1、「日本」という字の読み方
「日夲」というのは初めて見る字だが、これが元々の日本国の書き方である(らしい)。私は「夲」という字そのものを知らなかったので、こういう字を書いていたということに本当に驚いた。実は私達は、日本を「ニホン」と当たり前のように読んでいたが、昔は日本を「ヒノモト」と読んでいる時代があったらしいのである。本と夲と、この当時どういう違いがあったかはまだ不明だが、これと同じ表記をしているのが何を隠そう「中国史書の新唐書と通典」の2つだそうだ。何か怪しい雰囲気が漂ってくるではないか。
ちなみに、以前に読んだ「万葉の虹」で書いてあったことだが、香具山の麓の「奈良県文化財研究所藤原宮跡資料館」に展示されている万葉集の古写本には、52番の歌にある日本の字に「ヒノモト」と振り仮名が振ってあるそうだ(勿論、「写本に」である)。いつ、この振り仮名が書かれたかはわからないが、元々の万葉集の時代には、「日本=ヒノモト」というのは一般的な普通名詞だった可能性もなくはない。この〇〇の下という意味の「もと」は、何本とか本当とか本日とかいう意味の「ほん」と比べると、より日本の命名には適しているように私は感じた。そういう意味では、むしろ「ヒノモト」という意味を表すのには、「日夲」の方がスッキリしていると思う。勿論、当時の命名者がどう考えていたか、というのは全然別であるが。
そういえば平安時代の紫式部日記に「日本紀など無用のものにして、云々」という記述があるが、いつから日本紀が日本書紀に変わったのか、こちらも重要な点であるから調べてみる必要があると思う。そんな字の違いなんか「どっちでもいいじゃないか」というのでは、私の歴史探索の旅は始まらない。まず「ヒノモト」という名前の付け方は、それまでの北九州倭国の歴史と「相入れない」雰囲気があるが、本当のところはどうなんだろうか、という所から始めたい。
なお、「日本」という字が歴史の中で初めて出て来たのは、私の拙い記憶の中で言えば、百済本紀を引用した「日本天皇・太子皇子、倶に崩薨りましぬ」という有名な注である。これは、元々は「倭国王」と書いてあったのを、日本書紀の編集者が「日本天皇」と書き直して載せている可能性もある。百済本紀の原文は散逸していてその真偽は確かめられないから、それを良いことに日本書紀編纂役人が自分勝手に改竄した、という可能性も否定できないのだ(改竄は昔も今も政府の得意技である)。
いずれにしろ、倭の五王の「武」が宋に国書を出した時点では、国名が「倭国」であったのは間違いない(名前が倭武なので)。もしかして倭国以外のどこかの国が「日本」と称していて、そこの天皇と太子皇子が一度に死んでしまった、というのなら辻褄が通るが、そうなると別の国=日本の「継体天皇と安閑・宣化両王子」が死んだことになる。こういう説を唱えている学者もいるにはいるようだが、継体天皇の年譜には色々あって「未だに決着がついていない」のだ。謎の天皇である。長いこと「飛鳥」に入れなかった事実から考えて、武烈から欽明の間は「二王朝並立説」も有りか、と私は思っている。まあ、これは倭国とは無関係の話だが。そのうちこのあたりも研究の対象にしようかとは思っているが、まず「倭の五王」から始めるのが順番というものだろう。朝鮮半島に雄飛した偉大な大王というのは、民族の祖先としても一番興味がある題材だ。そして「日出ずる国の天子」でお馴染みの、阿毎多利思北孤が2番目である。その次が、悪役にされて輝かしい事績を奪われてしまった可哀想な蘇我氏が3番目だ。あれ?、これじゃ継体天皇に行き着くまで相当年月がかかるねぇ。・・・日本古代史はまだまだ奥深い。
2、旧唐書における倭国と日本国
