(1)文学の話 : スタンダール
とある日曜日、肌寒い曇り空の午後に駅まで徒歩で出かける事にした。銀行で送金を済ませ、ビルの6階の本屋「くまざわ書店」に立ち寄る。あれこれ雑誌を立ち読みしてから外国文学の棚に向かった。岩波で、バルザック・ボードレール・ヴェルレーヌと並んでいる棚の中の一冊を取り、レジの列に並んだ。キャッシャーの女性が何か言っているが全然聞こえない。僕はヘッドホンをしたままお釣りを財布に突っ込むと、そそくさと立ち去った。まるで「こんな本屋になんか、この本の価値なぞわかるはずが無いんだ!」と叫び出すのを必死でこらえるのが精一杯でもあるかのように。・・・スタンダールのパルムの僧院(上)780円、長い間忘れていた名前だ。
私が初めてスタンダールと出会ったのは大学時代の図書館だった。恋愛論を借りて読んだのは若いからだけではない。自分の死後50年経ってやっとわかる日が来るであろう、というその恋愛論の奥義に、文学青年だった私はひどく魅せられたのだった。洞窟の小枝の例えは、映画「夜の騎士道」のジェラール・フィリップ演じる下士官の端正な横顔と重なって、フランス映画の妖しい魅力にどっぷり浸かって行った。当時、京橋に国立フィルムセンターという映画館があって、ジュリアン・デュヴィヴィエやルネ・クレールやジャン・ルノワールの古い映画をやっていて、大学生だった私は暇にあかせて通いつめた。ゴダールやトリュフォーやアラン・レネなどのヌーベルバーグの映画も同時代の興奮を感じ、自分の青春を重ねて観ていたが、1930年代の黄金期の映画を集中して観れたのは私にとって二度とない幸福な時間であった。今では余程の映画好きの人でも、DVDで出ている少数の作品を観るのがやっとだ。私は人生で最も多感な時にこれらの素晴らしい映画を見れた事は、その後の自己の成長にどれ程の影響を与えたか計り知れない。
人は恋をすると盲目になるという。その人の顔が視野全体を覆うようになり、しまいに瞳だけしか目に入らなくなる。もちろんスタンダールはもっと美しい言葉とイマジネーションで恋愛の人に与える奇蹟を語っているが、もしかしたら人が生きることの唯一の証しを、洞窟の小枝がかけられた魔法のほんの一瞬だけ人間に垣間見せてくれる、人生の無上の喜びとして与えてくれると言いたいのかも知れない。
岩波文庫本で上・下2巻だが上だけしか買わなかったのは、最近は本を読めなくなって来ているので保険を掛けたのである。いつも買うまではいろいろ夢を膨らませてもっともらしいことを考えるのだが、買って本屋を出るとそのままにして本棚に積んでおくのが習いになってしまった。こないだ「太平記1」を買ってそのままにしている。今回も、「西行全詩集」というのがあって、つい買ってしまいそうになったが我慢した。最近は出た時にすぐ買わないとあっという間に返本されてなくなってしまう。私が得意にしているカジュアルファッションの店は、アイテムの置き換えがとても早い。安くてそこそこ着れる服は、同じ物を長く売るより短い間にたくさん売ってサッサと次のアイテムに並べ替える方法が良いのだろう。お客もそのつもりで買っているから、流行おくれにならないのがお約束なのだ。昔と比べ、時の経つのが速くなっている。今はじっくり寝そべって上・下2巻本を読むなんてことは、もはや許されない時代なのかも知れない。スタンダールも、草葉の陰で苦笑している事だろう。
(2)音楽の話 : ポリーニとリヒテル
