明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

ランダムな居酒屋談義、どうせ雑談なのよ(その3)臓器移植と記憶の関係

2020-10-08 17:25:29 | 今日の話題
実は「自分は誰なのか?」という質問に正確に答える事は非常に難しい。この質問に答えるには、記憶というものが密接に関係しているからだ。自分が誰なのかを答えるためには、生まれる前のことを思い出す必要があるのである。だが、生まれる前の記憶は、誰も持っていない。つまり誰しもが「全く新しい人間」として、ゼロから生まれてくるわけである。人間は「誰でもない状態」で生まれてくるのだ。だが人それぞれに「生まれついての個性の違い」があるのも事実である。とすれば生まれる前の自分、つまり「前世」というのがあるのかないのか?、という話になってくる。

仏教では輪廻転生と言って、人間は死後「六道」を彷徨いながら地獄・餓鬼・畜生といった数々の辛酸を舐めて、運が良ければ「再び」人間に生まれ変わることが出来るといわれている。その説明をそのまま信じれば、人間の数が70億にも増えてしまった事と数多くの生き物が絶滅した事はリンクしているわけだ。そうでなければ、「魂の数」が昔より増えていることがどうにも説明つかないではないか。

勿論、絶滅した生き物の方が絶対数は断然多く、その勘定から言えば「あの世に滞留している魂の数」たるや、まさに天文学的数字に膨れ上がっている事は必定である。もしかして地獄もこの調子では「多過ぎて入り切らなくなっている」かも知れない。そうなると閻魔大王も難儀だから、考えるのが嫌になってバッタとかミジンコとかプランクトンとかの大量発生で「誤魔化す」事態も考えられるというわけだ。彼らは数百万のオーダーで大量発生するから、少々「高等生物」が大量死したからと言って即、地獄界や餓鬼界が満杯になるなんて事はないだろう(何を安心しているのかな?)。

でも、ある意味自分が地獄に落ちる代わりにプランクトンになって、クジラの餌になるってのも、これはこれで辛い物があるって思いませんか?。だってプランクトンになってクジラに食べられたとして、また生まれ変わって同じプランクトンになる事だって「十分有り得る」わけだから。実はプランクトンの中には「俺、もう10回以上もプランクトンだし」っていうような、惨めな現実から「浮き上がるチャンスさえ与えられない奴」だって一杯いるかも知れないのである。死んでプランクトンに落ちる位なら、私は人間のまま地獄に行く方がよっぽどマシだと思うけどねぇ。

まあ、仏教の六道輪廻の話は横に置いといて、実はアメリカの方の話に「内臓器官を移植した人の記憶」の逸話が残っていて、それを大真面目に研究している研究機関があるそうである。例えば心臓を移植した人が「ある場所」に行った時、何故だか分からないが「前に来たような気がしてしょうがない」ということがあった。このような例はアメリカ全土にいくつもあって、その人は全くその場所に行ったことがないのに「鮮明に記憶が蘇ってくる」そうだ。不思議と言えば不思議である。ところが調べてみると、その心臓を移植してくれた人が「その場所に何か思い出」があり、その記憶が心臓を介して「移植された方の人」に移ったらしいのだ。勿論、証明はできない。しかし、そのように考えなければ「説明がつかない」のも確かなのだ。これは本当だろうか?

記憶は遺伝する。これは確かである。例えばハトは「二重丸の絵」を見せると一斉に逃げ出すという。これは鷹や猛禽類の目が記憶に残っていて、二重丸を見ると「本能的に逃げ出す」のだと言われている(本当かどうかは、あなた次第だ、なんちゃって)。これは一度も鷹に襲われたことがないハトでも、本能の中に「二重丸は危険だ」という回路がなければ、説明がつかないのではないだろうか。多分、卵生にしろ胎生にしろ何百年という長い歴史の中で、親の遺伝子の中に徐々に「危険回避の遺伝子」が組み込まれ、生まれてくる子供は「生まれながらにして」、二重丸の絵を見たらピーピーキーキー騒ぐように本能が設計されているのだと思われる。だが考えてみれば、危険は「二重丸」だけではない。

実は生物は皆、世の中の有りとあらゆる物の中に危険を示す兆候を見つけ出しては、それを避けるようにプログラミングされているのである。それらを一つ一つ実際に経験していては、命がいくつあっても足りる訳が無い。だから記憶は遺伝している筈である。勿論、どんな食べ物が美味いかなどという後天的な情報は、それぞれ生活環境の違いによって異なる訳だから、遺伝として継承していっても「役に立つ」とは限らない。むしろ何が「毒」かというような「生きて行くのに必須の情報」の方が、遺伝情報に確実に残って子供に伝えられて行くのではないだろうか。これは腐ったものや毒性のあるものを何かを口に含んだ時の「本能的に感じる嫌な味」がそれである。こういう身体レベルで教えてくれる危険信号は、脳の記憶ではカバーし切れない遺伝子の記憶なのだ。

