明日香の細い道を尋ねて

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古代史喫茶店(18)斎藤忠「倭国と日本古代史の謎」を読む・・・古代史謎だらけ総集編その9=最終回(おわり)

2020-08-02 16:34:46 | 歴史・旅行
私の大好きな古代史。謎は殆ど解明されて無い。どこを掘り下げても深い闇に覆われていて、それが更に私の「謎解き大好き」の興味をそそるのだ。それらの疑問も、まだ内容が未整理のまま山積みになった状態だが、いつの日かこれらの謎がスッキリと解け、暗い霧の中から「朧げな姿を徐々に露わ」してくる時を夢見て、とにかく気になっていることを書き出しておこうと思う。

3、持統天皇とは何者か?
古代史第二の謎は、天武天皇から始まった。そもそも天武天皇はどこの誰で、どこからやってきたのか、という根本的な謎は一応置いといて、古代史最大の戦いと言われる壬申の乱が「九州熊本」で勃発し、弘文天皇(大友皇子)が自殺して新政府が天下を取ったというのは「ほぼ確定」の事実、と私は認識している。壬申の乱という、国を挙げての一大決戦は、「奈良の吉野」なんていうチョロい田舎から始まったドタバタ劇じゃあないのだ(納得!)。私は前回、天智天皇(中大兄皇子)は韓人なのか?、という謎を取り上げた。まず乙巳の変で蘇我本宗家を誅滅したあと、当時一大勢力を作り始めていた、吉備の系統である宝皇女(皇極天皇)の弟・孝徳天皇へと政権が移り、時代は一気に東アジア激動の時代へと動いていく。

吉備はどちらかと言うと、九州王朝に近い勢力である。その九州王朝が、百済に肩入れして「白村江」で唐・新羅連合軍に大敗したあたりから、日本は実質的には「唐の衛星国」のようになっていたと思われる。その中で急激に力をつけてきたのが、天智天皇であった。天智天皇の本拠地は九州なのか奈良なのか、というのも何れは解かなければならない疑問の一つである。だがその前にまず、「持統天皇とは誰なのか?」を明らかにしなくては、先に進めないのではないだろうか。持統天皇は天智天皇の娘ということになっているが、奈良の豪族の娘などではではなく、九州の皇族の娘ではないかと私は考えている。その証拠となるのは、一つには草壁皇子は北九州の生まれであり、姉の太田皇女の息子大津皇子も「那の大津で生まれたから大津皇子」だという事実である。つまり天智天皇の娘のうち二人は、九州勢力の出であった(母親は違っていたという可能性はある)。これはある意味、歴史のコペルニクス的展開だと思っているが、天智天皇が九州王朝とは一線を画した「渡来系」の出身ではないか、という疑問も包含していると思っている。

天武天皇が亡くなった後、歴史の上では持統天皇が皇位を継いだことになっているが、女性が天皇位を継ぐ場合は、後継者が何らかの理由で「すぐ皇位を継ぐわけにはいかない場合にのみ」行われる緊急避難だと私は思っている。少なくとも日本では、女性天皇の例は日本書紀によれば「一応、推古天皇が最初」であり、それまでは女性が皇位を継ぐことはなかった。

王権はもともと、皇位継承権を持った「地域をまとめる有力者」が選ばれている。そして、何人も候補者がいた場合、全部の豪族が集まって合議の末に決定されたと考えられる(合議に至らない場合は闘争で決着した)。よって幼い者は、最初から候補者に挙がることすらなかった訳だ。だから理由はどうあれ、推古天皇が天皇位に選ばれたということ自体が、日本書紀の壮大なウソだとする説が出てくる。私は推古女王は存在したかも知れないが、飛鳥地方の豪族を形の上で代表しているだけで、実質的な支配者は「九州から指名された九州王朝の代官、蘇我氏」ではないかと思っている。つまり推古天皇は大阪府知事で「蘇我氏=菅官房長官」の下にあり、日本全体を支配しているのは九州王朝・中央政府の安倍首相、という構図である(ちょっと考えすぎかな?)。乙巳の変は、地域支配者蘇我氏の中での「内部闘争」と位置付けたい。とにかく飛鳥地方は日本の歴史の上では、孝徳天皇が出るまでは「数ある中の一地方勢力」だった、というのが私の今の到達点である。

一方、九州では唐の郭務棕らの来日が頻繁にあり、天智天皇の対応も忙しくなっていた。そんな中、朝鮮半島を掌握した新羅が「唐と対決姿勢を明確にする」ようになり、唐が日本のことに構っていられる状況で無くなったのを好機と捉え、667年大津に近江宮を開き、称制から天皇を号して即位、ようやく歴史上に言う天智天皇となったのである。そして、政権を奪われた九州王朝が天智天皇の死を契機として逆クーデターを起こしたのが、壬申の乱である。ちなみに近江大津宮というのは、滋賀県大津市では無い、と私は思っている。大矢野栄次著「壬申の乱の舞台を歩く」に詳しく書いてあるが、どうも九州にあるらしいのだ(皆さんご承知の方も多いと思うが・・・)。この辺りはもっと研究されてもいいだろうと思う。

