ガザ(パレスチナ)へのイスラエルの侵攻で500人以上の人が亡くなっています。
子供、一般人が多く含まれているそうです。
アルジャジーラやBBC,ロイターなどのサイトで、動画も含めてトップニュースで報道されています。
六ヶ所村ラプソディー上映のときに講演していただいた田中優さんが、このことについて発言しています。大事なことだと思うので、一部を転記します。詳しくはご本人のblogを。
●
>>以下田中優さんの発言を転記
「共感する感性とタフな行動力」
共感する勇気
心を落ち着かせて、ゆっくり構え、音楽と向き合う。すると音の重なりの中からその人の感情が届いてくる。『そうか、こう感じたのか』と対話する。書物も同じだ。筆致を追うようにしてリズムを辿りながら言葉を味わう。『あの語ではなく、この言葉を使ったのは、このイメージを避けたかったんだな』と。
音楽を聴いているときに外で大きな音がするとびっくりして、次第に腹立たしく思えてくる。せっかく辿りかけていた気持ちの糸が切れるように思えるからだ。同じ音楽を聴いているのに、先ほどの文脈が辿れない。神経が鋭敏になっているとき、人はきっと奇跡的なほどの感受性を持つ。人の考えていることが分かるというより、共振現象のように同じ想いが湧き上がる。もちろん全く同じではないにせよ、心を無にしていると同じように感じることができる。もししてみたいと思うなら、何も考えず期待せず、ただ自分自身といるときのように隣に座ってみるといい。動物と一緒にいると、その気持ちが伝わってくるのと同じだ。人は共感する生き物だというのがよく分かる。
しかしその一方で思う。人は感性だけで生きていてはいけないのではないかと。ぼくの友人たちの中にも、感性が非常に研ぎ澄まされた人がいる。しかし彼らは多くの悲惨な事態に、耐え切れないほどの苦しみを抱く。ダメージのせいでモノが食べられなくなったり、眠れなくなったりすることは誰でもあるだろう。しかし人によっては仕事に出られなくなったり、生きる意欲を失いかけたりする。おそらくは感性が研ぎ澄まされる場所に長くいすぎたせいなのだろう。だがそれは一方で、日差しの強さに耐えられない陰樹のようでもある。ときには真正面から日差しを受け、この世界の現実から目を背けないように踏みとどまる勇気も必要だ。
「喜べない生存」
2008年の暮れから今もなお、パレスチナはイスラエルの一方的な攻撃によって多くの死傷者を出している。何もしていないのに、外に出ることも許されないパレスチナの中で上空から爆撃している。それは運の悪い宝くじのように、不意に誰かが殺される。もし対抗しようとするなら、『やっぱり過激派のハマスのメンバーだ』と攻撃を正当化されてしまう。あなたがその場にいたらどうするだろうか。逃げ道はない。近い友人や家族、子どもたちまでもが無残に殺されていく。『その死が自分でなかったこと』を喜ぼうものなら、たちまち自己嫌悪に襲われるだろう。殺されるのは誰でもよかったのだから、自分が殺されなかったことは他者の死に責任を感じなければならなくなるからだ。ぼくはインターネットでその死の瞬間を目にする。そうしなければいけないような義務感に襲われながら。
だからイスラエルに関係するコカコーラやマクドナルド、スターバックスのコーヒーのようなものは買わない。せめてもの抵抗だ。友人たちはイスラエル大使館に抗議行動に出かけた。なにかせずにはいられないのだ。『そこにいるのが自分だったら…』という感性は、耐え難い苦痛を作り出す。
しかしそれでも目を向けていたい。人にとって最も屈辱的で悲しいことは、誰からも忘れられてしまうことだ。自分がひどい目に遭っているのに誰もが目を背け、誰もが知りたがらないとしたら、これほど悲しいことはない。誰かがひ弱な小さな声でいいから「もうやめておけよ」と言ってくれないものか、「それ以上するなよ」と諌めてくれないものかと願うだろう。それがない中での死は、陽の差さない真っ暗で絶望的な「漆黒の死」になってしまう。
ぼくが欲しいのは感性を残したままのタフな神経だ。事実に目を背けずにいたい。しかしその死の理不尽さにも、動揺しないで見続けるタフさだ。耐えることで自分の存在を確認する、目を背けない勇気をもって自分の存在を確認するような…。もちろん誰もが耐えられる神経を持つわけではないことはわかっている。それでも一人でも多くの人がそうならなければ、たとえばパレスチナで殺されていく人たちを「漆黒の死」に追いやってしまうことになる。
カンボジアの「トゥールスレーン」という名の、ポルポトによる拷問・殺害の場となった元高校跡地を訪ねたときもそうだった。アルゼンチンでピノチェトに爆撃・殺害されたアジェンデ政権のパレスを訪ねたときもそうだった。あまりのショックとうんざりしたような気持ちに襲われて、数日は何もできなくなる。人にはきっと人殺しをなんとも思わない残忍さが隠されているのだ。しかしその残忍さを拒否できるとしたら、きっと強い意志の力だろう。タフでありたい。最後の一時まで自分自身でいたい。感性は絶対必要だが、それだけで生きようとするには、この世界は野蛮すぎるのだ。
一人の人間が人を殺すときのほうがまだ理由がある。しかし国家などに他人の命を勝手に奪う権利はない。どんな理由を持ってこようが許されることではない。誰もが国家に楯つくだけのタフさがあるわけではないのはわかっているが、それでもせめてイスラエルに「人を殺すな」と言ってほしい。
>>ここまで
●
JVC(日本ボランティアセンター)による緊急医療支援活動はこちらを。
優さんの文章を読みながら村上春樹の「海辺のカフカ」を思いおこしました。人間が抱えている暴力性、闇の部分。それに対峙しなければ、それを止めることはできない。感性と行動力。
子供、一般人が多く含まれているそうです。
