3月11日(木)のこと
「青い鯉のぼりプロジェクト」と「伊藤健人君」の事は、応援している
「サムライアパートメント」を通して知りました。
健人君は当時東松島市在住の高校生で、震災の津波でおじいちゃん、お
ばあちゃん、おかあさん、弟の律君(当時5才)と、家族4人を亡くして
しまいました。津波にのみこまれた自宅から、弟の律君が好きだった青
い鯉のぼりが見つかったそうです。それから5月5日の「こどもの日」と
3月11日の「震災の日」に、太鼓の仲間と共に青い鯉のぼりを掲げ、演
奏をするようになりました。律君や天国の子どもたちに届けという思い
を込めて…。
数年前のこどもの日。私も「青い鯉のぼりの下に腰を下ろす会」に行って
みました。全国から送られたたくさんの青い鯉のぼりが、風にはためいて
いました。様々な思いをかかえているであろう人たちが大勢集まり、青い
鯉のぼりの下でお弁当を食べながら、健人君たちの演奏を聞いていました。
悲しさと温かさが入り混じった時間でした。
その時、東松島市の市役所に勤務し司会も務めていた健人君は、しっかり
したアクティブな若者に見えましたが、彼はずっと後悔の思いをかかえて
生きていたようです。その日、当時の友人たちとバンドの練習をするため
に仙台にいた健人君。もしあの時、自分が傍にいたら家族を救えたのでは
ないかという思いからずっと抜け出す事ができずにいたのです。
健人君の発するSNSやMCでその思いを知った時、私は「それでもお母さん
は、生き残ってくれた健人君を空から見守りながら『私たちの分まで精一
杯生きて、人生を楽しんで』と願っているのではないかなぁ…とずっと思っ
ていました。
ですが、10年の時を経て、半分停まっていた健人君の時計は、昨日、再び
動き始めたようです。今朝の健人君のSNSです。
一緒に歩めるたくさんの仲間たちがいてよかったね。前に進むことは忘れること
ではないし、健人君と共にご家族も生きていると思うから、これからの自分の人
生をさらに充実させていってね。健人君がこれからみんなと一緒に風を興してい
くことを、空の上のみなさんも楽しみにしているだろうと思います。
「青い鯉のぼりプロジェクト」と「伊藤健人君」の事は、応援している
「サムライアパートメント」を通して知りました。
健人君は当時東松島市在住の高校生で、震災の津波でおじいちゃん、お
ばあちゃん、おかあさん、弟の律君(当時5才)と、家族4人を亡くして
しまいました。津波にのみこまれた自宅から、弟の律君が好きだった青
い鯉のぼりが見つかったそうです。それから5月5日の「こどもの日」と
3月11日の「震災の日」に、太鼓の仲間と共に青い鯉のぼりを掲げ、演
奏をするようになりました。律君や天国の子どもたちに届けという思い
を込めて…。
数年前のこどもの日。私も「青い鯉のぼりの下に腰を下ろす会」に行って
みました。全国から送られたたくさんの青い鯉のぼりが、風にはためいて
いました。様々な思いをかかえているであろう人たちが大勢集まり、青い
鯉のぼりの下でお弁当を食べながら、健人君たちの演奏を聞いていました。
悲しさと温かさが入り混じった時間でした。
その時、東松島市の市役所に勤務し司会も務めていた健人君は、しっかり
したアクティブな若者に見えましたが、彼はずっと後悔の思いをかかえて
生きていたようです。その日、当時の友人たちとバンドの練習をするため
に仙台にいた健人君。もしあの時、自分が傍にいたら家族を救えたのでは
ないかという思いからずっと抜け出す事ができずにいたのです。
健人君の発するSNSやMCでその思いを知った時、私は「それでもお母さん
は、生き残ってくれた健人君を空から見守りながら『私たちの分まで精一
杯生きて、人生を楽しんで』と願っているのではないかなぁ…とずっと思っ
ていました。
ですが、10年の時を経て、半分停まっていた健人君の時計は、昨日、再び
動き始めたようです。今朝の健人君のSNSです。
一緒に歩めるたくさんの仲間たちがいてよかったね。前に進むことは忘れること
ではないし、健人君と共にご家族も生きていると思うから、これからの自分の人
生をさらに充実させていってね。健人君がこれからみんなと一緒に風を興してい
くことを、空の上のみなさんも楽しみにしているだろうと思います。