明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

ついに私にも、宗教心とやらが芽生えました!

2025-01-24 17:04:00 | 私の意見

私は生来宗教というものには全く興味がなく、自慢じゃないですが70を過ぎるまで、神にも仏にも無縁の生活を送ってきました。しかし自分が「死後にどうなるか?」ということについては、正直言って眠れなくなるほどの不安にかられることも度々あったわけです。

しかし多くの宗教家が語っているような、死後に浄土や天国などに行くという教えは現代の科学では有り得ない話なので私にはとても信じることは出来ないと思っていました。世の中の多くの人も多分信じてはいないでしょうが、他になにか明確な答えが見つかってないので仕方なく「無理に考えようとはせず」に思考停止して過去の人々が皆そうしたように「科学的思考を封印」し、皆がそうするように信じてもいない宗教で誤魔化して、最後は「諦めの境地」で静かに死を受け入れているのだろうと思っています(だって、どうしようもないじゃないですか、こればっかりは)。

ところが最近「自意識」ということを考えているうちに、突然「はた!」と気が付いたのです(詳しくは私のブログ、「健康長寿なんて(10)生命と死を科学する(上)及び、(11)(下)」と「人生の3大発見その1:魂の行方・前編、と後編」を参照して下さい)。

それは、私が死んで肉体が完全消滅するとしばらくして誰か生まれてきた子供が「また私になる」という、完全かつ科学的な人間の生死サイクルの証明です。つまり、人は変わり見かけも中身も私とは似ても似つかない別人なんですが、実はその人は私という自意識を持っていて「新しい私」なのです(素晴らしい!)。これは人間には千差万別あらゆる人格が網羅されているが、「私であるという自覚=自意識」はたった一種類しか無い」ということです。それはどういうことか?

自意識とは、自分という個体の現在を感覚器官を通してコントロールしているCPUつまり総合的管理機能である。そして人間の場合はその機能にプラスして「記憶学習能力が飛躍的に発達したおかげ」でそれぞれの自意識に個人の歴史が付与され、つまるところが「個性」となって一人ひとりの性格、つまりは「魂」というものが出来上がるわけです。

仏教には古くから「輪廻転生」という考え方がありますが、私は自分という個性=魂がそのまま継続して新しい生を獲得する、というのは「無い」と思っていましたが、私が私であるという意識=自意識を持っている存在としてなら、充分再生することは可能だと考えています。例えばコンピュータの寿命が来て廃棄し、次に新しいコンピュータを購入してまた私のコンピュータとして継続して使う、といったように。言うならば物は違っていますが、機能は同じコンピュータです。その意味で、この「私」という存在は「不死」だ、とも言えるわけですね。

ここまで考えた時に私はある事実、真理と言っても良い事に気が付きました。私という個体は死んで消滅するが、人類という「種」として捉えれば「永遠に存在し続ける」ということです。つまり、私は一個のしがない人間ですが、同時に人類という大きな動物の種を支えている存在でもあるわけです。人類皆兄弟って、こういうことなんですねぇ、生き物万歳!

ここまでは人の生死の考察です。

ところが来世で「どんな私」に生まれてくるのかと考えた時、出来ることならば五体満足で、希望を言わせてもらうなら健康優良児に生まれたい、と考えるわけです、少なくとも日々のお金に困って食事もままならないような家庭ではなく、出来たら平均的な生活程度以上の家庭にはオギャーと生まれたい、と願うのは誰しもの考えではないでしょうか。勿論、ガザとかウクライナとかミャンマーとかの「紛争真っ只中に地域」だとか、メキシコのような麻薬カルテルに牛耳られて統治不能になってるヤバイ国というのも、出来たら生まれるのは願い下げにしたいです。だって生まれたとたんに生きるか死ぬかのサバイバル環境という人生は真っ平御免です、当然、アフリカの砂漠で家族の為に毎日泥水を汲んで何キロも歩くってのも、余り嬉しくは無いですねぇ。まあ、毎日ご飯が食べられて人より少々才能があり、努力をすれば何とか報われるつましい人生、なんてのが私の理想です(高望みはしない、というのが私のモットーです)。

だけど、こればっかりは自分にはどうしようもない話で、思うに来世にどんな私に生まれるかというのは「これこそ、一世一代の賭け」だと思うわけです。一回限りの宝くじ・・・ですね。

そこで「宗教の出番」なんです。

つまりキリスト教やイスラム教はいざ知らず、日本人なら阿弥陀様の慈悲にお縋りして、不確実な未来を何とか少しでも良い方に変えて頂けませんでしょうか?、という不埒な願いです。まあ、まかり間違ってもケージに入れられて卵を産むだけの精神障害の機械のような一生を送らざるを得ない悲しい鶏だとか、或いは伊勢牛のA5ランクで飼育業者の親父から丈夫な牛に育つんだよ!などとお門違いの愛情をかけられ解体されて上質の肉になることだけを人生(牛生?)の目標にさせられている絶望的な牛とか、そういう動物に生まれるのだけは「絶対、絶対に避けたい」と誰しも思うんじゃないですか?、当然ですよね。

だから神様仏様って念じるわけです。その点で、色々な宗派の中では私は「浄土宗」が最適じゃないだろうかと思っています。何しろ、御仏の名号さえ一心に唱えれば「誰でも」極楽往生し得るという有難い教えなんです。じゃあ全員が祈ったら誰でも裕福な家庭に生まれて、大谷翔平みたいな人生を送れるのか?と言ったら「そんなわけ、あるわけないじゃありませんか!」。まあ、もともとが出鱈目な空想でお願いしてるわけですので細かい事は言いっこなしということにし、ここは善行も功徳も努力も何もかも関係なく「ただひたすらお願いする」というのが宗教の本来の姿だと思います。皆さんも宝くじを買う時にはどうか当たりますように!、ってお願いするでしょう?。その時良い事をした人は当選確率が高くなる、なんて不公平はあってはならないですよね、当然です。全ての人が平等にチャンスがあるというのが夢ある宝くじの本質なんです。ただ、どこの売り場は当たりくじが良く出る、と言うのはある様ですけど・・・。とにかく死ぬ間際には仏に祈って当たりくじを引きましょう!。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

以上、人生の黄昏の瀬戸際でようやく見つけた「私の宗教心」でした。これから神社仏閣に詣でる時は、ひたすらお願いするとしましょうか・・・



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