壬申の乱で勝利した天武天皇は自ら親政を行い、倭国復興に向けて矢継ぎ早に改革を推進していった。そして、686年9月、天武天皇が亡くなった直後の10月に、見計らったかのように大津皇子が謀反の罪に問われて自殺させられている。草壁皇子と大津皇子はライバル関係にあり、皇位継承争いが起きるのを持統天皇が未然に防いだのだ、と歴史家は見ている。大津皇子の母親は持統天皇の姉の太田皇女であるが、大津が4歳の時に亡くなっていて、この母親の死が大津を弱い立場に置いたと考えられている。ところが持統の思惑とは裏腹に草壁皇子が急死してしまい、早世した草壁の子「軽皇子=文武天皇」がまだ幼かったので、成長して即位するまでの期間「持統が皇位を中継ぎし」て頑張ったことになっている。何も疑問点は無いように見える一連の出来事だが、実は天武天皇の次は「高市皇子」が天皇位を継ぎ、父親の改革を積極的に推進して(大化の改新)いた、という説が根強い。私はこの説も大いに可能性があると思っている。

懐風藻の葛野王伝記に高市皇子が亡くなった時、諸豪族を招集して「跡継ぎを決める会議」を開いた、とある。そして葛野王が「軽皇子(文武)がなるべきだ」と強く主張したために、「持統皇太后が大いに喜んだ」とあるそうだ。つまり高市皇子は、皆んなが集まって後継者を決めなければならない地位にいた、ということである(つまり天皇である)。もし持統がその時点で「天皇」であったのなら(日本書紀では、そうである)、そんな会議は必要ない。この記事を持って、持統は天皇ではなかったのだ、とする説にも一理ありそうだ。天武天皇から文武天皇に至る紆余曲折の中に、平安時代の日本とは「ひと味違った奈良時代」が見えてくる。その鍵を握っているのが持統天皇と藤原不比等のようだ。

4、文武天皇の死から、孝謙天皇までの迷走の謎
中臣鎌足が孝徳天皇と組み、天智天皇をけしかけて、権力を握っていた蘇我氏本宗家を倒した645年以来、何故か忽然と歴史から消えていた藤原氏。それが、不比等が持統天皇の政治を補佐するあたりから、再び不死鳥のように歴史の表舞台に登場してくるのだ。そもそも鎌足は蘇我氏を倒すまで全然名前が出て無くて、乙巳の変以降は再びパタッと沈黙し、最後に死ぬ時に天智天皇から「大紫冠と藤原の姓を賜った」のみの、言ってみれば影の薄い人物である。政権の誰かに肩入れすることもなく、内大臣という地位にありながら存在を消しているのである。それが高市皇子が亡くなり、文武天皇が即位するあたりから急に政治に絡んできて、みるみる政界を牛耳る大勢力に伸張した。この間、藤原氏は何をやっていたのか?

ここに695年の首都移転という大復興事業が絡んでいる。九州北部で発生した大地震が首都一帯を完全破壊し、やむなく政権を飛鳥に移転して「新益京」とした、という(これこそ斎藤忠の慧眼である)。これは「今で言う藤原京」のことだが、その藤原京という呼び名も、「臣下の名を冠した都名」で変だと言うのである。これは「聖徳太子の謎」というブログに書いてあった疑問だが、確かに言われてみれば不思議極まりない。この藤原京という名前、実は明治時代に命名された「現代名」なのだ!。明治政府という、宗教まがいの皇室至上主義者集団がしでかした、歴史改悪の一つである(無茶苦茶するのもいい加減にしてもらいたい)。元々は「新益京」という立派な名前があるのだから、教科書から何から全て「元に戻すべき」だと強く提言する。藤原氏というのは、明治になってもまだ「歴史を改変する悪行」を続けているとは、何とも「ふざけた家系」ではないか。私は「もし皇室を復権させたら、こうなる」という見本だと思っていて、その害毒の根元に存在しているのが「藤原氏の伝統である、真実糊塗の体質」だと考えている。

ともあれ、九州太宰府から奈良の新益京へと首都移転を余儀なくされた時から、「九州王朝のバックボーン」が変質してしまったのである。移転で土着旧勢力の勢力が弱まり、新興の藤原氏が政権を掌握・後押しすることになったのは間違いない。九州太宰府から奈良へ奠都した695年の時点で、「倭国は正式に日本国と改名」した。歴史の転回点である。この改名が、何をどのように変更したのか?。日本の歴史の「第三の謎」である事は、間違いない。

