思い出ばなしとなるのだが。
カヨコとは、祖母だ。
90を過ぎて、老人ホームに併設された病院で亡くなった。老衰、ということだろう。
さかのぼって、私が成人となったころ、実家で二人、過ごしていた日々があった。
祖母は、昔コメと塩以外なんでも扱うお店をやっていたので、朝の6時にはきっちり割烹着をつけた姿で起きてくる。
私と姉が小学校3、4年の時に引っ越した先は中学校の前で、規模を小さくしてお店をつづけた。
部活動などで土日に生徒がお昼にカップ麺やパンを買いに来る。
姉は高校卒業後、家を出て行った。
出ていくという姉に、寂しそうな表情を見せた祖母。
店は、中学校の方針が変わり、中学生は買い食いをしてはいけないということになって、客足はめっきり少なくなった。
もともと父は祖父が亡くなった時から反対していたのだったし、ついに頑固な祖母も折れてお店を閉めることにした。
私もお店番があまり好きじゃなかった。
マイペースで何事もやりたいので、ふいにくる客の相手は苦痛だったのだ。
だから大して手伝いもしなかった。やめてしまうことは勿体ないと思ったけれど、祖母の代わりにやれるかといったら、全く出来ないとも思った。祖母の哀しみを感じつつ、電気代の無駄だという父の言い分を否定できないし、そもそも意見など問われはしないのだった。
姉が出て行き、私が高校3年になると、中学校前から少し離れた場所へ引っ越した。
新築だが、引っ越す前の家とよく似た間取りの家だった。建物の向きも一緒だ。店のスペースが客室兼仏壇の間となっていた。
その家のリビングで、祖母と私は日中過ごすことになった。
私は高校卒業後、一旦千葉で就職したが、体調を崩して実家へ戻ったところだった。
お店をやめてしまって、することのない祖母は時間を持て余しているように見えた。
夏でも置いてある「こたつ」の天板の下に、メモを入れていて、そっと見ることを繰り返す。
見ると、「コメを研ぐ」と書いてある。
朝ご飯を食べたか、何度も尋ねるようになった、私や母の応えを聞き、やや憤慨することもあり、私や母にあきれ顔をされるのを繰り返したからだ。心配した母が役割を与えたのだ。何かやるようにしないと、と。
心配した私も、祖母のために戦中戦後に流行した歌を収めたテープを買ってきた。祖母が歌が好きだと知ったから。
ほかにもいろいろと昔の話を聞きだした。
学校の友達のこと、語尾に「ね」をつける地学の先生の話、「ちよこ」という泣き虫の妹のこと、背の高い「いちじょう」というあだ名の兄、カヨコを特に可愛がった愛情たっぷりの父親「きんたろう」の話。
「いちじょう」がなぜか早稲田大学の校歌をそらで覚えていつも歌っていたこと、歌の帳面を持っていて、兄の不在の時にこっそり書き写していたこと。魚が嫌いで「はぁ(もう)腐った」と捨ててしまう母親「なつ」の話。
私はそういった話を聞けて楽しかった。戦中戦後の歌は、祖母が知っている歌もあったし、知らない歌もあった。
ラジカセから流れる祖母の良く知っている歌が、祖母の心を揺さぶっているようだった。けれど、「これ、どやしたのえ」と何故今これらの曲が聴けるのかを私に問うのみで、朝ご飯を食べたかどうかわからなくなることに変化はなかった。
ほんの少しでも笑ってほしい、明るい気持ちになってほしかった。
昔の話をしている時のほうが、生き生きしているように思えた。
ある時、私は成人式のためにヘアセットと着付けを近所の美容室にお願いした。それである朝、早い時間に家を出ようとすると、祖母は何故出ていくのか、と私を必死で引き留める。「成人式だからさ、着物着つけてもらって、そこの美容室でさ」そう言っても、祖母の中で私は実家が嫌になって出て行ってしまうヤサグレ娘になっているらしい。あ~、なんていったらいいんだ?と泣きそうになったところで美容室の人が遅いと言って迎えに来た。なかなかしんどかった。
朝の光が悪さしたんだろう。
しかし、夕方の茜色の光はもっと強烈だ。
夕方の時刻となると、決まって祖母はそわそわとした。時には「はっ」と思い出したように、私を心配した。「はぁ、こったらな時間だ、帰らねぇど?」と尋ねるのだ。祖母の中では嫁に出したはずの娘が実家に帰ってきている、という状況のようだった。
私って誰?と思わず訊いてしまう。すると、祖母は娘の名を言い、言ってから少し混乱するのだった。
時には何度も立ったり座ったりを繰り返した。不安なのだ。
何かをすべきだった、でも、それがなんだか分からない。そう言っているような。
散歩でもすればいいのかもしれなかった。でも店番をする日々を送ってきた祖母には、それはもっと不安を覚えることなのかもしれなかった。私は昔、先に小学校へ上がった年子の姉が居ないことの寂しさに大泣きして、祖母に手をひかれて、姉がいる小学校へ行ったことを思い出した。目の前の祖母の不安そうな表情を想った。
私が最後に会った祖母は、老人ホームと続きの建物で、ベッドに横たわった姿だった。
そこには以前、祖母が入所して間もないころも訪ねた。その時私たちを連れてきた父は建物内に入ろうとせず、父を見れば祖母は帰ると言って騒ぐからと口をつぐんだものだ。祖母にとって最愛の息子である私たちの父の存在は、朝日や夕日の光を軽く凌駕しているのだった。
私は息子を妊娠中だった。
ベッドの中で、祖母は私を見て、「あ、誰かだ」とその目が光ったけれど、話すことはなかった。
妊婦は葬式には出席してはいけないということだった。だからもう長くないかもと言われ、東京から とこ と一緒に駆けつけた、それが最後となったのだった。
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