倭国は古の委奴国なり。有名な一句である。これは、今「倭国」と称している国は、その昔は「委奴国」と言っていた「あの国のこと」である、と読める。委奴国とは後漢光武帝から金印を貰った国で、その金印が北九州の志賀島から出土しているから、この倭国は「北九州」にある、と捉えるのが普通の読者の受け取り方だろう。もし「古の委奴国」が何らかの事情で他の勢力に駆逐されて、今再び復活して「倭国」と名乗っているというのであれば、その勢力は3世紀に登場した「邪馬台国」だと思うのだが、この辺の事情については「旧唐書では一切触れて」ない。このあたりが日本にそれほど興味の無い中国史書の限界なのかも知れない。残念である。日本書紀も邪馬台国の存在については何も書いてない。そういえば山形明郷氏の本「卑弥呼の正体―虚構の楼閣に立つ『邪馬台国』」に書いてあるように、邪馬台国は「朝鮮にあった」というのもアリかも知れないな、などと妄想が膨らんでくる。
とにかくここは素直に考えるとして、「色々と王国の変遷はあったが」同じ氏族が復活して倭国と名を変え今に至っている、としておこう。倭国が古の委奴国という以上、支配氏族あるいは支配家系も同じじゃないか、という想像が許されると思う。つまり「その王、姓は阿毎氏なり」とあるから、ずっと阿毎氏が支配していた可能性が高い。阿毎氏の読みは「アメまたはアマ」氏である。ちょっと天武天皇の又の名「大海人皇子」を連想させるが、まだその話は早いだろうか。まあ一応、記憶にはとどめておこう。隋書では同じ阿毎氏の国を「タイ国(にんべんに妥当のダ)」と書いていて、倭国を「タイ奴国」の後裔としている点が気になる。まあ、倭国は九州という点では一致しているから、ここは余り深入りしないで九州の有力氏族としておく。ただ金印は倭でもなくタイでもなく「委」奴国と造っているのが注意点だ。どちらにしても委奴国から邪馬台国になり、そして倭国になった流れは頭に入れておきたい。
その後の記述にある倭国の版図は「東西は5月行、南北は3月行」とある。四面に小島とあるから本体内部はひとかたまりの陸続きで、瀬戸内海のように入り組んだ海が走っているような地形ではない、と読める。つまり、九州と四国と中国地方・近畿地方を合わせたような、「本州西半分を表している」ようには書いていない。だから、この部分は九州地方の表現であるから、名称と版図両方の表現は一致しているとも言える。しかし地形が「東西に長い」という点で現実の地形と合致しないのが難点だ。東西の方が南北より「倍近くに遠い」というのは、如何にも怪しい。大分から長崎までと博多から鹿児島までは、大体同じくらいであろう。四面に小島と書いているから海に囲まれているわけで、どうも九州の実態とは違っているようにも思える。この点は、旧唐書の記述にやや信頼性がないと思わざるを得ない。まあ、編者が実際に日本に来て、見たことを書いているわけではないので、しょうがないかも。要するに、いわゆる伝聞である。だから方角は「現地の人の精度」によるだろうし、距離は「測る人の表現による」とも言える。余り重きを置く情報ではないだろう。しかし邪馬台国が近畿地方にある王権だとする立場の人にしてみれば、この「5月行」という記述は大いに問題視する文面である。大体、私は古文書に書いてある方角や距離の記述から古代の遺跡、例えば「卑弥呼の墓」を探すようなことはしないようにしている。それより確実なもの、つまり「大きな活火山がある」とか、「東に行くと海岸に出る」とかの情報の方が信頼性が高いと思っている。何れにしても邪馬台国は今回のテーマではないので、別の機会に譲ることにする。
倭国の記述に比べて、日本の版図は「東と北に大山」があり、その外側は毛人の国が広がっている、と書いてあるので分かりやすい。これは「日本アルプス」と見るより他の答えはなさそうだ。
