・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・春草廬(しゅんそうろ)
江戸時代、河村瑞賢(かわむらずいけん1618~1699)が摂津淀川改修工事の際に建てた休憩所で、
その後大阪へ、さらに横浜の三渓園に移され、
昭和12年(1937)に埼玉県所沢市にある松永安左エ門(耳庵・1875~1971)の柳瀬荘内に移築されました。
昭和23年に柳瀬荘が当館に寄贈され、昭和34年に春草廬は現在の位置に移されました。
入母屋(いりもや)の妻に掲げられた「春草廬」の扁額は、
能書家として知られる曼殊院良尚法親王(1622~1693)の筆で、
三渓が耳庵に贈ったものです。
木造平屋建て、入母屋造り茅葺、座敷は五畳と三畳からなります。
<国立博物館HPより>
・五重塔
高さ570センチメートルの銅製の塔。最上部の相輪には龍が絡み付き、
垂木(たるき)、斗拱(ときょう)の組み物の細部まで入念に作られています。
基壇に第五代将軍徳川綱吉(1646~1709)が法隆寺に奉納した旨の銘文
「大和国法隆寺元禄元年十二月日常憲院徳川綱吉」が線刻されています。
江戸時代、河村瑞賢(かわむらずいけん1618~1699)が摂津淀川改修工事の際に建てた休憩所で、
その後大阪へ、さらに横浜の三渓園に移され、
昭和12年(1937)に埼玉県所沢市にある松永安左エ門(耳庵・1875~1971)の柳瀬荘内に移築されました。
昭和23年に柳瀬荘が当館に寄贈され、昭和34年に春草廬は現在の位置に移されました。
入母屋(いりもや)の妻に掲げられた「春草廬」の扁額は、
能書家として知られる曼殊院良尚法親王(1622~1693)の筆で、
三渓が耳庵に贈ったものです。
木造平屋建て、入母屋造り茅葺、座敷は五畳と三畳からなります。
<国立博物館HPより>
・五重塔
高さ570センチメートルの銅製の塔。最上部の相輪には龍が絡み付き、
垂木(たるき)、斗拱(ときょう)の組み物の細部まで入念に作られています。
基壇に第五代将軍徳川綱吉(1646~1709)が法隆寺に奉納した旨の銘文
「大和国法隆寺元禄元年十二月日常憲院徳川綱吉」が線刻されています。