1726年に唐通事の募集が始まって以来、島から応募した人がどれくらいいたのか?詳しいことは分かりませんが、漂着船は相変わらず島に来ていたようです。
1732年に中国船が沖永良部の喜美留海岸に漂着したようですが、その時に当家のご先祖様である平安統が琉球へ護送した記録がありました。年代的に見て平安統惟次という方だと思われます。
「代官系図」ではこの記録の後に、「与人宣喜統・横目平安統・取払約富久政相付、琉球へ送届候」と記されているようです。この時の平安統は40歳。この2年後の42歳で喜美留与人になっています。こういった漂着船の対応なども、出世のために評価項目として取り入れられていたのかもしれませんね。
この時代、他の島も含めて記録が残っているものがあります。
1734年(与論代官系図)
28人を乗せた朝鮮船が沖永良部の伊延港へ漂着しています。二重の虎落(もがり)で囲った木屋に収容し、白米を1人1日1升を支給しています。
1735年(徳之島前録帳)
徳之島の港屋泊り朝鮮人男女26人(男18人 女8人 赤ちゃん2人)が漂着
1739年(徳之島前録帳)
手々村に朝鮮人25人。干瀬に木船破損。琉球へ護送。
1815年(大島代官記)
大島の笠利間切り宇宿沖に長崎来朝之唐船 113人漂着。
20数人の家族が乗り込んだ朝鮮船の漂着が多いですが、この時期の朝鮮の内乱の影響でしょうかね。
1815年の113人も乗せた唐船は長崎へ向かう商船だったようです。
こうして見ると、唐通事だけでなく朝鮮語の通訳も必要であったように思われますが、朝鮮語は理解できていたのでしょうかね。記録は残っている一部だけだと思われるので、絶対数は中国船がやはり多かったのでしょうね。
唐通事、まだ続きます。