それで旧唐書の「日本国」の説明に入るわけだが、「その国、日辺に在る」から日本と言う、または「自らの名の雅ならざるを悪み」て日本と改めると言う、または「日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたり」と言う、と3つ答えを並べている。どれが本当なのか。少し想像力を働かせると、「日辺にあった小国が倭国を併せ」たが「倭という字が雅でない」ので「日本」とした、というのが一番尤もらしい説明になるかと思う。しかし倭国を攻めて併合したのであるから、当然「名前はあった」訳である。それが日本と言っていたかは別として、〇〇国が倭国を合わせた時、それは併合ではなく「乗っ取り」に近い行動でなければ「自らの名を雅ならざる」とするのは変ではないか。つまり日本は隙をついて倭国を乗っ取ったが、そのまま倭国を名乗るのは「名前が気に入らなく」て日本にした。そういう事になる、本当かな?。
旧唐書の記述によれば「倭国とは別に」日本の使節は唐の役人と会っていた。これは「倭国を併せた」後の話なのかどうかは大事なところである。日本の使節は唐の質問に誠意を示さなかったと書いてある。これは「日本国」が海外に出て行くのに慣れてなく、使節も外交の経験が浅かったからと思う。そういう意味では、倭国は洗練されていた。もしかしたら日本の方は、何か「誤魔化さなくてはならない何か」があったのかも知れない。これはおいおい明らかにしていこうと思っている。
以上、シリーズ第2回目でした。
ここまで書いて全然関係ないことがふと頭に浮かんだのだが、「舒明天皇の後に皇極天皇即位」というのが以前から「どうも解せないな」と思っていたのである。勿論、夫婦間で皇位を継ぐという事例が過去にないわけじゃないが、最初の女性天皇である推古天皇は「そもそも欽明天皇の皇女」という資格で天皇になったのだ、と思われてならない。というか、実際それまでにも数多くの天皇が交代したが、全て「男子」である。この時に限って推古が天皇位を継ぐ理由がないのである。それに古事記が「推古天皇で終わっている」のが大いに怪しいのだ。古事記が上梓されたのは712年だから、充分「文武天皇の事績」ぐらいは書いていても何ら不思議ではない。それが推古で終わっているというのは、実は「推古天皇で途絶えた」のではないか、と私は思っている。仮に推古が天皇位には居たとしても、「支配・統治していたのは蘇我馬子」という実態は変わらないだろうと考えている。欽明ー敏達ー用明ー崇峻と続いた「兄弟相承」の原理は、蘇我馬子の崇峻弑殺で終わりを告げたと思いたい。だから「近畿大和王権の歴史書である古事記」は、推古で終わっているのだ。つまり王権の消滅である。この時問題になるのは「蘇我氏」の動向だ。蘇我馬子が実権を握り、名目上だけ推古が天皇位に就かせていたと言うのが現在の私の考えである。
しかし先を急いではいけない。一応は古事記の記述を追ってみると、推古天皇が亡くなる時に皇位継承資格のあった有力な者としては、用明の孫(聖徳太子の子)の山背大兄皇子と、敏達の孫(押坂彦人大兄皇子の子)の田村皇子の二人がいた。この時、蘇我蝦夷と境部摩理勢との抗争があって、その争いの結果「田村皇子=舒明天皇」が皇位を継いだとされている。629年の出来事だ。だが舒明天皇が早期に予定外の病死で亡くなると、権勢を恣にしていた蘇我入鹿は「古人大兄皇子への中継ぎ」として皇極天皇を即位させるのである。放っておけば「系統の違う」山背大兄王に天皇位が移ってしまうのを防いだのだ。そして、ついに入鹿は山背大兄王を追い詰め、とうとう一族滅亡させた(643年とされる)。これが一般的には蘇我氏滅亡の序曲だという。