ピアノは、今でも子供の音楽教育の花形である。いつだったか奈良県はピアノを持っている家の割合が日本一だと聞いたことがある。何故かは聴き漏らした。あの古代の息吹の残る大和の地に、小学生の弾くツェルニーの無味乾燥な練習曲が、彼方此方の家から微かに聞こえてくるのは興醒めである。せめてショパンのバラードくらいは、名演奏でなくて良いから窓辺でちょっと足を止めて聞いていたいものである。因みに私は、買うのはバッハ・モーツァルト・ショパン・シューベルトだけと決めている。もちろん演奏者が一番重要なのは言うまでも無い。シューベルトはクラウディオ・アラウの演奏を聞いてから好きになった。彼の、曲ととことん向き合って語りかけるかのような弾きぶりが、じんわりと心に沁みるのだ。アラウは私の大好きなピアニストの一人である。ポリーニのバッハ平均律は、人によっては大失敗と評価は散々だが私は好きである。まだ「ポリーニの」バッハが見えてこないが、BGMとして聞いていて実に心地よい。私は長い間リヒテル盤を最上として聞いていたが、ポリーニは自分の存在を消して聞くものに曲そのものを提供する。これがポリーニ流のバッハへのアプローチだとすると、ポリーニのバッハは実は存在せず、ということになる。リヒテル盤は時に近寄りがたく思えるが、ポリーニは何時でも心地よく迎えてくれる。確か、リヒテルはポリーニを余り評価してなかった記憶があるが、どちらが良いかという質問は最近はしない事にしている。何でも比べて優劣をつけたがるのは、凡夫の悪い癖と言えよう。
だがモーツァルトに関しては、良いか悪いか二つに一つだ。モーツァルトは一切の妥協を許さない。私はヤンドーのモーツァルト・ピアノ協奏曲全集を唯一最高のものと断言する。モーツァルトは音楽を人間とは別のものと考えていた。音楽をバッハのように神に捧げるものとしてではなく、人間がきらびやかな衣服のように常に身に着けているものと考えていたと思う。モーツァルトの音楽は優雅であり豪華であり、華麗な模様の絹織物のように溌剌として美しいものであった。ヤンドーは、モーツァルトを感情の表出と捉えるのではなく、まるで精緻な工芸品であるかのように弾く。しつこすぎる演奏は、一回目はいいが飽きるのだ。その点ヤンドーはいつ聞いても飽きないのがいい。
ここで私のクラシック三大転調曲を紹介しよう。
1.ショパンのバラード第3番
2.シューベルトの即興曲op90の3
3.モーツァルトのアヴェ・ヴェルム・コルプス
(順不同)
どれも転調の神々しいまでの美しさを心ゆくまで堪能できる名曲である。私は最近年を取ったせいか涙腺が弱くなってるらしく、転調する度についつい涙ぐんでしまうのは困ったものだと反省している。モーツァルトの高音は確固たる自信に満ちているけど、シューベルトの高音は何故か悲しい音色で響く。これは時代の流れか。フランス革命前の高貴な精神の横溢した時代は、音楽において人類最高のものを作り出した。
(3)歴史の話 : 会津白虎隊
夏の1日、ふと会津に行ってみたくなり電車に乗った。会津の駅前でレンタサイクルを借り白虎隊の墓がある丘に登ったが、会津を一望できる小高い墓地は鬱蒼とした樹木に覆われていて、物言わぬ墓碑名一つ一つに会津落城の無念が刻まれていた。思えば幕末の騒乱の中で、割りを食った若き君主会津容保の逆賊の汚名を晴らさんと、まだ幼さの残る童顔に誓いの鉢巻を巻きつけ、長州の雑兵に勝ち目のない戦を仕掛けていった白虎隊。長州は戦死した会津武士の亡骸を家族が埋葬するのを許さなかったと言う。夏の暑い盛りに置き去りにされたままの遺体は、見るも無残な姿になっていったらしい。長州の無情な振る舞いに会津人は怒り心頭に発し、決して長州を許してはならぬと子孫代々言い伝えているそうな。そんな事を考えながら、急な階段を降りて自転車にまたがった。上を見上げれば真っ青な夏空に飛行機が1機爆音を響かせて飛んでいく。あの日もこのような暑い夏の日だったに違いない。
ふと気がつくと喉がカラカラで、汗が流れる腕から塩が吹いている。朝から水分を取っていない「いかん、熱中症になっちまう!」。僕は町に向かう途中でカフェバーを見つけ飛び込んだ。「ビール!大ジョッキで!」。店はクーラーが効いていて汗がみるみる引いていく。僕はジョッキを一気に飲み干して二杯目をまた飲み干す。三杯目にしてやっと人心地がつきホッと息を吐いて店を見渡したが、客は誰もいなかった。まだ2時を少し回った真昼の熱気が表の通りを焼いている。会津の夏は、しばらくは終わりそうもない。
