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明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

ショートショート(36)夜寝る前に歯を磨くのがどうにも億劫だった件

2023-11-02 14:39:00 | 今日の話題

1、答は「考えない」こと、である。

日常生活では面倒くさいことが山ほどあって、例えば毎日の食事や身の回りの掃除と洗濯にゴミ出しなどである。独り暮らしの私はそれを「全部自分で」やらなければならないのだ。それらは生活していく上では必要不可欠なことであるが、じゃあ楽しいかと言うと「面白くも何ともない雑用」でしか無くて、やらなくて済めばそれが一番いい類いの作業である。

しかし私は年金生活者で家政婦とか雇う身分じゃないし、誰も他にやる人がいないから自分でやるしか無い、当然である(何だかなぁ・・・)。

ではどうしたらいいか?

雑事は色々あって例えば燃えるゴミは月曜と金曜みたいに、それぞれ処理する日や時間が決まっているのが通例だ。そして私が一番億劫に感じるのが「歯磨き」である。掃除でも洗濯でもそれぞれ面倒ではあるがやれば「綺麗になってスッキリ気持ちが良い」から、まあ「ご褒美」と考えれば「やっただけのこと」は得られるので何とか出来ているのだ。ところが歯磨きはそうは行かない。

酒を飲み、ツマミを食べ、食事もしてテレビで2時間ドラマなど楽しんだ後、そろそろ眠くなったから布団に入ろうかな?と椅子から立ち上がった瞬間に、「ああそうだ、歯を磨かなきゃ」と思い出すのである。この鬱陶しい苦役、何とかならないだろうか?

私は脳梗塞を患って以来、ずっと病院や施設で暮らした後にアパートに住むことを選択した。元々自分の持家に執着するタイプでは無かったが、これで完全に「家にお金をかける」という発想から脱却することが出来たと思う。勿論、書斎とかあれば良いなとは思うけど、無くても何とも思わなくなった。これは昔からの性格かも知れない。来客するものも皆無だから、家の中は自分が楽ならそれで満足である。

何もかも「お気楽人生」で文句は何一つないが「唯一不満」でどうにかしたい!と悩んでいる事が、この「歯磨き」である(何とまあ、楽ちんだこと)。

美しい白い歯にはちょっぴり憧れるが、私は昭和生まれでタバコも吸ってたので今更白くしようとしても無理である。それに外見に拘るような歳はとっくに過ぎていて、後は何とか「健康で長生き」出来ればそれで良いと思っているだけなのだ。歯は「健康の鍵」という。だからイヤイヤながら寝る前の歯磨きは毎日しっかり、念入りに行うのが日課なのである。

だが歯磨きは掃除とか洗濯と違って、やっても何の「ご褒美も無い」のだ!(ひたすら億劫なだけである)

結局、ウジウジしながら「めんどくせー」などブツクサ言って30分ほど逡巡した後、ようやく重い腰を上げて渋々歯磨きを始める・・・これが毎日嫌でもやって来る儀式なのである。まあ世の中には「もっと辛いこと」に苦しんでる人がいっぱいいるのだから、文句を言ったらバチが当たるとは思うのだが・・・ああゝ。

ところが昨晩、これを解決する起死回生のアイディアが閃いたのだ。その方法は・・・歯磨きしてるのは自分じゃなくて「他人もしくはロボット」なんだ、と自らに言い聞かせるのである。言うならば私の意識は「幽体離脱」して、外から私が歯磨きしてる姿を「眺めている」状態だ。

夜一定の時間になったら幽体離脱して、他人の私が「歯磨きしている」のをじっと見ているだけ、それで億劫な作業が「滞りなく」終了する。

この、自分の肉体をロボットのように扱う技術=「自己客体化の技」を会得した私は、いまや独り暮らし技術が「生涯最高のレベル」になったと声を出して自慢したい!

まあ、「そんなこと、普通に誰でも出来てるよ」と笑われたらお終いだけど・・・

2、この年になって「ええーっ」と驚愕する事実に遭遇した!

