(6)日本人の話 : 日本では「いらっしゃいませ」
日本の小売店ではお客様が入って来るとお辞儀をし「いらっしゃいませ」と迎えるのが当たり前となっている。ところが外国では頭を下げる習慣がそもそもなく敬語的表現も曖昧なので、何というのか分からないが余り決まった表現はないようだ。アメリカあたりは「ハーイ」とかなんとか非常にフレンドリーである。お客だから偉いとか店員だからへり下るとかといった主客の上下関係は、イメージすることすら全くと言ってない。多少とも丁寧な感じが見られるホテルでも、あくまで上品に応対しているのであってへりくだっている意識は毛頭ない(と思う)。これはどうしたことだろう。日本は島国だから特殊なのか。
そう、理由は分からないが特殊であることは確かである、つまりこれが日本流の「おもてなし」の精神である。しかし、こんなに散々へり下る民族も珍しい。最近では、この特殊性を逆手に取ったクレーマーの土下座パフォーマンス強要事件がニュースを賑わしたのは記憶に新しい。日本人の販売業務就業意識は異常な教育も相まって、お客の望む事は最大限の努力を持って対応するべしというマニュアルもとい「文化」が、すでに深く深く心の奥底にまで染み込んでいるのである。
我々日本人はそろそろ民族の宿痾と化した悪癖と訣別すべきである。お客も店員も同格であり、なんら上下関係のない市民同士の関係が自然と出来上がって、店の中にいても外で出会っても同じ意識で「ハーイ」と仲良く出来る日が近々来るのでは無いだろうか。京都の老舗旅館の女将が三指ついてお客を出迎える時、お客様は神様と考えているのではなく「旅館の女将」を演じているとも言える。最高のおもてなしを演出するには其れなりの物の価値を分かった「礼儀に通じた」お客が必須である。お客もそれなりのレベルが要求されるとなると、すでにコンビニでコーヒーを買うのと違い、お茶や能の世界である、つまりプロ同士の火花を散らした戦いと言える。まぁこれは例外としても、日常生活の中で接するスーパーやコンビニの販売業務に従事している人に対しては、自分となんら変わらない権利と義務を有する市民なんだと認めよう。そして、レジでどうでもいいことをネチネチ文句言っているオバハンやオヤジには、はっきりと「平等」の意味を教えてあげようじゃないか(私はとりあえず隣のレジに並びなおすが、皆さんはどうぞ)。
(7)旅の話 : 島根県出雲市
明日は晴れという夜に家をそっと出て、東名を西に向けひたすら車を飛ばした。残念だが高速なので星空を見るのはあきらめざるをえない。夜に屋根を開けて星空を見ながら流すというのがオープンカーの楽しみのひとつだが、なにも今日じゃなければいけないわけじゃ無い。次の機会に譲って京都から丹波を抜け9号線を一路島根へ向かう。初めての日本海、おお何と美しい穏やかな海なんだ!白砂青松、松林から垣間見る景色は思わず歓声を上げてしまう絶景である。原発のある福井県は別として(原発は人類の作った最悪で非効率なゴミだ)、鳥取県から島根県に至る海岸線は人の気配もなく、なだらかにあくまで広大な原風景が延々と続く一本道である。僕は躊躇せず車を止め(僕のオープンカーは屋根が自動じゃ無いのだ、残念)、気持ちの良い風を満喫して、前人未踏の原野を駆け抜ける旅を続けた。
ぐいぐい快調にハイウェイを走っていたら腹が減ってきたので、兎に角道の駅にでも寄って昼飯を食うことにした。これも旅の楽しみの第二である。しかししかし、「道の駅はわい」。ふざけた名前だ。市役所だか建設省だか知らないが、気の利いたジョークのつもりで付けたのだろう。田舎者によく見られる、都会のセンスを真似したつもりの田舎っぺ丸出しネーミングだ。どうせつけるのでも、常磐ハワイアンセンターの方がまだマシ。しかも建物はでかいが閑散としている。こんな名前を付けて「面白いねー」なんて旅行客がワンサカやって来ると思ったら大間違いだ、ヒマなのも当然である。こんな所に長居は無用というわけで、サッサと食べて車に戻った。