(4)ゴルフの話 : 軸回転とダウンブロー
還暦を過ぎてのアマチュアのゴルフに置いて、90を切るのは至難の事である。とはいえ60歳になる前であっても90を切った事がないのだから、年のせいとも言えない。飛距離が落ちた代わりに小技が上手くなる筈なんだが、一向にスコアが良くならないばかりか逆に100を叩く始末。センスが無いって?それを言っちゃあ、おしまいよ。仲良し四人組で飽きずに月1ゴルフを続けていたが、去年の暮れに大病を患いしばらくはお預けである。人間ダメと言われると無性にやりたくなるもので、鏡の前でイメージトレーニングは欠かさない。
ところが最近、ちょっとゴルフが分かってきたのだ。頭は動かさないことと言われるが横に動かさないだけであって、首筋を軸にしてぐるっと回すのである。同時に両肩も背骨を軸として同じようにぐるっと回転する。腰は肩に比べると角度は小さいが、やはりぐるっと回転させる。但し、タイミングは両肩より少し早めにして下半身リードでクラブの通り道を作ってやる。つまり上半身は「斜めのまま」ぐるっと回るのである。「そんなことは常識じゃん!、分かったなんて言うから何かと思ったら初歩の初歩、そんなことだから90を切れないんだよ、バカバカしい!」。皆様のお叱りの大炎上は先刻承知の上ですが、肝心のところはこれからですので安心して下さい。体の動きが出来たら、クラブを振ってみて下さい。その時クラブヘッドは下の方に動いてますか?ほとんどの人がボール位置から上に向かって上がってしまっていると思います。これでは正しいボールコンタクトが出来ません。クラブヘッドは上に上げる動きは一切なく、結果的に上に上がってしまうのです。それが出来たら、初めてスイングが出来たことになります。口で言うのは簡単だが、やって見ると恐ろしく難しい。かくいう私はゴルフ場再デビューを夢見てシャドートレーニングに余念がないが、果たしてもう一度ゴルフが出来るか疑問である。せっかくゴルフスイングの奥義を会得したというのに、実戦で試すことが出来ないなんてあり得ないと思いませんか?信じるものは裏切られる、何てことにならないように、お願いしますよ!神様仏様!
(5)国家の話 : 国の主体は誰か。
NHKの番組でスイス銀行の口座情報を盗み出した男の話を見て思いついた。日本は誰のものなのか?
盗まれた情報は、口座の持ち主の名前・住所・メールアドレス・それに全取引の記録。盗んだ男は、それを国税局に持ち込んだ。脱税が明らかになって数億ユーロが取り立てられたが、これは別の意味で大問題になった。つまり、脱税で検挙されたのはほんの数名しかいなかったのだ。あとは申告漏れ・延滞税などで納められ、罪に問われる事はなかった、なぜだろう。国税局は取るべきものを取ったのだから良いじゃないかという。すったもんだしていると、アメリカが乗り込んできて、銀行に自国民のデータを全てオープンにせよと強硬に主張した。さすがはアメリカである、世界最大の消費市場をバックに銀行団の隠匿体質に風穴を開けたのである。何もアメリカが正義のヒーローだと言うつもりは毛頭ない、ただスイスに代表されるヨーロッパの銀行団とはアメリカの利益が相反していたに過ぎない。アメリカは伝統的に、ヨーロッパよりも連邦政府の力が強いのである。実はヨーロッパの銀行は顧客にヨーロッパ上層部の大金持ちを持っており、政府の上の方と繋がっていて、伝統的にヨーロッパ全土にまたがる支配層を形作っているわけだ。ヨーロッパはハプスブルク家の支配からそれ程変わってはいないということか。
で、最初の質問に戻るが、日本は誰のものなのか?
