yamatoの日々成長 日々感謝。

日々の成長振り、日々の中で感謝を感じることなど
赤裸々な日常を綴ります。

お疲れ様

2006年12月16日 | Weblog
こんばんわ。
今日は紙の記念日です。

久々の更新です。1週間以上も経ってますね。
お元気でしたか。

今日は暗い話になるかもしれません。
ご了承下さい。
つーか、気付いたらめちゃめちゃ長い文章になって
ました。時間が余ってる人だけこの先進んで下さい。


また一人、去年に引き続き大切な人を失ってしまい
ました。
僕の大事な祖父が12月12日に89年の生涯を閉じました。
じーちゃんは9月から入院生活を強いられました。
僕も週に3,4度行ける時はお見舞いに行って励まし
続けてきましたが、力尽き、生涯を閉じました。
ほんとに頑張ってました。治らない病でも前向きに
家族のため、みんなのために頑張ってる姿を
見せてくれました。
僕らそして医者ももうダメかという時でも力を振り絞って
耐えていました。みんなの励ましに応えるように。

12月8日、母から電話が来ました。
「危ない状況だから来た方がいい。」と。
すぐに飛んでいきました。行ってみると前日に見た
じーちゃんとは違っていました。呼びかけても返事を
してくれない。反応がない。
さすがに覚悟しました。同時に悲しさと淋しさと
どうすればいいのかわからない気持ちになりました。
入院中から医者の話などで予想というか覚悟というか
そういうのはしていましたが、いざその時になると…。

母からは離れている兄にはまだ言わなくていい。
下手に心配して混乱するからと。
でも僕は兄に電話しました。一人では抱えきれなかった
から。すぐにでも兄にも来てほしかった。
そして、もしもの時があるのなら、息があるうちに
兄にも会わせたかったからだ。

明らかに呼吸が苦しそうで見ているのも辛かった。
でもこの日は、辛そうな状況だったが体温も血圧も
安定してきた。しかし予断は許せない状況だった。
僕の母親と兄弟たち数人は病院に泊まりこむことに
なった。僕は実家で待機となった。
兄に電話したもんだから、翌9日は兄が帰ってきた。

久々に会うじーちゃんをみた兄は戸惑っていたようだ。
そらそうだ。数ヶ月前は元気で会話もでき、ご飯も
ちゃんと食べれて安心して彼は別れたのだから。
それが今となっちゃ寝たきりで呼吸も荒く、
医者の話も長くはないと言っているんだから。
ずっと見ていた僕までも驚いているのだから久々に
みる彼はもっと驚いていたであろう。

翌10日、状態は変わらず膠着状態がつづく。
危篤の状態ではあるが今今という感じではない。

それを聞きつけた孫たちが遠くから来た。
東京から急いできたり、東京から来て北海道に滞在時間
たったの1時間であるのにわざわざお見舞いの為に
帰省した者もいた。長野から駆けつけた者もいた。
みんなじーちゃんによくされていた連中だ。
僕も含めて僕ら孫は本当に可愛がられていた。
誰一人差別することなく平等に愛情を頂いた。
どんな時も優しくしてくれた。
そんなこともあってみんな居てもたってもいられなく
なったんだろう。たったの1時間しか北海道にいられ
なくても来る価値というか意味があったと思う。
微妙な意識の中、みんな会うことができた。
温もりを肌で感じることができた。
僕にとってもそれが嬉しかった。誰も欠けることなく
みんな会うことができたことを。

この日の夜は状態も落ち着いてきた。しかし危篤には
変わりはないが反応は微かにあるし、体温も血圧も
安定してきた。耳では聞こえているようだ。
みんな多少の安心を持ってそれぞれの職場や地元に
帰っていった。

翌11日、仕事が終わりそうな時間、17:00少し前に
電話が来た。母からだ。
「また状態が悪くなってきた。来れたら来た方が
いい。」
この日もすぐに向かった。
行ってみると、既に個室に移され親族が多数集まって
いた。じーちゃんをみると明らかに前日よりも
様子がおかしい。僕が来る前に医者から説明があった
らしいが、どうやら本当に今日がヤマのようだ。
病院内をウロウロウロウロ…落ち着かなかった。
ほんとうにお別れが近いと感じた。いや、むしろ
頑張ってるじーちゃんを見て、休ましてやりたい
とさえ思うくらい、みんなの励ましに応えるように
呼吸が数秒止まってはみんなの呼びかけで吹き返す
を繰り返していた。呼びかけがなくなるとずっと
止まるかのように。油断もなかった。みんなで
声をかけ続けていた。
夜9時過ぎくらいに、呼吸が安定してきた。
ぐっすり疲れて普通に眠ってるような呼吸になった。

