明日香の細い道を尋ねて

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孤独な夜に聞くクラシック(13)後藤正孝の弾く「リストのペトラルカのソネット」は絶品!

2022-04-30 18:25:34 | 芸術・読書・外国語

後藤正孝の演奏は、私のリストの評価を「劇的に」変えたのである。今まで私は、リストは余り注目して聞いてはいなかった。稀代のビルティオーゾという程度の認識である。愛の夢第3番などのポピュラーでロマンチックな曲は知ってはいたが、作曲家としての評価はほとんど無いに等しかった。唯一、クラウディオ・アラウの演奏で、ピアノ協奏曲第一番と第二番を持っている程度である。ところがある晩、布団に入って何気なく聞いたラジオ番組でこのリストのピアノ曲が流れた時、「何という美しい音の響きだろう!」と聴き入ってしまって、曲が終わった後も感動が収まらなかったのだ。逆に真っ暗闇の中で「すごい演奏だ!」と目が冴えてしまい、仕方なく起き出して YouTube を検索しまくった。それほど衝撃的な演奏だったが YouTube で中々見つからず、その夜は30分ぐらいの徒労の末、結局はまた布団に入って寝直した。翌日起きてからもう一度 YouTube で「後藤正孝」を検索したが、余り有名で無かったのか、まだ「あの夜の感動的な演奏」は見つかっていない。あれは何だったんだろう?

布団の中で聴いているので、外界からの情報が一切遮断されている、というのも一つの要因としてあったかもしれない。言わばコンサート会場で目をつぶって聴いている状態だろうか。リストの「ペトラルカのソネット」は、一般的には彼の持ち前の聴衆受けの良い「超絶技巧をひけらかすタイプ」の曲では無い。イタリア「巡礼の年」シリーズの中に入っている曲で、どちらかと言えば地味な方に入ると言えないでもない。これは、リストが折に触れて感じた印象を、日記のように書き留めていた「随筆集」のようなものでは無いだろうか。その分、聴衆の存在をあまり意識しない「自由な発想」が感じられる。後藤正孝は第九回かの「リスト国際コンクール」で優勝しているので、ピアノの技巧は確かなものがあると思われるが、まあ、風貌は「リスト弾きらしからぬ」田舎育ちの青年という印象が、ちょっと期待はずれではある。勿論、レコードで聞く分には何の問題もないし、音楽は「顔で」演奏するもんじゃないからいいけど。

ところで、後藤正孝の演奏が見つからないので、代わりにピティナ音源のペトラルカのソネット第123番を聞いてみた。自分の中の魂に静かに問いかけるようなピアノの響きを聞いていると、リストという人は「とても充実した」友達の多い社交的で優雅な人生を送ったんじゃないか、と思えてきた。ショパンと比較するのも何だが、ショパンがどこか憂愁の翳りを表に出すのに対し、リストの曲には持ち前の「天性の明るさ輝かしさ」がある。そこが現代人の「ショパンへの高い評価」の理由なんだろうが、同時代人としてみた場合、リストの絶大な人気の理由は「その抜けるような青空」にも似た明るさにある、と私は感じた。暗く内にこもって情念的なショパンよりは、天才的なピアノ技術で華麗な音を奏でて魅了するリストの方が、きっと私も好きになっていただろうと思う。

じっくりと耳を澄まして聴き込むと、リストのピアノ曲は「一つ一つの音の粒だち」がクリアでキラキラしているのが分かる。ショパンの「何かの情景が浮かんでくる」ような物語性や、ベートーヴェンの「聴衆を焚きつけて」行動に走らせるようなメッセージ性は無くて、むしろ古典の伝統を受け継いだ「楽しむための音楽」が見えてくる。音楽には人それぞれによって色々な種類があってもいいとは思うが、音楽を「食事のように」楽しんでも良い、というのも一つの芸術の考え方である。むしろ歴史的には、こちらの方が主流ではないだろうか。その楽しむための音楽に「天才的な腕前」を振るって見せたのがリストでありワーグナーであり、またモーツァルトやバッハであると私は考えた(ショパンも好きだけど)。人々が時々「何々が好き」と言うのは、そういう事ではないかと思う。そんな意味では、リストは私の大好物になりそうだ。

これを機に、少しリストを聞いてみようかな、と思った夜であった。


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