明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

健康長寿なんて(10)生命と死を科学する・・・(上)

2024-02-28 17:14:30 | 生命・健康・医療

去年は私の周りで多くの人が亡くなり、驚くとともに死と言うものに嫌でも向き合わざるを得ない状況に置かれて、人生で何度か目の「心が傷む」という感情を知った年でもあった。中でもつい先日、6歳年下の弟が私より先に亡くなったと知らされた時にはスマホを持ったまま固まってしまい、しばらく声が出なかったことを覚えている。その後も何日かは胃が痛くて正直だいぶ落ち込んだ。家族の死は同居しているかどうかに関わらず、心に深くこたえるものである。こないだも会社の先輩が癌で亡くなっていたと聞いた時には、もうそういう年なのかと人生の悲哀が身に沁みたものである。

しかし人間にとって死は絶対に避けられない。善人にも悪人にも、万人に等しく訪れる「肉体の消滅」である。将来必ずやってくるであろう死と言うものに対して、どのように向き合うのが正しいのか。

実は私は、随分以前にこの死という生命現象の一つを「科学的に解明」し終ってからは死の恐怖から理論的に脱却し、死に対しても生命の誕生と同じく「生成消滅の輪廻の一環」と考えられるようになり、気持ちも平静なままに接することが出来るようになった、と思っていた・・・弟の死を聞くまでは、である。しかし如何に理論的に解明されていると言っても「人間の感情」を科学のみでコントロールする事は出来ないのではなかろうか。

それで科学的な解明とは別に、人間にとって「傷んだ心が癒やされる」ような分かりやすい「説明・死の解釈」が必要ではないかと思うようになった。これは私の体験からそう感じたのである。

では、死というものをどのように考えれば、少なくとも「死に行く者の心が穏やかで、救われた状態にある」と思うことが出来て、彼の存在が消え去ったのではなくて「どこか近くで我々を見守ってくれている」・・・と信じる事が出来るだろうか?

キリスト教やイスラム教のような「天国で幸せに暮らす」という考え方は余りに荒唐無稽で、現代の科学的知見にも沿わないし、バカバカしくってとても私には信じることは出来ないと感じるのだ。第一その天国とやらは何十億何百億の霊が密集してる筈だし、おまけにテレビもスマホも音楽やサッカーも無い「何も動きの無い世界」なのだから、いったいどうやって毎日を過ごすと言うのだろうか?。私だったら3日で飽きると思うけどね。まあ、中にはピラミッドを設計した人の霊もいる筈だから「あれは何用に作ったんですか?」とか聞くことが出来て、「歴史の秘密が全部解ける」っていう楽しみがあるから有意義だと思う人もいるかも知れない。それでも千年は持たないよなぁ。それに天国に行ったらもう死なないわけだから、この先何千年何万年と退屈な日々を過ごし続けなきゃならないわけだ、ああ気が狂いそう!

いや待て、天国でも現世と同じように肉体を持っていて、「普通に食事したり会話したりして」楽しく生活してる、って手もあるのかな?。例えば現世で身体が不自由だったりバラバラ殺人で頭がなくなったり精神病だったりと、嫌な事は全部「すっかりピンピンに治って」五体満足・元気ハツラツに再生して、サッカーやったりゴルフやったりして生活をエンジョイしてるのかも。勿論、禿げてた人はふさふさになり、胸が貧しかった人も巨乳になって自分に自信が持てたりしてるってこともありそうだ。それで90歳で死んだおじいちゃんも25歳の若さに戻ってルンルンで恋をしたりして、あの世の春を満喫してるとか・・・ホントかなぁ。まあ空想だけど、そんなんだったら早いとこ天国に行きたい!てなもんです。

一方、仏教の輪廻転生はどうかというと、死んだ者の魂があの世で色々審査されるという話は嘘っぽいが、とにかくまた新しい生命を得て「この世に再び現れ出る」という点では、何となく真実に近いことを語っているようには私には思えるのだ・・・これが東洋の叡智ってやつかも。

結局私は西洋の絵空事は却下して、より現実的な解決の方を採用した訳である。

実は生命の終わりと再生については、私なりに「科学的な答えを得ているのだがそれは余りにも即物的で、嘆き悲しんでいる人々の心を慰めてくれる理論にはなっていない事に気が付いた。そこで「死と再生のメカニズム」の本質的な部分は残しつつ、「死のプロセス」を新しく解釈し直して、次のように説明してみた。

死者を送る側の心理としては
① 人間は命が尽きたら「魂は肉体を離脱」して
② どこか現世の人間の知らない遠い所に行って「順番」を待つ
③ 順番が来たら女性の胎内で受精した新生児に「乗り移って」
④ 新しく別の人間になってこの世に生まれ出てくる。
以上である。

本人は前世の記憶は全く無いが、使者を送る側の人間にしてみれば「きっと生まれ変わって新たな人生を始めているんだな」と信じる事が出来る。あるいは新生児を抱きながら「この子が彼の生まれ変わりに違いない」という感情を持つ事も、全然不思議ではない。このように死者が再生すると考えれば、愛する人の魂は不滅であり、顔や形は変わったとしても「生命の輪廻転生」は続いていく、と信じて人生を全うすることも大いに可能である。

勿論これは「あくまで」心を鎮めるための架空の話だ。真実ではない。

本当は
① 人間は命が尽きたら、そのまま「完全消滅」して
② 存在は全くの無になり、肉体は土に帰る
③ 新しく生まれてきた新生児の「自意識」は、また同じように活動を始めて
④ 意識の中身は違うが、同じ「私」としてまた人生を歩んで行く
これが科学的な真実である。要するに電池が切れた状態である(電源は腸にある)。

ただ、こう物理的に説明されても人間の心は感情というものがあって、頭では理解しても苦しくて悲しくてどうしようもない事が多々あると思うのだ。そんな時に上記の「架空の説話」を聞いて心を落ち着かせ、手の届かない所に逝ってしまった人間が、また新たな生命を得て「生まれ変わって」生き続けるだろうと夢想することで、少しでも哀傷し嘆き悲しむ気持が和らぐのであれば、これはこれで信じても良いのではないか。

私は宗教などというものにはとんと関心がなかったが、ある意味では人類にとっての「必要な嘘」かも知れないと考えるに至った。思えば父・母・姉と、あの世に旅立つのを見送って、今度は私の番だと思っていたら突然弟が先に逝ってしまった。一緒に葬儀に参列した中で二番目の弟が「人間、生きてるうちが花よ」とポツリといった言葉がしんみり心に刺さる。弟よ、次に生まれてくる時は「もっと楽しい人生であってくれ」と願いながら式場を後にした。・・・弟の冥福を祈る。

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参考までに私の過去ブログ「人生の三大発見、その1:魂の行方・前編/後編」を再度アップして置きました。興味のある方は是非お読みになって下さい。



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