資本主義の論理から言えば、市場を持つものが全てを手にする。日本の市場は世界基準から見れば特殊である。だから数々の日本独特の規制もかかっていて、外国企業の進入を防いできた。日本は中小企業で持っている国と言われてるが、徐々に大企業に席巻されて世界基準に近づいて来ている。TPPの成立で1番変わるのは、規制が取っ払われてグローバル市場になることである。もちろん日本人の性向はそう簡単には変わらないだろうが、これも時間の問題かなとも思う。結局、日本の企業が強くなるのではなく、日本の市場が強くなることで日本が強くなるのではないだろうか。
企業は国家に縛られずにグローバルに活動する。日本の企業だからと言って社長が日本人とは限らないし、株式を持っている大株主が日本人とは限らない。日本の企業が活躍しても、日本にお金が入るとは限らない。日本人である事が何のアドバンテージにもならないのだ。日本企業が強くなって世界にどんどん出て行っても、日本がシャッター通りのように空洞化してしまうこともある。
日本が、そこに住んでいる人々の国として活気あふれる社会のまま生き残るためには、何よりも「市場としての日本」を活性化するしかない。首相は一億総活躍だとかなんとか言っているようだが、売ることではなく買う事を伸ばさなければだめである。その視点から今一度、経済活動を見直す必要があるのではないだろうか。日本発のジェット機が飛んだだけでは日本の市場は活性化しないし、給料が上がっただけでは日本の市場は活性化するわけではない。「市場」そのものを活性化するにはどうするか、それは「価値」を生む事しか無い。本当に価値あるものを創造した時、市場は動き出す。私はそう思う。
取り留めの無い話になったが、いま私の考えている事はここまでである。これは本当に難しい問題なので、また考えついたら続きを書こうと思っています。
(PS)今週は趣向を変えてみた。お気に召すかどうか、まずはご覧あれ。
とある日曜日、肌寒い曇り空の午後に駅まで徒歩で出かける事にした。銀行で送金を済ませ、ビルの6階の本屋「くまざわ書店」に立ち寄る。あれこれ雑誌を立ち読みしてから外国文学の棚に向かった。岩波で、バルザック・ボードレール・ヴェルレーヌと並んでいる棚の中の一冊を取り、レジの列に並んだ。キャッシャーの女性が何か言っているが全然聞こえない。僕はヘッドホンをしたままお釣りを財布に突っ込むと、そそくさと立ち去った。まるで「こんな本屋になんか、この本の価値なぞわかるはずが無いんだ!」と叫び出すのを必死でこらえるのが精一杯でもあるかのように。・・・スタンダールのパルムの僧院(上)780円、長い間忘れていた名前だ。
私が初めてスタンダールと出会ったのは大学時代の図書館だった。恋愛論を借りて読んだのは若いからだけではない。自分の死後50年経ってやっとわかる日が来るであろう、というその恋愛論の奥義に、文学青年だった私はひどく魅せられたのだった。洞窟の小枝の例えは、映画「夜の騎士道」のジェラール・フィリップ演じる下士官の端正な横顔と重なって、フランス映画の妖しい魅力にどっぷり浸かって行った。当時、京橋に国立フィルムセンターという映画館があって、ジュリアン・デュヴィヴィエやルネ・クレールやジャン・ルノワールの古い映画をやっていて、大学生だった私は暇にあかせて通いつめた。ゴダールやトリュフォーやアラン・レネなどのヌーベルバーグの映画も同時代の興奮を感じ、自分の青春を重ねて観ていたが、1930年代の黄金期の映画を集中して観れたのは私にとって二度とない幸福な時間であった。今では余程の映画好きの人でも、DVDで出ている少数の作品を観るのがやっとだ。私は人生で最も多感な時にこれらの素晴らしい映画を見れた事は、その後の自己の成長にどれ程の影響を与えたか計り知れない。
人は恋をすると盲目になるという。その人の顔が視野全体を覆うようになり、しまいに瞳だけしか目に入らなくなる。もちろんスタンダールはもっと美しい言葉とイマジネーションで恋愛の人に与える奇蹟を語っているが、もしかしたら人が生きることの唯一の証しを、洞窟の小枝がかけられた魔法のほんの一瞬だけ人間に垣間見せてくれる、人生の無上の喜びとして与えてくれると言いたいのかも知れない。
