以下内容にネタバレあり。無いつもりで書くがあるかもしれない。今回の記述は自身のメモとして。思ったことを考察、推敲もなくつらつらと。
プロモーションと実際の作品とのドラマティックさの差が出る。もともと「風立ちぬ」はその大半が飛行機開発に関わる「仕事」の話で、見た目分かりやすいドラマティックなシーンが少ない。ところどころにあるその分かりやすいドラマティックさをつぎ込んだのが4分に渡る予告映像である。故に予告映像の感じで上映に臨むと軽く肩透かしを喰らう感じがする。修正に若干の時間を要するのだ。冒頭の幼少期がまさにその修正タイムなのであろうと思った。
仕事がしたくなる。
「仕事」と「私」の両立。ニートや仕事に不満を持っている人間では得られないであろう「生きている」感覚。しかしそんな主人公でさえ「生きねば」と再認識、決意をする。わたし達はどうなのであろう。
産み出す感覚というのは仕事をしたことがある人間ならば誰しもが一度は経験するであろう。というか産み出さない仕事はないはず。…恐らく。産み出し方に如何に心血を注ぐか、心掛け次第でいくらでも仕事は楽しくなるであろう。
現代の私たちは本当に生きているのであろうか。仕事を成すためには夢と学生時代、そして社会人になってからの努力が不可欠である。その土壌があっての+αの環境。そして仕事と同等に余暇の取り方も大切である。
また、仕事として特筆すべきは上司である「黒川」の存在。上司も部下と出会い成長し上司たる人間となっている。奇しくも敵となる上司を「クソ上司」と銘打つ今クールの「半澤直樹」と対照的で面白い。
映画レビューを見ていると「天空の城ラピュタ」みたいな作品が見たいという声が。それならば「天空の城ラピュタ」を見れば良いだけの話。
ラピュタは見た目分かりやすいドラマ、ボーイミーツガール、大団円。しかし「風立ちぬ」もパズーやシータが感じた鼓動と同等の鼓動を主人公たちは感じている。環境が異なるだけであり、情緒の揺れ動きは等しいのではないか。
そう考えるとラピュタがハリウッド的で風立ちぬはフランス映画的となるのか。
映画レビューを見ていると「分かりづらい」との声が。恐らく時間経過と夢か現実化の場所経過が分かりづらいと思われる。確かに繋ぎ目の説明、描写を一切していないので突如2年後になった―しかも一言の台詞のみで―ことに驚きを隠せないのは無理もないかもしれない。
しかしこの演出が、主人公の感性が一貫していることを表現しているなと思った。そもそも全てが明白になる作品よりも、一瞬でも後から「あぁ、こうなのか」と思える作品の方が、能動的観点で見ることが出来て良いと思う。
想像力を働かせる意味でも、観客が作品の流れと同タイムで追えないくらいの不親切で丁度良いのではないか。
庵野さんの声もプロモーションが先行し過ぎていて勿体無い。普段の何気ないつぶやきの台詞にこそ庵野さんの良さが見える。普段我々が使う「声」も今作品くらいの抑揚、声量である。
予告映像3回見て3回とも泣いたわたしが、スクリーンを前にして泣いたのが「空中分解した機体を前にして佇む主人公」と「黒川夫妻を仲人に夫婦となる堀越夫妻」。前者は創作したことのある人間であるなら分かるであろう。後者も配偶者が欲しいと思った人間であるなら分かるであろう。
主人公堀越と菜緒子との関係は昭和的。しかし仕事、それを見守るという関係性を惰性でするのではなく、率先して行う二人の姿は、一つの理想系なのではないだろうか。古い体制、文化を毛嫌う人もいるが、それぞれがそれぞれの役割を理解し、楽しんで、なによりもそう生きようとしてお互いのためになろうと思い実践すれば、古いシステム、概念もそう悪くはないのではないのかなと。
地震の描写、機体分解の描写、感嘆。
「風の谷のナウシカ」+「紅の豚」+史実÷3 の配分であろうか。
しかし、予告編は何度見ても凄い
http://www.youtube.com/watch?v=-Q6pStcvr4U