この日も安定はしてきたけど予断を許さないので
母親たちはまた泊り込みになった。

翌12日、父親が静岡から緊急帰省した。朝一の新幹線
に乗り、10時頃の飛行機に乗り昼過ぎに着いたようだ。
僕は仕事に出ていた。朝から病院にいる母親に何度も
メールで「調子はどう?」と聞き続けていた。

昼過ぎになると父親からメールが来た。
「変わりない。眠ってるみたいだ。」
どうやら息があるうちに父も会えたようだ。
僕は安心した。そしてよかったぁと思った。
みんな会えた。じーちゃんは待っていてくれたんだ。
会いにくるのを待っていたんだ。

親族で一番離れている僕の父が面会し、声をかけた。
その約1時間後、ホッとした顔にも見える中、
じーちゃんは息を引き取った。

ほんとにみんなを待っていたんだ。最後にみんなに
会うために頑張っていたんだ。
医者には今日明日中かもと言われて3日も頑張って
会うために待っていたんだ。

知らせを聞いて、僕は17時に職場でてすぐに病院に
向かった。みんな集まっていた。
まだじーちゃんの手は暖かかった。温もりがあった。
だから僕は信じられなかった。また息を吹き返すかと
思った。でも吹き返すことはなかった。
集まっていたみんなももちろん涙で溢れていたが
頑張ったじいちゃんに敬服するかのような、悲しさ
というより充実感でお疲れ様という気持ちの方が
大きかった。
誰からの目にも頑張っていたと思えるもん。
ほんとに親族みんなに会えた。みんなにお別れを
言うために頑張っていたんだとおもう。

孫の中でも僕は地元に残っていたこともあって
多くの時間を過したと思う。
いつも僕を気遣ってくれていた。そして最高に可愛がって
くれた。

旅行が大好きで、お茶が大好きで、せんべいが大好きで
写真が大好きで、読書が大好きで、散歩が大好きで
頭がよくて、記憶力が良くて、食にうるさくて
たいやきが大好きで…僕にとってたった一人の
じーちゃん。

散歩が好きなのもあってまだ入院前は何度かいろんな
所に僕が運転して出かけたもんだ。
写真も好きで、じーちゃんが写っていない僕の友達と
写した写真までほしいと言ってコレクションにしてた
っけ。自分が写ってなくても孫たちの写真のコレクションが
もう何十冊もアルバムがあった。
本も大好きで入院中もわざわざ売店まで行って
何冊も買っては読破していた。
記憶力もすんげぇいいんだよね。いついつ俺が旅行
するってのも覚えてるし、いついつ何があるかってのも
覚えてる。言ってる自分ですら忘れてることをいとも
簡単に教えてくれる。
知識も豊富でいろんなことを教えてくれた。

母方のじーちゃんだが、僕は父方のじーちゃんは僕が
3歳のときに亡くなって顔すらしらない。
だからほんとにたった一人の祖父だった。
去年亡くなったばーちゃんもたった一人のばーちゃん
だった。母方のばーちゃんは母親が幼い頃に若くして
亡くなったみたいで、僕は何も知らない。
だから僕が物心ついた頃にはじーちゃんばーちゃんは
一人づつしかいなかった。
かけがえのない祖父母だった。その祖父母がもう
いなくなった。世代交代ってこういうことを
言うのかな。
こうやって大人になっていくのかな。

未だに不思議な感じがするけども現実はもういない。
小さな箱に入れられて帰ってきた。
あのじーちゃんが箱に入れられて…。これが現実
なんだね。
でもずっと僕のことを見守ってくれてると思う。

実際にはいなくても僕の心の中にはこれからもずっと
いる。心の中にじーちゃんもばーちゃんもいる。
ずっと僕の味方で見守ってくれてると思う。
ほんとにありがとう。お疲れ様って言いたい。
じーちゃんの孫で産まれてきて幸せだ。
これからは僕ら第2世代が親を守らなければならない
歳になったんだと思う。
徐々に受け止めて理解していきたい。忘れない。

こんな弱くて情けない俺だけど見守っててね。
あの世に行っても心配ばかりかけるけどこれからも
宜しくね。



ありがとう。ほんとにありがとう。そしてお疲れ様。