ちょいとケチが付いたが、琴浦・米子・松江と素晴らしい旅が続いた。そして宍道湖の、ヒタヒタと道路際まで迫って来るかのような大きなゆっくりとした波の静かな繰り返しが、僕のカサついた心を癒してくれるのだ。ホテルの近くの出雲駅はえらくデカい立派な建物で、ちょっと場違い感がハンパ無い。駅前の呑み屋街が駅の大きさの割りに見すぼらしいのはご愛嬌で、「喫茶ゆうこ」だの「甘味処さゆり」なんて店名は、裏ぶれた横丁の名残りらしく風情があるとでも言っておこう。その日は大人しくホテルで呑んでコトンと寝た。明日は出雲大社に行こう。太古より綿々と受け継がれる出雲族の誇りを体現した出雲大社、そのスケールは伊勢神宮を遥かに凌ぐ威容を誇ったという。すごいな。
すごいすごいと思ってはいたが翌朝起きて結局、出雲大社に行くのはやめた。「なんでやねん、せっかく出雲まで行ったのに出雲大社行かんでどこ見る言うのん!」と思われるだろうが、僕は血液型B型の天邪鬼タイプ。有名だから見ておくという行動は、僕の最も忌み嫌う俗人のパターンだ。まぁ、言うほど大した理由もないのだが、見ずにそのまま踵を返して東京に帰ってしまった。途中、敦賀で気比神宮を参拝し、何てことのないロングドライブは唐突に無事終了した。時には無意味に走るのもまた良し、という島根への旅でした、ジャン!。
(8)中東の話 : トルコとロシア
トルコとロシアの緊張が中東の政情を浮き彫りにしている。トルコは言わずと知れたアラブの国である。NATOに入っているしUEFAチャンピオンズリーグにも入っているので何となくヨーロッパの一員のような感じで受け止められているが、言葉の上でも宗教の上でも歴史の上でも民族の上でも、つまり何から何まで中東の一員なのである。何を今更とお叱りを受けそうだが、ではそう言うあなたはどれ程中東を知っているだろうか。私を含めて、日本人は中東を「欧米の眼」で今まで見ていたが、アジアが欧米と異なる文化の元で発展してきたごとく中東は欧米とは全く違うやり方で発展して来た。中東は複雑に民族と宗教が絡み合い、古来何度も帝国が交代し生成消滅して来た歴史の古い地域である。そこに第二次大戦後、イスラエルという国家がヨーロッパの肝いりで突然に出来上がった(サイクスピコ条約?)。パレスチナはもとより、エジプト・シリア・レバノンなどアラブ諸国はこぞってイスラエルを侵入者と非難した。イスラエル対アラブ連合となる筈だが、アラブの足並みが一向に揃わない。アラブはアラブで誰が盟主になるかの足の引っ張り合いをしている。これが現状である。
つまり中東のうちサウジアラビアなどのGCC石油産出国グループは、戦争などしないで安定した石油価格のもとに経済発展したいと思っている。しかしシリアやイラクやトルコは、過去の大帝国の記憶が人々の愛国心にかすかな栄光の日々を夢想させるのだ。それに加えてスンニとシーアの正統派争いがある。更に第三の要因としてクルド人という、圧政に抑圧分断された民族が加わり混沌としていて外から見ると何が何だかわからない。そんな中、アメリカがイラクを潰した。しかしアメリカの本音はイスラエルにとっての脅威であるイラクを民主的な欧米型の国に作り変えることである。結局、イラクは民主化せず混乱の中でスンニ派のISというテロ組織を生む温床となった。シリアも反政府運動をアメリカが支援して内乱状態になり、いまや難民の一大生産地になってしまった。要するに、イランも同じ理由から、イスラエルの潜在的脅威となり得る強国は全て民主化せよ、さもなくば内戦と混乱のままに放置せよというのがアメリカ=イスラエルの基本姿勢である。だが欧米的民主化は中東・アジア・アフリカで成功していない。極東の小国で唯一成功したように見えるが、果たして天皇制下の政治体制が真の意味で民主的と言えるのか疑問である(以前飲み屋で天皇制に疑問を投げかけたら、見も知らない親父に食ってかかられたので、これ以上書くのはやめておく)。