というかユーミンが凄いのか。そして4分を繋ぐ己のモンタージュに、その己がやられているのだ。
プロモーションと実際の作品とのドラマティックさの差が出る。もともと「風立ちぬ」はその大半が飛行機開発に関わる「仕事」の話で、見た目分かりやすいドラマティックなシーンが少ない。ところどころにあるその分かりやすいドラマティックさをつぎ込んだのが4分に渡る予告映像である。故に予告映像の感じで上映に臨むと軽く肩透かしを喰らう感じがする。修正に若干の時間を要するのだ。冒頭の幼少期がまさにその修正タイムなのであろうと思った。
仕事がしたくなる。
「仕事」と「私」の両立。ニートや仕事に不満を持っている人間では得られないであろう「生きている」感覚。しかしそんな主人公でさえ「生きねば」と再認識、決意をする。わたし達はどうなのであろう。
産み出す感覚というのは仕事をしたことがある人間ならば誰しもが一度は経験するであろう。というか産み出さない仕事はないはず。…恐らく。産み出し方に如何に心血を注ぐか、心掛け次第でいくらでも仕事は楽しくなるであろう。
現代の私たちは本当に生きているのであろうか。仕事を成すためには夢と学生時代、そして社会人になってからの努力が不可欠である。その土壌があっての+αの環境。そして仕事と同等に余暇の取り方も大切である。
また、仕事として特筆すべきは上司である「黒川」の存在。上司も部下と出会い成長し上司たる人間となっている。奇しくも敵となる上司を「クソ上司」と銘打つ今クールの「半澤直樹」と対照的で面白い。
映画レビューを見ていると「天空の城ラピュタ」みたいな作品が見たいという声が。それならば「天空の城ラピュタ」を見れば良いだけの話。
ラピュタは見た目分かりやすいドラマ、ボーイミーツガール、大団円。しかし「風立ちぬ」もパズーやシータが感じた鼓動と同等の鼓動を主人公たちは感じている。環境が異なるだけであり、情緒の揺れ動きは等しいのではないか。
そう考えるとラピュタがハリウッド的で風立ちぬはフランス映画的となるのか。
映画レビューを見ていると「分かりづらい」との声が。恐らく時間経過と夢か現実化の場所経過が分かりづらいと思われる。確かに繋ぎ目の説明、描写を一切していないので突如2年後になった―しかも一言の台詞のみで―ことに驚きを隠せないのは無理もないかもしれない。
しかしこの演出が、主人公の感性が一貫していることを表現しているなと思った。そもそも全てが明白になる作品よりも、一瞬でも後から「あぁ、こうなのか」と思える作品の方が、能動的観点で見ることが出来て良いと思う。
想像力を働かせる意味でも、観客が作品の流れと同タイムで追えないくらいの不親切で丁度良いのではないか。
庵野さんの声もプロモーションが先行し過ぎていて勿体無い。普段の何気ないつぶやきの台詞にこそ庵野さんの良さが見える。普段我々が使う「声」も今作品くらいの抑揚、声量である。
予告映像3回見て3回とも泣いたわたしが、スクリーンを前にして泣いたのが「空中分解した機体を前にして佇む主人公」と「黒川夫妻を仲人に夫婦となる堀越夫妻」。前者は創作したことのある人間であるなら分かるであろう。後者も配偶者が欲しいと思った人間であるなら分かるであろう。
主人公堀越と菜緒子との関係は昭和的。しかし仕事、それを見守るという関係性を惰性でするのではなく、率先して行う二人の姿は、一つの理想系なのではないだろうか。古い体制、文化を毛嫌う人もいるが、それぞれがそれぞれの役割を理解し、楽しんで、なによりもそう生きようとしてお互いのためになろうと思い実践すれば、古いシステム、概念もそう悪くはないのではないのかなと。
地震の描写、機体分解の描写、感嘆。
「風の谷のナウシカ」+「紅の豚」+史実÷3 の配分であろうか。
しかし、予告編は何度見ても凄い
http://www.youtube.com/watch?v=-Q6pStcvr4U
というかユーミンが凄いのか。そして4分を繋ぐ己のモンタージュに、その己がやられているのだ。