岩波文庫本で上・下2巻だが上だけしか買わなかったのは、最近は本を読めなくなって来ているので保険を掛けたのである。いつも買うまではいろいろ夢を膨らませてもっともらしいことを考えるのだが、買って本屋を出るとそのままにして本棚に積んでおくのが習いになってしまった。こないだ「太平記1」を買ってそのままにしている。今回も、「西行全詩集」というのがあって、つい買ってしまいそうになったが我慢した。最近は出た時にすぐ買わないとあっという間に返本されてなくなってしまう。私が得意にしているカジュアルファッションの店は、アイテムの置き換えがとても早い。安くてそこそこ着れる服は、同じ物を長く売るより短い間にたくさん売ってサッサと次のアイテムに並べ替える方法が良いのだろう。お客もそのつもりで買っているから、流行おくれにならないのがお約束なのだ。昔と比べ、時の経つのが速くなっている。今はじっくり寝そべって上・下2巻本を読むなんてことは、もはや許されない時代なのかも知れない。スタンダールも、草葉の陰で苦笑している事だろう。
(2)音楽の話 : ポリーニとリヒテル
ピアノは、今でも子供の音楽教育の花形である。いつだったか奈良県はピアノを持っている家の割合が日本一だと聞いたことがある。何故かは聴き漏らした。あの古代の息吹の残る大和の地に、小学生の弾くツェルニーの無味乾燥な練習曲が、彼方此方の家から微かに聞こえてくるのは興醒めである。せめてショパンのバラードくらいは、名演奏でなくて良いから窓辺でちょっと足を止めて聞いていたいものである。因みに私は、買うのはバッハ・モーツァルト・ショパン・シューベルトだけと決めている。もちろん演奏者が一番重要なのは言うまでも無い。シューベルトはクラウディオ・アラウの演奏を聞いてから好きになった。彼の、曲ととことん向き合って語りかけるかのような弾きぶりが、じんわりと心に沁みるのだ。アラウは私の大好きなピアニストの一人である。ポリーニのバッハ平均律は、人によっては大失敗と評価は散々だが私は好きである。まだ「ポリーニの」バッハが見えてこないが、BGMとして聞いていて実に心地よい。私は長い間リヒテル盤を最上として聞いていたが、ポリーニは自分の存在を消して聞くものに曲そのものを提供する。これがポリーニ流のバッハへのアプローチだとすると、ポリーニのバッハは実は存在せず、ということになる。リヒテル盤は時に近寄りがたく思えるが、ポリーニは何時でも心地よく迎えてくれる。確か、リヒテルはポリーニを余り評価してなかった記憶があるが、どちらが良いかという質問は最近はしない事にしている。何でも比べて優劣をつけたがるのは、凡夫の悪い癖と言えよう。
だがモーツァルトに関しては、良いか悪いか二つに一つだ。モーツァルトは一切の妥協を許さない。私はヤンドーのモーツァルト・ピアノ協奏曲全集を唯一最高のものと断言する。モーツァルトは音楽を人間とは別のものと考えていた。音楽をバッハのように神に捧げるものとしてではなく、人間がきらびやかな衣服のように常に身に着けているものと考えていたと思う。モーツァルトの音楽は優雅であり豪華であり、華麗な模様の絹織物のように溌剌として美しいものであった。ヤンドーは、モーツァルトを感情の表出と捉えるのではなく、まるで精緻な工芸品であるかのように弾く。しつこすぎる演奏は、一回目はいいが飽きるのだ。その点ヤンドーはいつ聞いても飽きないのがいい。
ここで私のクラシック三大転調曲を紹介しよう。
1.ショパンのバラード第3番
2.シューベルトの即興曲op90の3
3.モーツァルトのアヴェ・ヴェルム・コルプス
(順不同)