それはさておき、ロシアが自分の国の勢力伸張を狙って中東に介入しているとするマスコミの論調は、余りに浅薄なものの見方である。ロシアはもっと先を見ている。シリアを中東の足がかりとしてイラン・イラクを取り込み、クルド人の独立を助けて4000年来の紛争の地に初めて自主独立の国家連合をイスラムを主体として樹立する、壮大なプロジェクトである。これはオバマの真意でもある。安定して紛争のない社会が出来て初めて「市場」が活性化する。オバマは大企業のもっと稼ぎたいという要望をグローバルに実現する使命を持って大統領になった。その意味では、ロシアや中国にアジアの覇権を握ってもらい、世界平和を作りたいのであろう。その世界平和が、大企業独占の資本主義帝国であるとすれば、我々労働者の大多数は「最低限の幸せ」を与えられることで満足しなければならない(まぁ、案外それもいいかもね)。とにかく今は、ロシアに中東を安定化して貰うのが一番。トルコはエルドアンが辞職して選挙をやり直しすることになるだろう。その次は、イスラエルが占領地域から撤退する、私はそう見ているがどうなるか。ちなみに、テロは日常茶飯事いちいち怒ってる暇はない、中東ではそうだ。
(9)裁判員制度の話 : 女子大生殺人犯に無期懲役
千葉の女子大生殺人犯に裁判員制度で死刑判決が出たのにもかかわらず、上告審判決で無期懲役の逆転判決が出た。なんで?と思う。だがこれを持って裁判員裁判の意味がないと考えるのは誤りである。裁判員裁判の目的は自白の強要などに見られる捜査方法と送検判断に対し、常識的な考え方による判断基準を導入する事で冤罪を防ぐというのが第一であると思う。論理的思考が余りにも欠けている警察の捜査は、検挙率や有罪率を優先して自白に重きをおく前時代の遺物であるというのが裁判員制度のスタートではなかったか。
刑の軽重は、もちろん改善すべきであるし前例主義や名目主義による弊害も多いが、これは専門家つまり裁判官の問題である。この点については、マスコミもリンチ主義に拍車をかけて国民の意識形成に一役買っている。確かに千葉女子大生殺人犯は更生する見込みは全然ない根っからの犯罪者であるから、上級審で無期懲役に減刑したのはバランスどうこう言う考えがあったのか或いは一人殺したら無期懲役という杓子定規な判断があったか何れにしても、刑罰というものを犯罪と同じくバラエティが必要だと考えているのは間違いない。
しかし私はそろそろ刑罰の考え方を改める時期に来ていると思う。犯罪は犯罪者が犯すものである。犯罪者を裁かずに犯罪を裁くことは出来ない。罪を憎んで人を憎まずというのは明治の理想主義的な誤った考えであるが、私はむしろ逆の立場を取る。罪を犯したら責任を取らなければならないのは、アダムとイブ以来のお約束である。千葉女子大生殺人犯は人間に問題があり、死刑にして来世に真人間となって生まれてくる事を期待するのが妥当と思う。憎む憎まないではなく、冷静に考えての結論だ。
有罪か無罪かを決めるのは論理的な判断で、誰が行っても同じ結論が出なくてはいけないが、量刑は総合的判断であるためにYESとNOだけでは済まない微妙な判断が要求される。だから基本的考えや過去の判決を参照しつつ、最小限の3人で協議し結審するのである。それでも上告する権利を残してあるのは、人間は間違うものと慎重の上にも慎重を期しているのだと思う。だから尚更、上級審で無期懲役に減刑した理由がわからない。犯人だということは間違いないのだから冤罪は無いという判断だ。だとすれば減刑は何のため?この裁判官達はもう一遍修習生から叩き直す必要があるのじゃないか、というか司法試験からやり直すべきである。もちろん、受からないと思うけどね。
さて私なりの刑罰の考え方を書いてみよう。話を簡単にするために殺人の有罪が確定していて、この際情実は排除したとする。
1.普通にはとても理解できない精神異常の殺人犯
2.憎しみ恨みやストーカーとかの、ただの殺人犯
3.何か悪事をするのに邪魔だから殺しちゃった殺人犯
4.他に解決方法が有るのに気が付かないで殺すしかない、と思い込んでいる馬鹿な殺人犯
以上、四つあげてみました。
さて、1.は無条件で死刑、2.も無条件で死刑、3.は身勝手すぎるだろで死刑、4.も、もうちょっと頭使えよってことで死刑。
あれっ、全部死刑になっちゃった!?
