昨日
12年目の3.11
私は東松島市の大曲浜にある
玉造神社に行ってきました。
青い鯉のぼりの掲揚作業があったからです。
ここ数年
5月5日の「こどもの日」には
東松島に足を運ばせて貰っていたのですが
3月11日に行ったのは初めてでした。
その日ずっと
何らかの仕事をしていたからです。
(14時46分には職場で黙祷をしていました。)
今年は土曜日。
休日という事もあり
もう1つの大事な用事である「森を歩く会」と
どっちにするか最後まで迷いながら
結局「山」ではなく「海」に向かいました。
私が着いた時には
既に青い鯉のぼりたちが細いロープに繋がり
青空を泳ごうとしていました。
思ったよりたくさんの人たちが集まっていて
知っている人たちも何人かいました。
その中に
「有り、触れた、未来」の
山本監督もおられたのには
驚きました。
どうしてかと言うと
10日から全国上映が始まったので
東京に戻り舞台挨拶をされていたからです。
とんぼ帰りのように宮城にいらしたのは
女優の桜庭ななみさんや
アンチェインイレブンの皆さんが
寄せ書きをして作った
「有り触れた未来、鯉のぼり」を
監督自ら
届けに来てくださったからとの事でした。
新しい鯉のぼりは
伊藤健人くんをはじめ
みんなの手でしっかり受け取られ
他の鯉のぼりたちと一緒に
無事に掲揚されました。
15時40分には鎮魂の慰霊祭が行われ
14時46分と16時10分には
太鼓の演奏が行われました。
空の上の人たちにも
届くように、と。
12年目の3.11を東松島で迎え
私が初めて実感したことがあります。
それは
「地震が来た14時46分」と
「津波が来た15時30分ごろ」の間には
思ったより長い時間があったという事です。
多くの人たちは
未曽有の大きな地震に驚きながらも
自分ひとりが逃げるのではなく
学校に子どもを迎えに行ったり
職場から家に
おじいちゃんやおばあちゃんを
連れ出しに行ったり
大事な人を守ろうとして行動し
その途中で
津波にのまれてしまったのでは
ないでしょうか。
海風に吹かれながら
次の太鼓の演奏を待っている間
亡くなった人たちの
驚きや無念さや悲しみが
伝わってくるような気がして
胸が痛かったです。
本当に
もっともっと
生きたかっただろうな…。
そして
13回忌と言われる12年が過ぎても
ご家族や友人や大切な人を亡くした人たちの
悲しみは
癒える事がないのだなぁとも思いました。
もしかしたら、これからもずっと。
でもそれなのに
力強く太鼓を打つ健人君
「あおい地区」をまとめておられる小野さん
大曲のお母さんたちからも
私たちの方が
優しさや励ましを貰って帰ってきてしまいました。
本当に何もできなくて
ごめんなさい。
でも1つだけ
私は思う事があります。
それは
健人君のお母さんをはじめ
空の上の人たちはみんな
「忘れないでね」
「でも私たちの分もいっぱい生きてね」
って言っているんじゃないかなって。
癒えない深い悲しみを抱えながらも
それでも
うんと幸せになってほしいと
海辺の被災地の皆さんへ
私は思っています。