どれも転調の神々しいまでの美しさを心ゆくまで堪能できる名曲である。私は最近年を取ったせいか涙腺が弱くなってるらしく、転調する度についつい涙ぐんでしまうのは困ったものだと反省している。モーツァルトの高音は確固たる自信に満ちているけど、シューベルトの高音は何故か悲しい音色で響く。これは時代の流れか。フランス革命前の高貴な精神の横溢した時代は、音楽において人類最高のものを作り出した。
(3)歴史の話 : 会津白虎隊
夏の1日、ふと会津に行ってみたくなり電車に乗った。会津の駅前でレンタサイクルを借り白虎隊の墓がある丘に登ったが、会津を一望できる小高い墓地は鬱蒼とした樹木に覆われていて、物言わぬ墓碑名一つ一つに会津落城の無念が刻まれていた。思えば幕末の騒乱の中で、割りを食った若き君主会津容保の逆賊の汚名を晴らさんと、まだ幼さの残る童顔に誓いの鉢巻を巻きつけ、長州の雑兵に勝ち目のない戦を仕掛けていった白虎隊。長州は戦死した会津武士の亡骸を家族が埋葬するのを許さなかったと言う。夏の暑い盛りに置き去りにされたままの遺体は、見るも無残な姿になっていったらしい。長州の無情な振る舞いに会津人は怒り心頭に発し、決して長州を許してはならぬと子孫代々言い伝えているそうな。そんな事を考えながら、急な階段を降りて自転車にまたがった。上を見上げれば真っ青な夏空に飛行機が1機爆音を響かせて飛んでいく。あの日もこのような暑い夏の日だったに違いない。
ふと気がつくと喉がカラカラで、汗が流れる腕から塩が吹いている。朝から水分を取っていない「いかん、熱中症になっちまう!」。僕は町に向かう途中でカフェバーを見つけ飛び込んだ。「ビール!大ジョッキで!」。店はクーラーが効いていて汗がみるみる引いていく。僕はジョッキを一気に飲み干して二杯目をまた飲み干す。三杯目にしてやっと人心地がつきホッと息を吐いて店を見渡したが、客は誰もいなかった。まだ2時を少し回った真昼の熱気が表の通りを焼いている。会津の夏は、しばらくは終わりそうもない。
(4)ゴルフの話 : 軸回転とダウンブロー
還暦を過ぎてのアマチュアのゴルフに置いて、90を切るのは至難の事である。とはいえ60歳になる前であっても90を切った事がないのだから、年のせいとも言えない。飛距離が落ちた代わりに小技が上手くなる筈なんだが、一向にスコアが良くならないばかりか逆に100を叩く始末。センスが無いって?それを言っちゃあ、おしまいよ。仲良し四人組で飽きずに月1ゴルフを続けていたが、去年の暮れに大病を患いしばらくはお預けである。人間ダメと言われると無性にやりたくなるもので、鏡の前でイメージトレーニングは欠かさない。
ところが最近、ちょっとゴルフが分かってきたのだ。頭は動かさないことと言われるが横に動かさないだけであって、首筋を軸にしてぐるっと回すのである。同時に両肩も背骨を軸として同じようにぐるっと回転する。腰は肩に比べると角度は小さいが、やはりぐるっと回転させる。但し、タイミングは両肩より少し早めにして下半身リードでクラブの通り道を作ってやる。つまり上半身は「斜めのまま」ぐるっと回るのである。「そんなことは常識じゃん!、分かったなんて言うから何かと思ったら初歩の初歩、そんなことだから90を切れないんだよ、バカバカしい!」。皆様のお叱りの大炎上は先刻承知の上ですが、肝心のところはこれからですので安心して下さい。体の動きが出来たら、クラブを振ってみて下さい。その時クラブヘッドは下の方に動いてますか?ほとんどの人がボール位置から上に向かって上がってしまっていると思います。これでは正しいボールコンタクトが出来ません。クラブヘッドは上に上げる動きは一切なく、結果的に上に上がってしまうのです。それが出来たら、初めてスイングが出来たことになります。口で言うのは簡単だが、やって見ると恐ろしく難しい。かくいう私はゴルフ場再デビューを夢見てシャドートレーニングに余念がないが、果たしてもう一度ゴルフが出来るか疑問である。せっかくゴルフスイングの奥義を会得したというのに、実戦で試すことが出来ないなんてあり得ないと思いませんか?信じるものは裏切られる、何てことにならないように、お願いしますよ!神様仏様!