要するに、どんな理由があれ人を殺したら罪を償う方法はない。更生して正しい人生を歩むことは、殺してしまったら無理である。死刑がメチャメチャ多くなるが仕方ないその代わり、殺人を思い止まった人には最大限の援助を政府は惜しまないというのはどうであろう。人間、誰しも楽しい人生を送りたい。だからやり直すなら次回に生まれた時にしたらどうだろうか、今回は失敗だから諦めてさ。これ、キリスト教やイスラム教では人生一回きりだからうまくないけど、仏教徒は輪廻転生だから出来るっつう事、いい話です。
(10)音楽の話 : アレクシス・ワイセンベルク
テレビでみるワイセンベルクは背筋をスッと立て、まるでマシンの様な無表情な顔で目も眩むパッセージをあっさり弾ききった。カラヤン=ベルリンフィルのブラームス第一番、青春の甘く切ない感情と怒涛の重低音が奏でるロマン派屈指の名曲だ。だが何故か面白くない、思っていた感動が伝わらないのだ。もっと違う、自信に満ちたワイセンベルクを僕は期待したのに。やっぱブラームスはゼルキン・セル=クリーブランド響なのかな。
そう、人によってはピアニストに求めるものが色々あって、本人とは違うイメージを持ってしまうことが良くある。もちろん私の場合ワイセンベルクのイメージはシャルル・デュトワ指揮のショパンのコンチェルト1番と2番、ポーランドの天才作曲家の鮮烈な肖像で魅せた変幻自在の音色と演奏だった。ショパンのコンチェルトでここまで自分の肉体と一体となった演奏を僕は今まで聞いたことがなかったから、それから一ヶ月というもの通勤の往復の間中ズーッとヘッドフォンで聞きっぱなしだった。僕はこの録音を、未だにショパンのコンチェルトの唯一無二の名演奏と確信しているが、だがワイセンベルクの他の演奏はどうかというと、疑問だ。どうしちゃったんだろうか、あの輝きに満ち自信満々の華麗なピアニズムは、おなじショパンのワルツ全集ではすっかり影を潜めているのだ。
仕方ない、何をかも全てカバーする演奏者なんて望む方が無理なんだ。で、アルトゥール・ベネディッティ・ミケランジェロのショパン集を取り出す。ABMは孤高のピアニストだ。彼の弾くショパンは我々のイメージするショパンそのもののように聞こえるが実は、よく聞くとまるで違うことがわかる。他の例えばルービンシュタインなどのショパンを聴いた後にABMを聴くとこれは「彼のショパン」という事が、音符の一音一音の隅々まで磨き抜かれたスタインウェイの乾いた石を叩くような音に表現されて心地よく響く。ワイセンベルクとABMの共通点は、ここにあるべき音が「何100分の一秒の精度」でピッタリのタイミングで打たれることにある。ピアノは打楽器だからリズムが生命、殆んどのピアニストは「リズムを作曲家の意図した通り」に弾かない、だがABMは完璧なテクニックと耳を持っていて、それを何種類ものタッチと強弱で弾き分けるのだ。
ワイセンベルクはショパンのコンチェルトでは、それをやってのけた。アルゲリッチはショパンのソナタ第1番で、ポリーニはソナタ第2番で、同じように正確なピアニズムを披露している。しかしABMは別格だ、究極のマシンである。ABMの演奏会は常にチケット完売であったのも頷ける。見たいのだ。聴くのはCDで充分だが、彼は出来ればライブで見たかったと思うピアニストの1人である。ちなみに、アルゲリッチもワイセンベルクもABMに教えを乞うていて、プロはプロ同士だと思って「やっぱりな」と感心した。ワイセンベルクはバッハもブラームスも持っているが、実はラフマニノフなんかが合ってるのかも知れないと密かに思っている。聴いてみたいものだ。
(11)ニュース : 相模原死体遺棄
黙秘を続けて執行猶予付き判決が出たが、その理由が「反省の徴候が見られた」だという。呆れ返って思わずこの稿を追加した。人間心理の常識に照らせば、反省しているなら余計に素直に罪に服すると考えなきゃおかしいだろう?これじゃ演技で反省する輩が跋扈してあたりまえだ。それに反省しているはずの人間が、なんで「その死体を何処で見つけたのか」について黙ってるのか、ふざけてんじゃぁないよ!
とにかく腹の虫が収まらない、この裁判官は頭がパプア・ニューギニアだ!。皆さんはどうお思いか、黙っているなら殺人で判決すべし。何と言っても黙っているのは嘘つくよりもタチが悪い。黙秘権などを有効な法定技術に数えるからこんなおかしなことになる。都合が悪いから黙っているなら、その「都合の悪い事」で有罪にすべし。そうでもしないと収まらないこの怒り、どなたかどうにかしていただけないでしょうか?無理?
