新年あけましておめでとうございます。
いつも当ブログをご訪問頂き、ありがとうございます。
当家のことや、琉球・薩摩時代の歴史にご興味を持って記事を読んでくださり、大変嬉しく思っております。
今年も先祖調査を継続していきながら、調査の過程で分かったことや関連する歴史的な情報、沖永良部島のことなどを発信していきますので、引き続きよろしくお願い致します。
また、当家のご先祖様に繋がる情報をお持ちの方がいらしたら、コメント頂けると嬉しいです。
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新年早々のお披露目は、島の本家に保管されている品々です。
Vol.155で陶磁器類の一部を紹介しておりますが、確認できる一番古いものでは1465年あたりのお皿があります。
今回はまず、お正月にも関係するお品です。
何かお分かりになりますか?
実はこれ、落雁(らくがん)を作る際の型なのです。本土の落雁とは少し違う琉球式のコーグヮーシという物ですが、もち米などを蒸して乾燥させた粉(寒梅粉や落雁粉)と、砂糖や水あめをこねて型抜きして作るのです。
コーグヮーシは琉球王朝時代から伝わる菓子のひとつで、鯛の形は正月、松竹梅と鶴亀は生年祝い、ハスと鯛のセットは盆と各行事に応じて多彩なコーグヮーシが用いられてきたそうです。
1879年に記された王朝菓子の手引きというべき「与那城御殿御菓子并(ならびに)万例帳(よろずためしちょう)には、実に113種のお菓子の材料が記されており、その中に「コーグヮーシ」80粒の材料が「上白米壱升」「砂糖一斤」と出てくるそうです。「コーグヮーシ」に似た菓子に「甑菓子(クシチーウクヮーシ)」というのがあり、「コーグヮーシ」は型抜きをするが、「甑(こしき)菓子」は甑いっぱいに作り、24から36に切り分けるようです。この「甑菓子」が現在法事などに使われる「クシチー」の原型のようですが、現在はコーグヮーシで作られているのだそうです。
1879年に記された王朝菓子の手引きというべき「与那城御殿御菓子并(ならびに)万例帳(よろずためしちょう)には、実に113種のお菓子の材料が記されており、その中に「コーグヮーシ」80粒の材料が「上白米壱升」「砂糖一斤」と出てくるそうです。「コーグヮーシ」に似た菓子に「甑菓子(クシチーウクヮーシ)」というのがあり、「コーグヮーシ」は型抜きをするが、「甑(こしき)菓子」は甑いっぱいに作り、24から36に切り分けるようです。この「甑菓子」が現在法事などに使われる「クシチー」の原型のようですが、現在はコーグヮーシで作られているのだそうです。
昔は天然の着色料が使われ、赤は正延紫、黄色はクチナシ、緑は葉っぱなどが使われたそうですが、現在は人口の着色料が使われています。
この型が作られたのは、慶應元年、1865年11月です。この時の当主は8代:宗 善保です。Vol.156で書いた一代士族の扱いを受けた人です。1865年といえば、善保が50歳の時です。一代士族になったのは1876年ですから、その前に型が作られています。50歳のお誕生日のお祝い用に型を作ったのか、何か他の理由があったのかは分かりませんが、型を彫った日付まで彫られているので、何か意味があったのかもしれません。
こちらは年代は不明の漆塗?の杯のようです。
表には何やら和歌のような詩が書いてあるのですが、私には読めませんので調査が必要です。月のことでも詠んだ詩なのか?
そして裏には卍が書かれています。単なるデザインなのか? 寺に関わる物なのか?
陶磁器類の卍模様って、北山の今帰仁から出土した品にも描かれているようで、北山王の樊安知がいた時代に中世のアラン人とかがいた中東方面と関わりがあった説があるようですので、もしかしたらその頃の品なのかな?など勝手に思っております。
これも時代は不明ですが、かなり年季の入った急須です。
大きな壺とすり鉢です。年代は不明ですが、7代目の平安統惟雄が漢方医をしており、薬園の与人もしていたので、その時の薬草の調合に使われたのではないかと言われております。
調合の時に使われたであろうスプーンやピンセット、琉球時代からの簪など、細々セットです。お金もあります。
これらは国宝級のお宝というわけではありませんが、ご先祖様が使用していた品々で、薩摩藩からの目を逃れ、災害や戦争の時代を経て守られてきた品々です。当家のご先祖様探しのヒントが隠されていないかも今後の調査対象ですね。