明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

私の提言(4)夫婦別姓の議論の本質

2021-06-29 18:52:25 | ニュース

自民党は、先の「夫婦別姓は憲法違反ではない」という最高裁の判断を受けて、今国会での審議は先送りする事にしたという。LGBTなど性的少数者の理解増進法案についても今国会への提出を見送っており、こちらはハッキリ反対しているようだ。夫婦別姓論議は賛成と反対の双方が色々と問題点について言っているが、そもそも議論している連中が「頭の固い年寄り」ばかりだから、何を考えているのか「チンプンカンプン」で理解不能という意見が殆どを占めていて、どうにも解決しそうにない。

そこで最初から考え方を変えることにし、これを「経済」という視点から見てみることにする。

人類にとって長いこと、食べる事は「生きる」ための最大関心事だった。食べるという事はすなわち食べ物を買わなければならず、大きい括りで言えば「経済活動」でもある。人は先ず生きることが大事で、経済活動が生活の殆どをしめている。勿論、「経済」より「愛」を優先させる「変わった人」は過去にもいたと思うが、「基本は経済第一」である。これは当事者よりも家長、氏族長、部族長、国家支配者と、まとめる人数が多ければ多くなるほど、より顕著になっていった。大勢の人間を食べさせていく責任を負っている者は、それなりに全体の「経済」を活性化させる必要があったのである。これは義務でもあった。つまり、愛はあったかも知れないが、それよりも力を合わせて生きて行く「共同体」の構成員の一人という意識が、優先されたのである。これは時代意識だ。

そもそも原始・古代における結婚とは、部族や家族間で所有していた共有財産を、「如何に増やしていくか、あるいは保持していくか」という、単純かつ重要な問題である。それは言うなれば、共同体の維持に関わる「根本的死活問題」を意味していた。これは中世や近代においても、大筋は変わらない。インドで「民族の恥」などと言われて、世界的にも悪しき伝統として糾弾されている「有名な尊厳殺人」なども、元をただせば自分達の所有財産を「他所者に取られないため」の厳格なルール=部族の共同防衛策なのだ。例えそれが当事者の死で終わることになったとしても、必ず守られなければならなかった。何がいいたいかと言うと、この問題は「善悪」で考えても答えは出ないということ。むしろ「所有権の保持・侵害の問題」と捉えるのが正しいのである。他所者に興味を持った女は「将来彼女が生産するであろう価値」を、その男と共に他所へ持ち出してしまう極悪人なのだ。だから村人は共同財産を守るために「彼女をその男共々抹殺せねばならない」のである。共同財産は村人にとって絶対であった。人々はその共同財産を維持し、拡大させて行くという「共通目的」のために生きている。楽しみは共通目的に反しない限りにおいて、ほんの僅かばかり許されていたが、むしろ殆どの村人たちの喜びは「共同体の祭り」の中にあったのである(これは今でも残っているようだ)。つまり「個人の自由」などという概念は「皆無だった」と言えよう(おお、何と恐ろしい)。だから結婚はその中の一つの段階、言わば「人生の通過儀礼の一つ」と解釈しても間違いではない。この視点で物事を解釈しなおせば、色々な問題の本質が見えて来る。

要するに夫婦別姓問題は、「団体の論理から個人を解放する運動、または意識改革」の一つだ、と定義できる。そう考えたら、簡単に解決できる問題ではないということが分かるだろう。

この問題はついこないだまで国会などで論議されていたようであるが、これこそまさに「部族・氏または家」が個人より優先された結果考え出された「古い遺制」との戦いである。反対している人々は、誰々という個人名で存在するより以前に「〇〇家の人間」として意識している。例えばA家の男子とB家の女子が結婚するとしよう。それぞれの家の財産は結婚するとどうなるのであろうか。現在の婚姻法に従えば、結婚によって「どちらかの姓」を名乗るわけだから、それに従って「個人の財産もどちらかの姓=家」に移動することになるわけだ。大八車一杯の嫁入り道具などという陋習も、名古屋あたりの田舎ではいまだに盛大に行われているという(これは私のイメージです)。A家の苗字を名乗るということは、今までの自分の苗字を捨てて「新しい苗字の一族に加わる」ということである。これを日本は、法律で「強制的に行っている」のだ。B家にしてみれば「生産力を奪う」強奪とも取れる。だから大抵の場合、強大な氏族のところに弱小な氏族の娘が嫁入りをして、その氏族から「庇護を受ける」という形で結婚が成立した。今でも格下の家に「嫁をやる」のは、なんとなく「損をした」気分になるのは変でもなんでもないのである(この「嫁にやる」という言い方自体が、男女平等に反していると糾弾される時代になったが)。勿論、現在では離婚の時に財産分与という形で「それぞれの取り分を主張できる」ようであるが、それにしたってわざわざ一緒の家計を2つに分けるのだから面倒なことこの上ない。現代のグローバルな感覚から言えば夫婦愛は「二人の個性が共同で経済活動を行う形態」であるから、一方の財産がどちらかの家に収奪される「家と家の縁組」という考え自体が「まるで受け入れられないもの」と思うであろう。個人は家とは全く関係がない「一個の独立した存在」である、というのが現代の理念である。個人の主体性を突き詰めていけば、家族間の一体感という感覚も無くなって、この世にあるもの生きるもの全てが「自分と一対一の関係」に見えてくる。究極の個人主義である。その個人の集団の中から恋を見つけ愛を育み、自分ともう一人の人間とで「新しく自分達の家族を作る」こと、それが現代で言うところの結婚である。もう親子兄弟姉妹関係は経済的な共同体ではなく、経済と切り離した「別々の独立した個人」と言う関係が正しい。結婚とは、独立した個性同士の精神的な結びつきである(ちょっとカッコつけすぎたか・・・)。