これは人間のように、頭脳が発達して「記憶と思考」を持つように至った生物にとっても、その身体的反応の仕組みは「同じ」だと思う。例えば日本人が、どこか初めて行った場所の景色を見て「じわーっと懐かしさを感じる」時の身体的活動というのは、個人個人の体験を超えた「何か途轍もなく古い記憶を掘り起こす」ようなロジックが働いているとも言えるのではないだろうか。

以上の話は「遺伝子レベル」の話だ。それに対してアメリカの臓器移植の話は、遺伝子ではなく「生きている臓器そのもの」の話である。脳を移植するというのは、インドなんかでは実験されているとニュースでも見た記憶があるが、勿論まだ全然「可能性すらない」架空の話である。ただ、心臓や肝臓などと言った「脳と腸以外」の臓器については、実際に移植は日常的に行われていて、術後生存率だって「そこそこ」あるらしい。壊れたパーツを交換するように臓器移植するなんて、人間の知恵というのはどこまで発達するか、末恐ろしい感じもする。

さてここからが本題だが、では記憶というのは「どこまで臓器に残って移植される物なのか?」である。例えば心臓移植を受けた男性が、ある日ジョギングしていると「さして美人でもないありふれた女性」に出会って、その彼女が気になって気になって仕方が無くなってしまったとしよう。その女性にすっかり心を奪われた男性は「もしかして」と思い、八方手を尽くして「とうとう臓器提供者」を突き止めたとする。そしたら何と、その人は「ジョギング中に出会った女性」の婚約者で、数ヶ月前に交通事故で亡くなったばかりの人だったのである!。

まるで映画の中の出来事みたいだが、その亡くなった人の記憶が「臓器に残っていた」と考えるしかない程、その女性は全く男性の好みのタイプではなかったそうだ。この男性は、このことを相手の女性には言わずに黙ったまま、時々ジョギングの時に見かける程度で「そっと心にしまっておいた」ようである。なんとも「心温まる素敵な話」ではないか。

心臓だから「ドキドキ」したのか、腎臓だったらどうなのか。まだ詳しいことは皆目分かってはいないようだが、本人にとっては「いらない記憶」というのも有りそうである。仮に殺人犯の人の臓器を移植されたというような場合、本人は助かったとしても余り気持ちのいいものではないだろう。私は人間の本体は「腸にある」という考えなので、もし腸を移植したら「人間も変わってしまう」ということも、十分有り得ると思っている。言わば人間自体が入れ替わってしまうのだ。そうなれば幾多の先人が夢見た「不死の命」を得ることも、実はそう遠くない未来には可能になるんではないだろうか。自分の本体が「別人と入れ変わってしまう」わけだから、移植される側の人間にとって見れば「迷惑な話」ではあるが。

まあ別に、移植された側の人間に取っては「本人は健康を取り戻す」のだから文句はない筈だが、「腸」を移植されたことで「自分という人間が、他人に乗っ取られ」て死んでしまうのだから、穏やかではいられない。周りは手術が成功して「良かった良かった」と喜んでいるが、生き延びたのは「実は他人」だったりするのである。自分の「脳が記憶している内容」は確かに移植される前の人間のものなのだが、「腸」を移植することで「他人のもの」になってしまうのだ。これじゃ果たして生き延びたのか、難しい問題である。

人間というか生命全般に言えることだが、我々は記憶や意識を総括して「自己」と言っているが、こういう外側の「入れ物」に対して、入っている「中身」が本当の自分なのだ、とする考え方がある。これを古来より「魂」と言って来たわけだが、魂にも「重さ」があり、それは「21g」だという実験結果があるそうだ(1907年米国)。この話に置き換えると、突き詰めれば「腸」の中に21gの魂が入っている、と言えそうだ。

つまり人間の記憶というものは表面的なもので、全然「その人の本体(魂とでも言おうか)とは無関係だ」ということか。個体の主体性を考えれば、脳の記憶より「臓器の記憶」のほうが、より本質的な気がする。つまり臓器移植は大なり小なり「別人の記憶を取り込む行為」だとも言えるわけだ。