ところで、聖武天皇と藤原氏の娘・光明子との娘の諱が、「藤原」ではなくて「阿部」というのは、大いに興味を引く。そもそも文武天皇の母親・元明天皇の諱は「阿閉(阿部皇女)」と言い、孝徳天皇の元で右大臣を努めた「蘇我倉山田石川麻呂」の娘・姪姫の娘である。ところが遠智姫・姪姫は「阿部氏の娘」で、天智天皇に嫁いだのではなく、実は「孝徳天皇」に嫁いだとする説がある。つまり持統天皇は、孝徳天皇と「阿部氏の間に生まれた娘」であった、という衝撃の説が出ている。これも持統から称徳天皇に至る「異質の時代」を象徴する話だ。そして、藤原氏の祖先である中臣鎌足は、孝徳天皇から「夫人のお下がり」を娶っている。これも何か深い意味があるようで、「謎を秘めている風」に見えるから不思議だ。ちなみに、長屋王の母も「本名は、阿部明日香」だという(阿部氏、すごいねぇ)。今まで余り知られていなかったが、天武朝は実は「阿部氏と深くつながっている」ようだ。

阿部氏の系統が勢力を伸ばしている中で、何故か藤原氏が台頭してくるのだ。不比等は「能吏」である。ある程度の地位にはいただろうと思われるが、有能な実務者として、それなりに政府機関の仕事をそつなくこなしていただろう。しかしその部族が「急に日本を代表する氏族」になったのには、文武天皇に嫁いだ「藤原宮子」の存在が不可欠である。天武天皇は男子皇族に恵まれていた。それが持統の「嫡子相続法制化」によって候補者が絞られることになり、実は「藤原氏」が最大の利益を得ているというのは皮肉である。これはそもそも藤原氏が仕組んだことなのか、それとも偶然「転がり込んだ奇跡」なのか、本当のところは誰にも分からない。謎の「おおもと」は持統天側には無く、藤原氏が握っているのではないだろうか。だとすれば「藤原氏恐るべし」、である。男の子をバンバン生んでいた天武天皇の血筋が高市皇子・草壁皇子・大津皇子と次々と途絶えてしまい、次に立ったのが「嫡子が首皇子だけ」の子宝に恵まれない文武天皇である。奥さんが複数いるのが普通の古代において、子供が一人だけというのも異例である。勿論、これは藤原宮子を始め、多数いたであろう妃たちの方に問題があるかも知れないが、もしかすると文武天皇は天武天皇の家系ではないかもしれないとも考えられる。天武は男の子を多く生んだが、文武天皇・聖武天皇と皆、子宝には恵まれおらず、とうとう孝謙・称徳天皇で絶えてしまった。せっかく外戚の地位を獲得した藤原氏だが、手は打たなかったのだろうか。政権に密着していた藤原仲麻呂などの例もあるようだが、彼も乱を起こして鎮圧されてしまう。とにかく文武天皇が即位し、倭国を日本と改名したこの時代から、藤原氏の伸び方が尋常ではない。蘇我氏と阿部氏、そして藤原氏。歴史はこれらの氏族を中心として展開していく。

以上、天智天皇から天武天皇・持統天皇、そして文武天皇の首都移転と日本改名まで、謎が謎を呼ぶ古代史の「黄金時代」を、斎藤忠に導かれて「私なりの疑問に思う点」を書いてみた。思えば称徳天皇で皇統が途絶えてから、合議の末に白壁王(光仁天皇)が選ばれて皇位を継ぎ、さらには「天智天皇を始祖と仰ぐ桓武天皇」の末裔が位を継ぐ「現在の皇室の基礎」が始まったのである。天皇家の菩提寺である京都泉涌寺の皇室歴代天皇の位牌に、天武天皇以下9代の天皇名は「欠けたまま」になっているという。これも直そうと思えば何時でも直せるのに、宮内庁は頑なに直そうとはしていない(何か言い伝えでもあるんだろうか)。

九州王統の時代が称徳天皇で終わって、白壁王つまり光仁天皇が「天智王朝」を復活させた。そして歴史的な桓武天皇の「郊祀」が行われて、その後の繁栄へと繋がっていく。桓武天皇が天智天皇を始祖と崇めていたのは有名な話だが、舒明天皇や推古天皇やその前の「欽明天皇」を崇めるのではなく、何故「天智天皇だったのか」というのは興味深い。平成天皇が「天皇家は韓国と縁が深い」と言っていたそうだが、それは桓武天皇の母・高野新笠が、渡来氏族の出であるからであろう。そうであれば、天智天皇が元々の日本の地場勢力とはそれ程深く結びついていなくて、全く別の系統であった可能性の方が高いと言えよう。これはまさに、第一の謎「韓人問題」に繋がってくる疑問である。

とにかく倭国・九州王統が「阿部氏」に支えられた持統の血統で終わりを告げたあと、天智天皇を始祖として「渡来系・藤原氏」が支える王統が日本を統治した、と言えるのではないか。それが一応の結論ということで、「斎藤忠」を一旦本棚に置くことにする。

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