それでは私はこれからコンビニに行き、悪名高い歌舞伎揚げファミリーパックを買ってきて爆食いすることにします、とめないで下さい、私のストレス解消法です。それじゃ、さようなら。
日本の小売店ではお客様が入って来るとお辞儀をし「いらっしゃいませ」と迎えるのが当たり前となっている。ところが外国では頭を下げる習慣がそもそもなく敬語的表現も曖昧なので、何というのか分からないが余り決まった表現はないようだ。アメリカあたりは「ハーイ」とかなんとか非常にフレンドリーである。お客だから偉いとか店員だからへり下るとかといった主客の上下関係は、イメージすることすら全くと言ってない。多少とも丁寧な感じが見られるホテルでも、あくまで上品に応対しているのであってへりくだっている意識は毛頭ない(と思う)。これはどうしたことだろう。日本は島国だから特殊なのか。
そう、理由は分からないが特殊であることは確かである、つまりこれが日本流の「おもてなし」の精神である。しかし、こんなに散々へり下る民族も珍しい。最近では、この特殊性を逆手に取ったクレーマーの土下座パフォーマンス強要事件がニュースを賑わしたのは記憶に新しい。日本人の販売業務就業意識は異常な教育も相まって、お客の望む事は最大限の努力を持って対応するべしというマニュアルもとい「文化」が、すでに深く深く心の奥底にまで染み込んでいるのである。
我々日本人はそろそろ民族の宿痾と化した悪癖と訣別すべきである。お客も店員も同格であり、なんら上下関係のない市民同士の関係が自然と出来上がって、店の中にいても外で出会っても同じ意識で「ハーイ」と仲良く出来る日が近々来るのでは無いだろうか。京都の老舗旅館の女将が三指ついてお客を出迎える時、お客様は神様と考えているのではなく「旅館の女将」を演じているとも言える。最高のおもてなしを演出するには其れなりの物の価値を分かった「礼儀に通じた」お客が必須である。お客もそれなりのレベルが要求されるとなると、すでにコンビニでコーヒーを買うのと違い、お茶や能の世界である、つまりプロ同士の火花を散らした戦いと言える。まぁこれは例外としても、日常生活の中で接するスーパーやコンビニの販売業務に従事している人に対しては、自分となんら変わらない権利と義務を有する市民なんだと認めよう。そして、レジでどうでもいいことをネチネチ文句言っているオバハンやオヤジには、はっきりと「平等」の意味を教えてあげようじゃないか(私はとりあえず隣のレジに並びなおすが、皆さんはどうぞ)。
(7)旅の話 : 島根県出雲市
明日は晴れという夜に家をそっと出て、東名を西に向けひたすら車を飛ばした。残念だが高速なので星空を見るのはあきらめざるをえない。夜に屋根を開けて星空を見ながら流すというのがオープンカーの楽しみのひとつだが、なにも今日じゃなければいけないわけじゃ無い。次の機会に譲って京都から丹波を抜け9号線を一路島根へ向かう。初めての日本海、おお何と美しい穏やかな海なんだ!白砂青松、松林から垣間見る景色は思わず歓声を上げてしまう絶景である。原発のある福井県は別として(原発は人類の作った最悪で非効率なゴミだ)、鳥取県から島根県に至る海岸線は人の気配もなく、なだらかにあくまで広大な原風景が延々と続く一本道である。僕は躊躇せず車を止め(僕のオープンカーは屋根が自動じゃ無いのだ、残念)、気持ちの良い風を満喫して、前人未踏の原野を駆け抜ける旅を続けた。
ぐいぐい快調にハイウェイを走っていたら腹が減ってきたので、兎に角道の駅にでも寄って昼飯を食うことにした。これも旅の楽しみの第二である。しかししかし、「道の駅はわい」。ふざけた名前だ。市役所だか建設省だか知らないが、気の利いたジョークのつもりで付けたのだろう。田舎者によく見られる、都会のセンスを真似したつもりの田舎っぺ丸出しネーミングだ。どうせつけるのでも、常磐ハワイアンセンターの方がまだマシ。しかも建物はでかいが閑散としている。こんな名前を付けて「面白いねー」なんて旅行客がワンサカやって来ると思ったら大間違いだ、ヒマなのも当然である。こんな所に長居は無用というわけで、サッサと食べて車に戻った。