よく前世の記憶などと「おどろおどろしい話」を口にする人がいるが、例えば「前世がカエルだ」という人がいたとすると、それはカエルの記憶が人間に残っているということではなく、本体=魂が「前世はカエルという入れ物に入っていた」という意味である。アメリカの「魂は21g説」では動物には魂が無かったそうだから、前世がカエルだったなんて有り得ない話だが、日本では説得力のある「よくある話」である。だって日本では、「一寸の虫にも五分の魂」って言うじゃないですか(無茶苦茶な論理だ)。

まあ冗談はさておき、やはり人間の「身体的記憶」と「魂」は、完全に別物なのである。魂は「記憶しない」。永遠不変の「生命エネルギー」そのものなのである。記憶は外側の「身体の方」にあって、臓器移植で移動したり、遺伝子に組み込まれて「種の中で保存」されたりしている一方、魂の方は体の中心にいて「全体を統率する王者」として振る舞っている。

要するに個体としての生物は、生きてる間中「記憶を積み重ね」ていて、その後天的記憶の一部は「遺伝子レベル」で遺伝していくが、生命エネルギーは殻を脱ぎ捨てるように不要になった肉体を捨て、新たな肉体を求めて「遺伝子に宿る」のである。我々が考える自分というのは、この物質的生物身体的なレベルでの記憶である。この記憶をコントロールして初めて、「自分が誰なのか」に対する答えが見つかるという訳だ。気の遠くなる位「長い長い時間」の話である。勿論、種として大事なことは遺伝子の中に残っていて、何か必要な時には「必ず出てくる」と私は思う。そういう意味では、「二重丸」はハトの体内に遺伝子記憶として保存され、カエルはカエルでピョンピョン飛び跳ねるけど「二重丸を見せても何とも思わない」という違いが生まれてくる。記憶は、種を越えて移動はしないのだ。そこが魂と違う点であろう。

では、種の中で保存される記憶の中に「自分がいる」のだろうか?。つまり我々が日常感じている記憶とは「医学的な信号の一時的な繋がり」に過ぎないとしても、遺伝子レベルでは確実に記憶を持ち、子孫へと伝えていくのではないか?

答えが出たようだ。「自分は誰なのか」という問いに対しては、日本人である私は人類(ホモサピエンス)の中の「モンゴル系アジア人種」である、というのが正解である。それ以上でも以下でもない。ちなみに「魂」というは「生命エネルギー」であるから、例えて言うなら「乾電池」みたいなもんである。懐中電灯に入れれば電気がつき、ラジオに入れれば音が出る。もう少し色気のある言い方が出来ないものかと思うが、真実は曲げられない。この乾電池のような「魂」という生命エネルギーが、個別の記憶という「電球」に明かりを点けるという仕組みが「生物」なのだ。地球の生命の豊穣な世界と言ったって、実体は味気ないもんである。

私は出来たら平安貴族の恋の葛藤なぞ、「遺伝子レベルでも構わないから」残っていてくれたら楽しいのにと思うのだが、所詮は電池が切れるまでの条件反射に過ぎない。愛だの恋だの言っても本質は、バーチャルな架空の出来事でしかないのである。目的はより環境に適合して、より多く「繁殖するだけ」である。身も蓋もないねぇ・・・。

話は変わるが、浮気とか不倫とかのルールは、自分の子孫だけを残したいという「女が考えたこと」ではないだろうか。男はそれほど種の保存に関与しているわけではなく、むしろ「使い捨て」に近いというのが真相である(カマキリの雄は、生殖行為が終わったら良質のタンパク源として、雌に食べられちゃうそうだ、何と言うこと!)。何れ女性の力が強くなって、社会が「女性中心に回る」ようになった場合、少子化というような自己否定は「逆に」無くなっていって、女が競って自分の遺伝子を残そうとする時代が来るような気がしてならない。今は男社会だから「男のために子供を生むなんて嫌!」とゴネているが、一旦女社会になったら自分の勢力を伸ばすために「子供を産みたくなる」筈である。人類にとって一番重要な作業は「子供を産む」こと以外はないのだから。そうなると将来の日本は、そこら中が女だらけの「女系国家」になったりして、男は生きて行くために「女の顔色を伺って」やっと生活を維持することにもなりかねない。食料を得るのに人間が働く必要はなく、「全自動でロボットがやってくれる時代」がすぐそこに来ているのだから、男女の体力差は「殆ど何の意味もなくなる」ではないか。後は人間関係の上手下手だけである。私は女の方が「生命力がありそう」に思えてならないのだ。日本も少子化がこのまま徹底的に進んでいって、人口が極端に減るような事態に陥った時、男女の主導権争いに「歴史的大逆転が起きる」のではないかと想像している(ちょっと怖い)。

そうなった日にはもう、不倫するなんてことは「自殺行為」でしかない(ああ・・・)。男の天下も、あと20年といったところかも。

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