だがここで、皇極天皇は舒明天皇の「兄弟姉妹」だという説が見つかった(ネットの情報。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/618/618PDF/kanzaki.pdf)。つまり皇極天皇が舒明天皇の姉妹なら「推古天皇の例に倣って、敏達の孫と言う資格」で皇位に就いたとも考えられる、と言うのだ。これなら皇極天皇の即位も、その弟の「孝徳天皇の即位」も何ら不思議ではなく受け入れられる。敏達ー(押坂大兄王子)ー舒明ー皇極ー孝徳ー(斉明)と言う流れは、まさに兄弟相承の原則に則った「ごく普通の」皇位継承の話になる。斉明がもう一度天皇位に就いた理由は、「建王」と言う孫に皇位を継がせたいからだったとする説もある。建王は天智天皇と蘇我倉山田石川麻呂の娘「遠智姫」の子であり、皇極天皇から見れば「孫」である。だが中大兄皇子という息子の「皇太子」がいるのに、それを飛び越して「孫に継がせる」というのはいかにも奇異だ。しかし建王の生まれたのは650年頃であるから、それなら重祚などせずに中大兄皇子に皇位を譲れば済む話なので、どうも取ってつけた説明としか思えない。
まあ色々と諸説入り乱れているが、まだまだ皇極天皇と天智天皇の「くだり」は闇が深いと思う。これは長い戦いになりそうだ。例えば皇極の一般的な説明である「押坂彦人大兄皇子の子(舒明天皇とは兄弟)の茅渟王の娘」となっているが、茅渟王自身が大した情報がなくて、古事記成立の時代からそう遠くない頃の話なのに余りよく分かっていないのは説得力がない。とにかく舒明天皇の系統は古人大兄皇子が吉野で殺されて断絶、孝徳天皇の子の有馬皇子は謀反の罪で誅せられて断絶、結果として舒明と皇極との間の子である「天智天皇」の系統が残るだけになった(天武天皇も)。これで蘇我氏の系統は山背大兄皇子・古人大兄皇子とともに消えたかに見えるが、建王に皇位を継がせようとするあたりは「まだまだ蘇我系は強力」と見なくてはならない。
欽明から「蘇我氏系」の敏達に移った皇位は、一時他の系の推古に移ったが再び押坂彦人大兄皇子の子で舒明に戻る。しかし茅渟王の娘皇極で吉備姫系統に移り、蘇我入鹿や古人大兄皇子ら滅亡させて安定するかに見えたところ、中大兄皇子の策略で孝徳天皇や石川麻呂などが全滅。結局残ったのが天智天皇である。果たして天智天皇は「皇極の息子」なんだろうか・・・。孝徳天皇の息子「有間皇子」を讒言したのが「蘇我赤兄」ということから、蘇我氏との結びつきも捨てがたいのである。
後日談としては、天智天皇・大友皇子を壬申の乱で破った天武天皇系が、天武ー(草壁)ー持統ー文武ー元明ー元正ー聖武ー孝謙ー(淳仁)ー称徳と続いて結局断絶し、再び天智天皇系の「光仁天皇」が皇位に就いて、桓武ー平城ー嵯峨と長い皇統を築くのである。光仁天皇の父親は志貴皇子、母は紀橡姫という。そして皇位を継いだ桓武天皇は「母が高野新笠」という渡来系だ。ここでは蘇我氏の影は見えない。桓武天皇が中国風の祭祀「郊天祭」を行なったり、天智天皇を「高祖大兄」と敬うあたりは「どうも日本人ではなさそう」だ(これは昔からある説である)。皇極の最初の配偶者が「高向王」という渡来系の人であったり、中大兄皇子の「次から次へと見境なく邪魔者を粛清していく」残虐なやり方といい、どうも日本人らしからぬ振る舞いが気になる。そうかと思えば大海人皇子に4人も娘を輿入れしてたりと、渡来系の匂いがプンプンしてくるではないか。何より乙巳の変で家に逃げ帰った古人大兄皇子が「韓人が蔵作りを殺しつ」と叫んだ話が心を惑わせる。
というわけで、推古以降の飛鳥・奈良時代は、ますます激動と闇の渦巻く「カオス」の様相を呈しているのだ!。
以上、余り話を広げ過ぎてもしょうがないので、ここは斎藤忠先生の「701年の易姓革命」を続けて行くとしよう。次回をお楽しみに!
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