これは、生きることがそれほど難しくなくなった現代で、初めて可能になった考えである。子供の時から社会保障が充実していて、老後も何不自由なく、子供に頼らずとも生活をエンジョイ出来る仕組みが出来たからこその「新しい考え」だろう。こういう経済保証があって初めて「夫婦別姓」も論議が出来る。これを経済的な意味で捉えなおせば、個人の財産は家の所有ではなく「個人一人のもの」と言うこと。これは誰にも犯すことの出来ない「個人財産権」である。当然、家族の財産も一緒にするのではなく、「夫婦別姓」で初めからお互いの個人財産を別管理しておく、という形になる。これは憲法の理念から言って、当然のことである。第一、そうしておけば万一離婚という事になったとしても、「何の面倒もなく」それぞれが独立して生活して行く「原資」を確保することが出来る。これが憲法に言うところの「個人の自由の保証」である。要は、結婚によって変わる部分というのは精神的な部分であり、個人の生活基盤である「経済は、今まで通り変わらない」というのが新しい結婚観ということだ。これは、次第に市民の中に定着しつつある感覚である。勿論、経済活動は二人の間に「愛がある無し」とは全然関係がない事は、言うまでもない。

これを愛情と混同するから論点が見えなくなる。私の言うことがどうもピンとこないと言う人は、ど田舎へ行って「婿入りした男の話」を聞いてみるといいだろう。そうすれば私の言う「姓は財産の帰属を意味する」と言うことが、よーく分かるはずである。大体夫婦が離婚すると、男は「別れた妻に財産を取られた」感覚に襲われると言う。冗談じゃない、元々「男が自分のものと思っている」財産の半分は、妻が稼いだものなのだ。それを分かっていないから離婚されるんじゃないの?!。まあ細かいことは後で二人でゆっくり話し合って貰うとして、夫婦別姓にした時の財産の区別だが、結婚する時に「それぞれの財産を登録」しておき、それからの収入は綺麗に2分の1に分けて「それぞれの口座に入金」すれば良い。要は「二人のもの」というロマンチックな妄想は捨てて、全てキッチリとどちらかの物に峻別すること。余り面倒だと感じたら、共有財産として一旦混ぜておき、万一離婚した時は「半分に割る」でもいいだろう。どちらにしても醜い財産争いなどは「発生しようがない」状態にしておくのである。なお、子供は男児だったら男親の姓を名乗り、女児だったら女親の姓を名乗れば良い。そして成長して分別がつく年頃になったら「改めて、自分でどちらかを選べば良い」のだ。子供が小さくてどちらの親権が優先するかなんていう論議は、特別な場合を除き「母親に優先権がある」と考えるのが妥当だろう。だって産んだのは母親だから(これは文句の言いようがないな)。当然、離婚した父親は「養育費」を払わなくてはならない(家族だからこれも納得だ)。いずれ、社会保障制度が子供の養育にまで及ぶようになれば、「養育費税」などという名前の税金が出てくることも考えられる。そうすれば親同士の喧嘩により子供が貧困になるなんてことも、なくなるであろう。まあ、生物学的な意味で家庭の愛情が不可欠だという研究結果もあるようだが、これはこれで、夫婦間の愛情とは切り離して考えるべき問題だと思う。

なお、このような改革で「日本の家族が崩壊する」と危惧する心配性の人たちには、「今に慣れるから安心して」と言っておこう。というか、「全世界」で家族が壊れたと言う話は全く聞かないから心配ないだろう。それでも反対する人は「統計学的な検証」、いわゆるエビデンスを示さないといけないなぁ。出来るかなぁ?