(5)国家の話 : 国の主体は誰か。
NHKの番組でスイス銀行の口座情報を盗み出した男の話を見て思いついた。日本は誰のものなのか?
盗まれた情報は、口座の持ち主の名前・住所・メールアドレス・それに全取引の記録。盗んだ男は、それを国税局に持ち込んだ。脱税が明らかになって数億ユーロが取り立てられたが、これは別の意味で大問題になった。つまり、脱税で検挙されたのはほんの数名しかいなかったのだ。あとは申告漏れ・延滞税などで納められ、罪に問われる事はなかった、なぜだろう。国税局は取るべきものを取ったのだから良いじゃないかという。すったもんだしていると、アメリカが乗り込んできて、銀行に自国民のデータを全てオープンにせよと強硬に主張した。さすがはアメリカである、世界最大の消費市場をバックに銀行団の隠匿体質に風穴を開けたのである。何もアメリカが正義のヒーローだと言うつもりは毛頭ない、ただスイスに代表されるヨーロッパの銀行団とはアメリカの利益が相反していたに過ぎない。アメリカは伝統的に、ヨーロッパよりも連邦政府の力が強いのである。実はヨーロッパの銀行は顧客にヨーロッパ上層部の大金持ちを持っており、政府の上の方と繋がっていて、伝統的にヨーロッパ全土にまたがる支配層を形作っているわけだ。ヨーロッパはハプスブルク家の支配からそれ程変わってはいないということか。
で、最初の質問に戻るが、日本は誰のものなのか?
資本主義の論理から言えば、市場を持つものが全てを手にする。日本の市場は世界基準から見れば特殊である。だから数々の日本独特の規制もかかっていて、外国企業の進入を防いできた。日本は中小企業で持っている国と言われてるが、徐々に大企業に席巻されて世界基準に近づいて来ている。TPPの成立で1番変わるのは、規制が取っ払われてグローバル市場になることである。もちろん日本人の性向はそう簡単には変わらないだろうが、これも時間の問題かなとも思う。結局、日本の企業が強くなるのではなく、日本の市場が強くなることで日本が強くなるのではないだろうか。
企業は国家に縛られずにグローバルに活動する。日本の企業だからと言って社長が日本人とは限らないし、株式を持っている大株主が日本人とは限らない。日本の企業が活躍しても、日本にお金が入るとは限らない。日本人である事が何のアドバンテージにもならないのだ。日本企業が強くなって世界にどんどん出て行っても、日本がシャッター通りのように空洞化してしまうこともある。
日本が、そこに住んでいる人々の国として活気あふれる社会のまま生き残るためには、何よりも「市場としての日本」を活性化するしかない。首相は一億総活躍だとかなんとか言っているようだが、売ることではなく買う事を伸ばさなければだめである。その視点から今一度、経済活動を見直す必要があるのではないだろうか。日本発のジェット機が飛んだだけでは日本の市場は活性化しないし、給料が上がっただけでは日本の市場は活性化するわけではない。「市場」そのものを活性化するにはどうするか、それは「価値」を生む事しか無い。本当に価値あるものを創造した時、市場は動き出す。私はそう思う。
取り留めの無い話になったが、いま私の考えている事はここまでである。これは本当に難しい問題なので、また考えついたら続きを書こうと思っています。
(PS)今週は趣向を変えてみた。お気に召すかどうか、まずはご覧あれ。
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