「日本は本小国、倭国を合わせたり」と中国の歴史書に書いてある(後漢書だったと記憶しているが定かではない)通り、郭務宋等の戦後処理の方向に沿って動いた結果が「壬申の乱」じゃないかと私は見ている。これは郭務宋等の指示というのではなく、日本のことは日本に任せたという感じだが概ね中国の世界戦略にも合致しているのではないか。天武が政権を取った後は、唐との関係は良好になって行くのである。

天智の子の大友皇子で「旧勢力」は一掃されたと思ったが、ここで持統天皇という線が登場する。高市皇子は自然死だそうだが、「大津皇子は謀叛罪」で「長屋王は呪詛」で殺された。天武の系統で残っているのは持統天皇の子の草壁皇子の「孫」の家系である。皇室の菩提寺である泉湧寺には天武系の名がないそうだが、壬申の乱は大友皇子の母親の出自が低いのでむしろ「天智系の中というか兄弟姉妹の間の勢力争い」と見たほうが当たっているかも知れない。多くの子供の中で「天武天皇を味方にした持統天皇」が勝ち、結果として何代か政権を取ったがまた光仁天皇に戻り、桓武天皇と続いて平安京を開く。天智が「女子を産むタイプ」の為に天下が乱れた、とも言えるのである。とすれば天武は一時的な「お助けマン」に利用されて、結局は捨てられてしまったチョイの間の男というわけだ。何とも女は恐ろしい。この天智と天武、謎は深くてまだまだ研究の余地がありそうである。早速Amazonで関連本を色々物色しようと思うが、ネットにも多くの説が出ていて迷うくらいだ。まずは天武天皇に関する謎を23ネットで読んでから、Amazonでじっくりと単行本を選んで見ようと思う。

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