ちょいとケチが付いたが、琴浦・米子・松江と素晴らしい旅が続いた。そして宍道湖の、ヒタヒタと道路際まで迫って来るかのような大きなゆっくりとした波の静かな繰り返しが、僕のカサついた心を癒してくれるのだ。ホテルの近くの出雲駅はえらくデカい立派な建物で、ちょっと場違い感がハンパ無い。駅前の呑み屋街が駅の大きさの割りに見すぼらしいのはご愛嬌で、「喫茶ゆうこ」だの「甘味処さゆり」なんて店名は、裏ぶれた横丁の名残りらしく風情があるとでも言っておこう。その日は大人しくホテルで呑んでコトンと寝た。明日は出雲大社に行こう。太古より綿々と受け継がれる出雲族の誇りを体現した出雲大社、そのスケールは伊勢神宮を遥かに凌ぐ威容を誇ったという。すごいな。
すごいすごいと思ってはいたが翌朝起きて結局、出雲大社に行くのはやめた。「なんでやねん、せっかく出雲まで行ったのに出雲大社行かんでどこ見る言うのん!」と思われるだろうが、僕は血液型B型の天邪鬼タイプ。有名だから見ておくという行動は、僕の最も忌み嫌う俗人のパターンだ。まぁ、言うほど大した理由もないのだが、見ずにそのまま踵を返して東京に帰ってしまった。途中、敦賀で気比神宮を参拝し、何てことのないロングドライブは唐突に無事終了した。時には無意味に走るのもまた良し、という島根への旅でした、ジャン!。
(8)中東の話 : トルコとロシア
トルコとロシアの緊張が中東の政情を浮き彫りにしている。トルコは言わずと知れたアラブの国である。NATOに入っているしUEFAチャンピオンズリーグにも入っているので何となくヨーロッパの一員のような感じで受け止められているが、言葉の上でも宗教の上でも歴史の上でも民族の上でも、つまり何から何まで中東の一員なのである。何を今更とお叱りを受けそうだが、ではそう言うあなたはどれ程中東を知っているだろうか。私を含めて、日本人は中東を「欧米の眼」で今まで見ていたが、アジアが欧米と異なる文化の元で発展してきたごとく中東は欧米とは全く違うやり方で発展して来た。中東は複雑に民族と宗教が絡み合い、古来何度も帝国が交代し生成消滅して来た歴史の古い地域である。そこに第二次大戦後、イスラエルという国家がヨーロッパの肝いりで突然に出来上がった(サイクスピコ条約?)。パレスチナはもとより、エジプト・シリア・レバノンなどアラブ諸国はこぞってイスラエルを侵入者と非難した。イスラエル対アラブ連合となる筈だが、アラブの足並みが一向に揃わない。アラブはアラブで誰が盟主になるかの足の引っ張り合いをしている。これが現状である。
つまり中東のうちサウジアラビアなどのGCC石油産出国グループは、戦争などしないで安定した石油価格のもとに経済発展したいと思っている。しかしシリアやイラクやトルコは、過去の大帝国の記憶が人々の愛国心にかすかな栄光の日々を夢想させるのだ。それに加えてスンニとシーアの正統派争いがある。更に第三の要因としてクルド人という、圧政に抑圧分断された民族が加わり混沌としていて外から見ると何が何だかわからない。そんな中、アメリカがイラクを潰した。しかしアメリカの本音はイスラエルにとっての脅威であるイラクを民主的な欧米型の国に作り変えることである。結局、イラクは民主化せず混乱の中でスンニ派のISというテロ組織を生む温床となった。シリアも反政府運動をアメリカが支援して内乱状態になり、いまや難民の一大生産地になってしまった。要するに、イランも同じ理由から、イスラエルの潜在的脅威となり得る強国は全て民主化せよ、さもなくば内戦と混乱のままに放置せよというのがアメリカ=イスラエルの基本姿勢である。だが欧米的民主化は中東・アジア・アフリカで成功していない。極東の小国で唯一成功したように見えるが、果たして天皇制下の政治体制が真の意味で民主的と言えるのか疑問である(以前飲み屋で天皇制に疑問を投げかけたら、見も知らない親父に食ってかかられたので、これ以上書くのはやめておく)。