さてこの改革が広く社会に受け入れられてくると、例えばクリスマス・パーティで取引先の「佐藤」部長に女性を紹介されたとしよう。「妻です」と紹介されたら、「どうも初めまして〇〇です」と答えたとする。そうすると相手の女性は「山田です」と挨拶するだろう。つまり佐藤部長の奥さんは「山田」なのだ。びっくりする事はない、当然のことである。むしろ同じ姓の方が「驚き」なのだ。すると、同じ会社の取締役も「山田」だと気がついて、「じゃあ、山田取締役の・・・」と言うのを途中で遮って、「そうなんです、私は山田取締役の次女です」なんて、話が広がることだってあるかもしれない(おおーっ!)。同じ姓を名乗られては、こういう「横の広がり」は出てこないだろう。佐藤部長の奥さんが佐藤というんでは、なんの面白みも興味も湧かない。結局紹介されたはいいが話はそれっきりになり、「お綺麗でいらっしゃいますね」などとおべんちゃらを言って終わりである。これも、女性の社会進出がなかなか進まない理由の一つであろう。私は古代史を趣味として研究しているが、男女が別姓なんて事は「平安時代」には当たり前のことだったのである。むしろ家制度が出来たのは「明治以降」と、どこかのテレビ番組が言っていた(番組名は忘れてしまったが、本当のようである)。どうやら明治維新で新しく日本の支配者になった天皇を、国民に認知せしめるときに考案された新制度が「家族制度」なんだそうである。家単位で一人の家父長を定め、家族全員が「家父長の命令に絶対服従する」というルールを全国に強制した、というのが真相のようだ。その家父長制がすなわち「国民は天皇の赤子」という擬制的家族観なのだそうだ。つまり、家族制度に支えられた今までの夫婦同姓論は「国民を支配するための新方式」に過ぎなかったのである!(ガガ、ガチョーン!)

というわけで、昔は一部の支配層においては氏族が個人より優先されるルールに従って、夫婦別姓が当たり前であったようであるが、一般民衆は「姓」など持っていなかったろうから、別姓もへったくれもないわけである。結婚とは「吾作どん」と「うめさん」が一緒になって「新しく家をもった」というだけ。なんとも微笑ましいではないか。そうだ、日本人も昔に帰って「全員、苗字を無くせば良い」のである!。そうすれば「夫婦別姓の議論」などすぐさま消滅してしまうのだ。苗字というのは「古い世代」の名残りと切り捨てて、今日から苗字無しで生活してみよう!。そういえば若者たちの間では、すでに苗字というような「自分に関係の無い、無意味な記号」は使っていないようだ。もう時代は「姓」すら必要としていないのである。

要は、相手が識別できれば事足りる。そこにグルーピングするための何かを加える必要は「何もない」、それが答えである。

 

余談:夫婦別姓に反対している人達の多くは「家族が壊れる」とか「日本の伝統に反する」とか言っているようだが要するに、無知な明治の民衆の大多数がそうであったように、強力な家父長制度の元に「家族が団欒していた」昔ながらの大家族制度がいい、と思っている古い人達なのである。こういう「郷愁のような楽しかった思い出に対する愛着」を、現代的な考え方に改めさせるのは「無理」である。理屈では無いのだ。彼らは、戦争で死んでいくときに「天皇陛下万歳」と叫んでいた兵士と、何ら心情的には変わらない。国民は国家のため天皇陛下のために「全身全霊を持って尽くさねばならない」と言うのが、意識しているかいないかに関わらず「彼らの根底にある生き方」なのである。私は、過去にはそう言う時代もあった、と思っている。その時代に生きた人にとっては、全国民がそう言う風に信じ込んでいたのである。要するに、「歴史の一部」なのだ。国会で反対している人達は、その「歴史を引きずっている」ことに気がついていない人達である。ただ、今や現実は「夫婦別姓が当然」として受け入れられている時代に入ってきている。「夫婦同姓」を法律で強制している国は、世界で「日本ただ一国」だそうだ。例えば学校で「全校生徒がAだ」と言っているのに、自分一人だけ「Bと信じて疑わない」と言うのは、新興宗教かぶれか精神疾患を疑うレベルである。もう、こういうイカれた議論はやめにしようよ。世界が笑っている。

なお、最高裁で合憲との判断が示された件については、最高裁判事達の三権分立に対する「己自身の気構え」が全然足りないと怒りを感じた。夫婦別姓は明らかに「憲法違反」であるのに、それは政治で解決して欲しいと言うなど臆病千万、何事か!。国民の正義の拠り所、日本の良心も地に落ちたもんだ。世も末である。

以上、夫婦別姓は時間の問題。反対している連中が全部死んで了えば、黙っていても夫婦別姓になる。しかし、そこまで待ってられないと言うのが本音であろう。そこで経済的な不利益を解消するために

a. 戸籍にある苗字名前は「本人」の持ち物で、結婚してもこれは変わらないものする。当然、銀行や登記やその他の経済活動全てに使用していた名前も、そのまま継続する。

b. 結婚したら適宜「通称で呼ぶ」ことにする。例えば山田さんが結婚して「佐藤さん」と呼んでもらうのである。そして実際の名前は、元の山田のままで生活するのだ。まあ、相手の苗字で呼んでもらうと家族の一員になったような気がして嬉しい、などと発言する古風な女性もいるようであるから、無理に強制はしないが「少数派」であろう。実際、私の会社で結婚して名前が変わった女性がいたが、会社内ではあくまで旧姓の名前で通していた。名前が変わったことを取引先にいちいち説明するのが面倒で、旧姓のままの方がやり易かったのだと聞いている。それなら戸籍上も「旧姓のまま」でいいじゃないか、と言うのが私の考えだ。要は、家族かどうかと言うのも「二人の意識」一つである。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