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先祖を探して

Vol.125 世之主に関する2つの古文書が書かれた謎(1)


沖永良部島の世之主と呼ばれる島主は、琉球が三山時代であった時の北山王の次男として生まれ、沖永良部島の島主として渡島し島を善政で治めたといいます。
一説には、沖永良部島のみならず、与論島や徳之島もその統治下にあったとも言われていますが、正確な資料もなくその詳細は不明です。
この世之主と呼ばれる島主が当家のご先祖様であったわけですが、この方のことを詳細に記録した古文書は少なく、謎が多いのが現状です。

そんな少ない古文書の中の1つが、当家のご先祖様の1人である平安統惟雄という方が1850年に書いた「世之主かなし由緒書」という古文書。Vol.22の記事で紹介したように、世之主の誕生から自害までのストーリーと、補足的な事項が書かれています。これは研究者の方々にも知られている古文書ではありますが、世之主のことを語った古文書は他にも2つ存在しています。
私はこれら2つの古文書がなぜ当家の者でない別の方によって書かれたのか?ということがずっと疑問でした。なぜなら、世之主の子孫だと言われている当家は島に代々住んでおり、島役人もやってきているのに、なぜ当家への聞き取りではなく、他の者からの調査記録となっているのか?疑問がつのって仕方ありませんでした。
これらの2つは当家のご先祖が書いたものではありませんが、公開されているものですので、まずは1つめを以下に掲載します。

*「世之主伝説」:先田光演著より


上記の文書は、1711年(宝永8年)に書かれたもので、現在のところ世之主について書かれたものとしては、一番古い記録になるそうです。
沖永良部島の与人3名と与論島の与人2名による記録で、薩摩藩からの命令で世之主の由来と制度や風俗について調査をした内容となっています。
この文書には、琉球国時代には島役人は金銀の髪差しや鉢巻のの使用が許可されていたが、薩摩の支配になると琉球時代の大屋子制度が廃止されたので、それらの使用が禁止されたことと、世之主に関する記録については最小限となっています。
注目すべきは、①この記録が書かれた時期が薩摩侵攻時から約100年後であるということ、②この時期まで文字を覚えた者がいなかったので、世之主の子孫断絶などの確かなる書置きは無いとしているところです。

①について
1609年に薩摩が侵攻し、1616年には徳之島に代官所が置かれ、沖永良部と与論を巡回、1690年に島に代官所が設置され薩摩から役人が派遣され定住することになります。
その中で、なぜこのタイミングでこの調査書を与人に連名で提出させたのか?ということです。
しかも、世之主の子孫と言われる当家への直接の調査ではなく、その時の与人による連名での提出が意味するところは?

もう少し掘り下げた疑問点を連ねてみます。

・徳之島からの巡回統治の期間である約70年程は、島に世之主の大きな墓もあるのにも関わらず、世之主について認識がなかったのか?お墓に気が付いていなかったのか?

・薩摩侵攻時に琉球時代の最後の大屋子をしていた「次郎かね」という人物がおり、1613年には薩摩藩より与人に命じられています。この「次郎かね」は世之主の母親の実家だとされている要家のご先祖様になりますが、この方が世之主と繋がった家であったとは薩摩は知らなかったのか?

・当家の中城という人物が与人をしており、亡くなったのが1688年(1619-1688年 享年69歳)。与人時代の期間は不明であるが、代官所が島に設置される前に他界している。与人であったため、薩摩との付き合いは大きかったはずだが、薩摩側には世之主の子孫という認識はなかったのか?

・1695年、中城の息子であった池久保が他界している。この方も与人であったので、中城→池久保とこの時期に2代続いて与人をしているので、薩摩との繋がりが更に深かったはずであるが、やはり世之主の子孫であるという認識は薩摩側にはなかったのか?

・1693年には、後に与人となる池久保の5男が誕生。この記録が書かれた1711年には18歳であった。彼は42歳で与人になっているためこの時点ではまだ役人ではないので、直接の聞き取り対象ではなかったのか?

・池久保の死後は当家の先祖はしばらく役人ではなかったと思われたが、分家筋である佐久田という人が与人格間切り横目をしている。役人になった時期は不明であるが、1711年当時は37歳であるため、年齢的に見て彼が役人になる際の調査という意味も含まれていたのか?

これに関しては、島役人は当初は家柄で世襲的に決まっていたようですが、だんだん諸問題が起きて、現与人からの推薦で薩摩の家老が決定するというような形に変わっていったようなので、もしかしたら佐久田を役人に推薦する際に、薩摩側から指示された調査書の1つだった可能性もあります。これはあくまでも私の個人的な見解ですので、本当の理由は分かりませんが、上記の年代的な流れを見ていくと、可能性としては高いと思われます。

連名がお隣の与論島の与人にまで及んでおりますので、ちょっと大がかりさを感じるので、単なる島役人推薦のためだけでの記録文書という枠からは外れるかもしれませんが、それを兼ねた文書としての位置づけであった可能性は高いと見ております。

②について
文字を持たなかったというのは、納得ができます。沖永良部島に古文書が少ない理由は、この文字を持たなかったというところが実は一番大きかったのかもしれません。(薩摩に取り上げられたという話し以外で)
ただ、琉球時代も含め島役人はいたはずですし、役人たちは文字を扱っていたはず。琉球からの辞令書などもあったはずですからね。まさか役人で文字が読めないってことはないでしょうし。
この文字の普及については、別の歴史が見えてくるかもしれませんので、別記事として書きたいと思います。

2つめの文書については、次回に書きたいと思います。

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