それはさておき、ロシアが自分の国の勢力伸張を狙って中東に介入しているとするマスコミの論調は、余りに浅薄なものの見方である。ロシアはもっと先を見ている。シリアを中東の足がかりとしてイラン・イラクを取り込み、クルド人の独立を助けて4000年来の紛争の地に初めて自主独立の国家連合をイスラムを主体として樹立する、壮大なプロジェクトである。これはオバマの真意でもある。安定して紛争のない社会が出来て初めて「市場」が活性化する。オバマは大企業のもっと稼ぎたいという要望をグローバルに実現する使命を持って大統領になった。その意味では、ロシアや中国にアジアの覇権を握ってもらい、世界平和を作りたいのであろう。その世界平和が、大企業独占の資本主義帝国であるとすれば、我々労働者の大多数は「最低限の幸せ」を与えられることで満足しなければならない(まぁ、案外それもいいかもね)。とにかく今は、ロシアに中東を安定化して貰うのが一番。トルコはエルドアンが辞職して選挙をやり直しすることになるだろう。その次は、イスラエルが占領地域から撤退する、私はそう見ているがどうなるか。ちなみに、テロは日常茶飯事いちいち怒ってる暇はない、中東ではそうだ。
(9)裁判員制度の話 : 女子大生殺人犯に無期懲役
千葉の女子大生殺人犯に裁判員制度で死刑判決が出たのにもかかわらず、上告審判決で無期懲役の逆転判決が出た。なんで?と思う。だがこれを持って裁判員裁判の意味がないと考えるのは誤りである。裁判員裁判の目的は自白の強要などに見られる捜査方法と送検判断に対し、常識的な考え方による判断基準を導入する事で冤罪を防ぐというのが第一であると思う。論理的思考が余りにも欠けている警察の捜査は、検挙率や有罪率を優先して自白に重きをおく前時代の遺物であるというのが裁判員制度のスタートではなかったか。
刑の軽重は、もちろん改善すべきであるし前例主義や名目主義による弊害も多いが、これは専門家つまり裁判官の問題である。この点については、マスコミもリンチ主義に拍車をかけて国民の意識形成に一役買っている。確かに千葉女子大生殺人犯は更生する見込みは全然ない根っからの犯罪者であるから、上級審で無期懲役に減刑したのはバランスどうこう言う考えがあったのか或いは一人殺したら無期懲役という杓子定規な判断があったか何れにしても、刑罰というものを犯罪と同じくバラエティが必要だと考えているのは間違いない。
しかし私はそろそろ刑罰の考え方を改める時期に来ていると思う。犯罪は犯罪者が犯すものである。犯罪者を裁かずに犯罪を裁くことは出来ない。罪を憎んで人を憎まずというのは明治の理想主義的な誤った考えであるが、私はむしろ逆の立場を取る。罪を犯したら責任を取らなければならないのは、アダムとイブ以来のお約束である。千葉女子大生殺人犯は人間に問題があり、死刑にして来世に真人間となって生まれてくる事を期待するのが妥当と思う。憎む憎まないではなく、冷静に考えての結論だ。
有罪か無罪かを決めるのは論理的な判断で、誰が行っても同じ結論が出なくてはいけないが、量刑は総合的判断であるためにYESとNOだけでは済まない微妙な判断が要求される。だから基本的考えや過去の判決を参照しつつ、最小限の3人で協議し結審するのである。それでも上告する権利を残してあるのは、人間は間違うものと慎重の上にも慎重を期しているのだと思う。だから尚更、上級審で無期懲役に減刑した理由がわからない。犯人だということは間違いないのだから冤罪は無いという判断だ。だとすれば減刑は何のため?この裁判官達はもう一遍修習生から叩き直す必要があるのじゃないか、というか司法試験からやり直すべきである。もちろん、受からないと思うけどね。
さて私なりの刑罰の考え方を書いてみよう。話を簡単にするために殺人の有罪が確定していて、この際情実は排除したとする。
1.普通にはとても理解できない精神異常の殺人犯
2.憎しみ恨みやストーカーとかの、ただの殺人犯
3.何か悪事をするのに邪魔だから殺しちゃった殺人犯
4.他に解決方法が有るのに気が付かないで殺すしかない、と思い込んでいる馬鹿な殺人犯
以上、四つあげてみました。
さて、1.は無条件で死刑、2.も無条件で死刑、3.は身勝手すぎるだろで死刑、4.も、もうちょっと頭使えよってことで死刑。
あれっ、全部死刑になっちゃった!?