私は生まれてこの方「ン十年」もの間、作家の水上勉は「ミナカミ」だと思っていた。それが間違いで、正しくは「ミズカミ」と読むのだと知ったのはついこないだのテレビ番組である。その番組を見ていなければ一生ミナカミで通していたかと思うと、今更ながら「言葉の表記と発音のデタラメ」に怒りを覚えたのである。

「水上」と書いたらなんと読む?と聞かれて地名のミナカミを思い出す人もいるし、勿論ミズカミもあり、またスイジョウと読む人も多いと思う。もしかしたらこれ以外の読み方があるかも知れない。

これは話し言葉と文字の関係が「1対1」でないのが原因である。「水上」と書いたら必ず「ミズカミ」と発音す決まりであれば問題は発生しない。ミナカミと書きたければ別の漢字、例えば「皆神」とかにすれば良いのだ。ところが現実はそうはなっていないから困るのである。

言葉は時代の流れや新たな発見・発明などによってどんどん複雑になって行くのに、対応する文字の数は(コミュニケーション・ツールだから人々が覚えて皆んなで使っていかなきゃならないので)限度がある。しかも日本語は中国大陸から伝播した「漢字」という表意文字を最初に使った為に、まず「元の中国が方言や時代ごとに、読み方に色々ある」上に、それに加えて日本独自の言葉を「むりやり漢字に乗せた」結果、上記のような「読み方がむちゃくちゃ」という事態を招いたのである。

それでも一般の用語については仕方ないものと受け止めることとして、人の名前が余りに「恣意的に」使われている現状はどうなんだろう、と私はもう「日本語は漢字を放棄すべし」とさえ考えるようになった。言葉の原始的な用法から言えば、発音通りに記述する英語やその他の「殆どの言語」の方が、使い易くて素直に受け入れるのではないだろうか。中国語でも見かけは表意文字の形態をとっているがよくよく見ると「案外と発音と文字の関係はシンプル」である(まあ、同じ発音で「用途・意味」が色々ある、というのは十分あるとは思うが)。

問題は日本語だ。

元々中国の漢字を使って「漢文」で中国とコミュニケーションしていたのに、途中から固有の日本語を「漢字を借用して」書き言葉として使いだしたのが間違いの始まりなのだ。「やまを山」と書けば、目の前に山が無くても、その認識を「他人と共有する」ことが出来る。文明の発生である。日本は独自の言語を生み出す前に中国の漢字文化に晒されたおかげで、日本本来の言語を表現する「文字」を待たなかったのだ・・・あるいは「あったが消滅した」か。

その「ツケ」が今、やってきた訳である。私は女子ゴルフが好きで良く見ているが、最近の選手のキラキラネームには全くついていけないのが悔しくてならない。例えば菅沼奈々や鈴木愛はまだ問題ない。ところが山下美夢有とか岩井千怜とか、武田麗央に桜井心那や宮田成華など、パソコンの漢字変換では狙った通りに変換出来た試しが「一度も無い」のである。つまり、文字おこし「困難名」なのだ。穴井詩に至っては「変換候補」にすら乗っていない読めない名前で「勝手な命名」である。こんなデタラメガ許されていいものだろうか?(いい加減にしろよ!、もう)

そこで私の提案だが、
① 本来の日本語、主に日本に古くからある日本らしいものを表す名詞とか基本的な言葉は「ひらがな」で表記(例えば「あるく」など)
② 外国語または外国発祥でまだそれほど日本に定着していず、外国語として日本の文章内で表記するものは「カタカナ」に統一(この場合は「ウォーク」になる)
③ 日本語に古くから入って来て日常的に使ってはいるが、意味する所が元々外国語に由来する言葉などは「漢字」とする(これは「歩行」である)
④ そして以上を踏まえた上で、「漢字の読みは完全に統一」すること

例えば、確執=カクシツと執念=シュウネンはどうするか?。同じ「執」という字を使っていて、片方は「シツ」と読み、もう片方は「シユウ」と読む。これを統一するのである。どちらも中国語が元だから我々日本人のせいではないのだが、仕方ない。これは「湯桶読み?」の方を変更して、「音読み」に統一する。つまり「確執=カクシユウ」で決まりである。あるいは外来語扱いにして「カクシツ」と書くのもアリかと思う。とにかく漢字を訓読みする「日本独自の折衷案的読み方」は今後は一切禁止して、漢字はすべて「音読み」に統一することで「読み方がバラバラ問題」は解決出来るものと思われる。

これでどうだろう?

これを30年ぐらいかけて我々日本人が、自分達の独自の言葉として、またコミュニケーション・ツールとして「完成」させていくのであれば、今まであった日本語を失うことなく「日本語の最も美しい形」というのが保たれるんじゃないだろうか。処置に困って韓国語のように「ヘンテコリンな絵文字」に変更するのは、民族の尊厳から言っても私は絶対反対である。

以上、私の日本語への想いを書いてみました。皆さんはどう思われるでしょうか?



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