アルジャジーラやBBC,ロイターなどのサイトで、動画も含めてトップニュースで報道されています。
六ヶ所村ラプソディー上映のときに講演していただいた田中優さんが、このことについて発言しています。大事なことだと思うので、一部を転記します。詳しくはご本人のblogを。
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>>以下田中優さんの発言を転記
「共感する感性とタフな行動力」
共感する勇気
心を落ち着かせて、ゆっくり構え、音楽と向き合う。すると音の重なりの中からその人の感情が届いてくる。『そうか、こう感じたのか』と対話する。書物も同じだ。筆致を追うようにしてリズムを辿りながら言葉を味わう。『あの語ではなく、この言葉を使ったのは、このイメージを避けたかったんだな』と。
音楽を聴いているときに外で大きな音がするとびっくりして、次第に腹立たしく思えてくる。せっかく辿りかけていた気持ちの糸が切れるように思えるからだ。同じ音楽を聴いているのに、先ほどの文脈が辿れない。神経が鋭敏になっているとき、人はきっと奇跡的なほどの感受性を持つ。人の考えていることが分かるというより、共振現象のように同じ想いが湧き上がる。もちろん全く同じではないにせよ、心を無にしていると同じように感じることができる。もししてみたいと思うなら、何も考えず期待せず、ただ自分自身といるときのように隣に座ってみるといい。動物と一緒にいると、その気持ちが伝わってくるのと同じだ。人は共感する生き物だというのがよく分かる。
しかしその一方で思う。人は感性だけで生きていてはいけないのではないかと。ぼくの友人たちの中にも、感性が非常に研ぎ澄まされた人がいる。しかし彼らは多くの悲惨な事態に、耐え切れないほどの苦しみを抱く。ダメージのせいでモノが食べられなくなったり、眠れなくなったりすることは誰でもあるだろう。しかし人によっては仕事に出られなくなったり、生きる意欲を失いかけたりする。おそらくは感性が研ぎ澄まされる場所に長くいすぎたせいなのだろう。だがそれは一方で、日差しの強さに耐えられない陰樹のようでもある。ときには真正面から日差しを受け、この世界の現実から目を背けないように踏みとどまる勇気も必要だ。
「喜べない生存」
2008年の暮れから今もなお、パレスチナはイスラエルの一方的な攻撃によって多くの死傷者を出している。何もしていないのに、外に出ることも許されないパレスチナの中で上空から爆撃している。それは運の悪い宝くじのように、不意に誰かが殺される。もし対抗しようとするなら、『やっぱり過激派のハマスのメンバーだ』と攻撃を正当化されてしまう。あなたがその場にいたらどうするだろうか。逃げ道はない。近い友人や家族、子どもたちまでもが無残に殺されていく。『その死が自分でなかったこと』を喜ぼうものなら、たちまち自己嫌悪に襲われるだろう。殺されるのは誰でもよかったのだから、自分が殺されなかったことは他者の死に責任を感じなければならなくなるからだ。ぼくはインターネットでその死の瞬間を目にする。そうしなければいけないような義務感に襲われながら。
だからイスラエルに関係するコカコーラやマクドナルド、スターバックスのコーヒーのようなものは買わない。せめてもの抵抗だ。友人たちはイスラエル大使館に抗議行動に出かけた。なにかせずにはいられないのだ。『そこにいるのが自分だったら…』という感性は、耐え難い苦痛を作り出す。
しかしそれでも目を向けていたい。人にとって最も屈辱的で悲しいことは、誰からも忘れられてしまうことだ。自分がひどい目に遭っているのに誰もが目を背け、誰もが知りたがらないとしたら、これほど悲しいことはない。誰かがひ弱な小さな声でいいから「もうやめておけよ」と言ってくれないものか、「それ以上するなよ」と諌めてくれないものかと願うだろう。それがない中での死は、陽の差さない真っ暗で絶望的な「漆黒の死」になってしまう。
ぼくが欲しいのは感性を残したままのタフな神経だ。事実に目を背けずにいたい。しかしその死の理不尽さにも、動揺しないで見続けるタフさだ。耐えることで自分の存在を確認する、目を背けない勇気をもって自分の存在を確認するような…。もちろん誰もが耐えられる神経を持つわけではないことはわかっている。それでも一人でも多くの人がそうならなければ、たとえばパレスチナで殺されていく人たちを「漆黒の死」に追いやってしまうことになる。
カンボジアの「トゥールスレーン」という名の、ポルポトによる拷問・殺害の場となった元高校跡地を訪ねたときもそうだった。アルゼンチンでピノチェトに爆撃・殺害されたアジェンデ政権のパレスを訪ねたときもそうだった。あまりのショックとうんざりしたような気持ちに襲われて、数日は何もできなくなる。人にはきっと人殺しをなんとも思わない残忍さが隠されているのだ。しかしその残忍さを拒否できるとしたら、きっと強い意志の力だろう。タフでありたい。最後の一時まで自分自身でいたい。感性は絶対必要だが、それだけで生きようとするには、この世界は野蛮すぎるのだ。
一人の人間が人を殺すときのほうがまだ理由がある。しかし国家などに他人の命を勝手に奪う権利はない。どんな理由を持ってこようが許されることではない。誰もが国家に楯つくだけのタフさがあるわけではないのはわかっているが、それでもせめてイスラエルに「人を殺すな」と言ってほしい。
>>ここまで
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JVC(日本ボランティアセンター)による緊急医療支援活動はこちらを。
優さんの文章を読みながら村上春樹の「海辺のカフカ」を思いおこしました。人間が抱えている暴力性、闇の部分。それに対峙しなければ、それを止めることはできない。感性と行動力。