宮嶋さんが出演されている「花野」と同時上演の「紙風船」を観に目白のゆうどへ。「紙風船」は大学時代に卒論の研究対象にしていたこともあり、どう扱うか楽しみである。
まず会場に圧倒される。古民家であり、縁側、及び庭面が舞台。そしてギターの生演奏。
日常におけるシーンで日常的な芝居。「花野」は死者が出現するもあくまでも日常を崩さない芝居。生と死の境界線、縁側が見事にその効果を果たす。
つまりはこうだ
外(劇場外) 【現実】
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【限りなく非現実の劇空間】
庭
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↑縁側↑ 【限りなく現実の劇空間】
畳面(客席) 【現実】
現実である客席から見て現実+非現実の世界を覗き、その視線の行き着く先は現実なのである。この空間配置が面白い。そして役者がこの構図をしっかり意識しているのがまた憎らしい。
縦だけではなく、さらに横の構図も考察。
外(劇場外)
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【木】
庭
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【入口】↑縁側↑ 【壁・時計】
【柱】
畳面(客席)
下手 上手
木、柱を中心にすると下手側が入り口、上手側に時計がある。真ん中の柱を目付け柱として考えると、それを境に左右でやはり入り口(現実)と壁・時計(非現実)の空間とに分かれる。つまりこの舞台は
1現実+非現実 | 3非現実+非現実
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2現実+現実 | 4非現実+現実
の四つの空間として切り取ることが出来るのだ。
どのポジションにいるかでその役の状態が手に取るように分かるのだ。ちなみに生演奏で舞台を飾る那須さんは4の位置。音楽という機能としては絶妙なポイント。
そしてこの四つの空間を跨ぐその時、役者はただ歩くのではなく相当の覚悟を持って歩かねばならないのだ。「跨ぐ」「越える」「過ぎる」「渡る」という歩行に意味と価値を見出せねば古民家で芝居をする理由がないのではないか。
物語は何気にない会話。真意を隠し生に対する執着を捨てきれない叔父とそんな叔父になんとなく会いたいと思う女性との対話。ベテランの小林さんのリアルと宮嶋さんの幻想的とが折り合い、先の空間の中で現実に垣間見える神秘性が現出していた。那須さんの音もまた見事。というか那須さんは一日引き続けているのだ。しかも終演後はライブもしているのだ。間違いなく今回の敢闘賞である。
古民家+庭ということで「音」にもこだわっているように見えた。縁側で話すのと庭で話すのとでは声の響きが全く異なる。そこにお二人の動き、声の向く方向を意図的に変え発することで客席にいる我々は一人の役者から発せられる声に無数のパターンを感じるのだ。
当日の環境にも恵まれた。宮嶋さんがはけた瞬間に外を通る宮嶋さんと全く同じ髪型の女性。庭に偶然入ってきた猫、叔父が消えるその刹那に木を凪ぐ風。一枚落ちた葉は枯れかけの黄色。その全てがパーフェクトと言える。
最近考える「空間+芝居」の有り様、その可能性を見出す。
「紙風船」は作品と上演する時代とを考えた時、どちらにウェイトを置くのか、そこが見えなかったのが残念だ。妻のぼやきは「ツンデレ」にあらず、夫の想像活動(映画)は単なるご機嫌取りにあらず。そしてあの四つの空間を意識すれば、物語の展開における役者の位置にも工夫が取れるはずであろう。
高さのある天井。
外から中を見た図。
しかし面白い場所を見つけたものだ。
その後目白氷川神社の祭りへ。
久しぶりに楽しい観劇であった。