《落日菴執事の記》 会津八一の学芸の世界へ

和歌・書・東洋美術史研究と多方面に活躍した学藝人・ 会津八一(1881-1956)に関する情報等を発信。

亀井忠雄氏の訃報、筧鉱一先生の思い出

2023年06月09日 | 日記
さる6月3日に、葛野流大鼓方の亀井忠雄氏が急逝された。言わずと知れた大鼓の名人であり、お父上である亀井俊雄氏と共にいわゆる人間国宝に認定されていた。深いコミと、重厚な芸風を知らぬ能楽ファンはいまい。

私は舞台でそのアグレッシブな芸に接するのみで、謦咳に触れたことはなかったが、かつて筧鉱一先生が頻繁に亀井父子の話をしてくださったことを思い出す。

筧鉱一先生は、名古屋中村区は米野に生涯を通じてお住まいだった大倉流大鼓方の名手である。昭和5年1月5日に生まれ、高校卒業後、名古屋市役所に奉職しつつ、大倉流に入門。永田虎之助、山本敬一郎、葛野流亀井俊雄に師事した。
平成25年8月に泉下の人となられたが、いまも忘れ難い名人である。ちなみに兄の筧三男氏は、藤田流笛方であられた。

初めて声をかけていただいたのは、いつだったか…

遠い記憶を辿れば、たしか名古屋能楽堂で観世流の『熊野』を観た帰り道である。能楽堂から地下鉄の駅に戻ろうとする学生服姿の私の後ろから不意に声をかけられた。

『君はT先生の教え子か?』

振り返ると、舞台上の大鼓の奏者がそこにおられた。簡単な挨拶をした私に、筧先生は懇切な言葉をかけてくださり、『わしは米野に住んどる、いつでも遊びに来てちよ、若い人と話すのが好きだもんで』と、雅やかな名古屋ことばで話されるのであった。

今でも思うのであるが、筧先生ほど洗練された名古屋ことばを話される人はいない。謡だけではなく、日常の会話のお声さえも、本当に玉のように美しい人であられた。

その後、親しく御宅にお邪魔するようになった。米野の旧家で、桃山時代の古い鼓や手付けを拝見したことは忘れ難い。

会話の途中、ふと先生が私に『君はお父さんは元気なの?』と尋ねられたことがあった。

存命であることを伝えると、『それは羨ましい、わしは十代の時に親父が死んでまったもんで、酒を酌み交わせなんだ。あんたは幸せもんだなあ。親父は戦後すぐに死んでまったもんで。医者にもかかれんで、ほんとうに気の毒だったんだ。あんたは幸せもんだ…』とお父上の死をまるで昨日のやうに話されるのだった。

そしてよく話してくださったのは、亀井俊雄、忠雄父子との関わりである。

修行時代の昭和31年9月、水道橋能楽堂で催された川崎九淵の引退能に、筧先生が名古屋から出かけたことがあった。能会の後、土地勘のない東京で宿を探していた筧青年を亀井俊雄氏が自邸に泊めてさしあげたのだという。

『俊雄先生、ターちゃん(忠雄氏)とわしで3人で川の字で寝たんだ。これがわしは忘れられんの』と、嬉々として語っておられた先生の笑顔を忘れることができない。それほど筧鉱一先生にとって、亀井父子は大きな存在だったのだろう。

ある時、若い私はこんな稚拙な質問を筧先生に投げかけた。

『今ご存命の大鼓方で最も優れた方はどなたでしょうか。』

筧先生はしばらく黙ってお答えにならなかった。そしておもむろにこうお話しになった。

『もちろん、第一人者は亀井忠雄。コミが深いのは日本一。大鼓はコミが深くないと…河村総一郎先生もうまいし、河村真之介さんもうまい。ただ全体の気品という点では、高安流の柿原崇志さんがいちばん良いと思う。』

亀井父子を深く尊敬しながら、芸風としてはシテを引き立て気品を重んじた柿原氏を評価していた筧先生であった。

今年2023年は、筧先生没後10年である。お孫さんが大鼓方として舞台に立っておられるのを泉下から見守り、さぞかし喜んでおられるだろう。


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