要するに、どんな理由があれ人を殺したら罪を償う方法はない。更生して正しい人生を歩むことは、殺してしまったら無理である。死刑がメチャメチャ多くなるが仕方ないその代わり、殺人を思い止まった人には最大限の援助を政府は惜しまないというのはどうであろう。人間、誰しも楽しい人生を送りたい。だからやり直すなら次回に生まれた時にしたらどうだろうか、今回は失敗だから諦めてさ。これ、キリスト教やイスラム教では人生一回きりだからうまくないけど、仏教徒は輪廻転生だから出来るっつう事、いい話です。
(10)音楽の話 : アレクシス・ワイセンベルク
テレビでみるワイセンベルクは背筋をスッと立て、まるでマシンの様な無表情な顔で目も眩むパッセージをあっさり弾ききった。カラヤン=ベルリンフィルのブラームス第一番、青春の甘く切ない感情と怒涛の重低音が奏でるロマン派屈指の名曲だ。だが何故か面白くない、思っていた感動が伝わらないのだ。もっと違う、自信に満ちたワイセンベルクを僕は期待したのに。やっぱブラームスはゼルキン・セル=クリーブランド響なのかな。
そう、人によってはピアニストに求めるものが色々あって、本人とは違うイメージを持ってしまうことが良くある。もちろん私の場合ワイセンベルクのイメージはシャルル・デュトワ指揮のショパンのコンチェルト1番と2番、ポーランドの天才作曲家の鮮烈な肖像で魅せた変幻自在の音色と演奏だった。ショパンのコンチェルトでここまで自分の肉体と一体となった演奏を僕は今まで聞いたことがなかったから、それから一ヶ月というもの通勤の往復の間中ズーッとヘッドフォンで聞きっぱなしだった。僕はこの録音を、未だにショパンのコンチェルトの唯一無二の名演奏と確信しているが、だがワイセンベルクの他の演奏はどうかというと、疑問だ。どうしちゃったんだろうか、あの輝きに満ち自信満々の華麗なピアニズムは、おなじショパンのワルツ全集ではすっかり影を潜めているのだ。
仕方ない、何をかも全てカバーする演奏者なんて望む方が無理なんだ。で、アルトゥール・ベネディッティ・ミケランジェロのショパン集を取り出す。ABMは孤高のピアニストだ。彼の弾くショパンは我々のイメージするショパンそのもののように聞こえるが実は、よく聞くとまるで違うことがわかる。他の例えばルービンシュタインなどのショパンを聴いた後にABMを聴くとこれは「彼のショパン」という事が、音符の一音一音の隅々まで磨き抜かれたスタインウェイの乾いた石を叩くような音に表現されて心地よく響く。ワイセンベルクとABMの共通点は、ここにあるべき音が「何100分の一秒の精度」でピッタリのタイミングで打たれることにある。ピアノは打楽器だからリズムが生命、殆んどのピアニストは「リズムを作曲家の意図した通り」に弾かない、だがABMは完璧なテクニックと耳を持っていて、それを何種類ものタッチと強弱で弾き分けるのだ。
ワイセンベルクはショパンのコンチェルトでは、それをやってのけた。アルゲリッチはショパンのソナタ第1番で、ポリーニはソナタ第2番で、同じように正確なピアニズムを披露している。しかしABMは別格だ、究極のマシンである。ABMの演奏会は常にチケット完売であったのも頷ける。見たいのだ。聴くのはCDで充分だが、彼は出来ればライブで見たかったと思うピアニストの1人である。ちなみに、アルゲリッチもワイセンベルクもABMに教えを乞うていて、プロはプロ同士だと思って「やっぱりな」と感心した。ワイセンベルクはバッハもブラームスも持っているが、実はラフマニノフなんかが合ってるのかも知れないと密かに思っている。聴いてみたいものだ。
(11)ニュース : 相模原死体遺棄
黙秘を続けて執行猶予付き判決が出たが、その理由が「反省の徴候が見られた」だという。呆れ返って思わずこの稿を追加した。人間心理の常識に照らせば、反省しているなら余計に素直に罪に服すると考えなきゃおかしいだろう?これじゃ演技で反省する輩が跋扈してあたりまえだ。それに反省しているはずの人間が、なんで「その死体を何処で見つけたのか」について黙ってるのか、ふざけてんじゃぁないよ!
とにかく腹の虫が収まらない、この裁判官は頭がパプア・ニューギニアだ!。皆さんはどうお思いか、黙っているなら殺人で判決すべし。何と言っても黙っているのは嘘つくよりもタチが悪い。黙秘権などを有効な法定技術に数えるからこんなおかしなことになる。都合が悪いから黙っているなら、その「都合の悪い事」で有罪にすべし。そうでもしないと収まらないこの怒り、どなたかどうにかしていただけないでしょうか?無理?
それでは私はこれからコンビニに行き、悪名高い歌舞伎揚げファミリーパックを買ってきて爆食いすることにします、とめないで下さい、私のストレス解消法です。それじゃ、さようなら。
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