当家に保管されている古文書の中に鉄炮に関するものがあります。
鉄炮というと本土の戦国武将のイメージが強いですよね。
1543(天文12)年に種子島に来たポルトガル人から鉄砲がもたらされると、その存在は瞬く間に全国の戦国大名に広まり、伝来地の名前から「種子島」とも呼ばれていた鉄砲は、すぐに国産化へ着手されたことは有名です。
その鉄炮に関する古文書が、どういうわけか南の小島である沖永良部島の本家に残されています。
今回は1673(寛文13)年に作成された手書き原本の「鉄砲聞書」について紹介します。
こちらの文書は原本の一部です。巻物になっており、初巻・二巻・当報巻と3つあります。残念ながらまだデジタル化出来ていないので、以前に一部分だけコピーされていた箇所のみの掲載となります。
この巻物全体を活字複写したものが下記になります。昭和31年初版発行の沖永良部島郷土史資料に掲載されています。誤複写の箇所、欠落文字については、先田先生が訂正や意味を見て文字追加を手書きでされています。
この文書に書かれているのは、鉄砲の使い方全般のようですが、心構えから身のこなし方、鉄砲の扱い方、火薬の詰め方、時に和歌?なども交えながら、書かれています。
文書の最後には秘蔵や秘伝の文字が見えますので、当時としては大変重要な文書であったのだと思われます。現代において何かその時代を知る上での価値ある内容なのか?そのあたりは専門家ではないので全く分からないのですが、複写の最後に登場する名前や年代に注目してみました。
右鉄砲之術者北郷次郎兵衛殿、、、、、と最後の文があります。
この鉄砲の術者であった「北郷次郎兵衛」とは何者であったのかを調べてみました。
北郷次郎兵衛とは北郷久利(~1642年)のことのようです。島津の家臣で、父親は北郷忠総で、島津家の4代当主島津忠宗の子である資忠から始まる有力な分家とのこと。
この久利が稲富流砲術を大阪の稲富流砲術の開祖であった稲富夢斉(祐直)に学んでいます。
鉄炮伝来以降、稲富流(いなとみりゅう)や提要流(ていようりゅう)などの砲術が薩摩藩の主流であったようですが、江戸後期になると荻野流が広まり、藩内において砲術の西洋化が図られたそうです。この文書は稲富流が主流だった頃のものですね。
そして3名の方の名前が後半に記載されていますが、年代がそれぞれバラバラです。
これは恐らくですが、年代を追って3名の人にこの文書が渡っていったのではないかと思われますが、詳細は不明です。
その3名の人物たちについては、以下のことが分かりました。
1673(寛文13)年8月吉祥日
和田讃岐政貞 (正しくは和田讃岐守正貞のようです)
大根占御地頭 (現在の鹿屋市南部あたり)
示現流の流祖である東郷重位の長女を妻としている
この人が和田乗助にこの書を渡していると思われる。
1736(元文元年)年7月18日
和田乗九郎
1843(天保14)年と1845(弘化2)年に沖永良部島に代官附役として来島
和田乗助政賀(1673年の和田乗助)が、乗九郎にこの書を渡したような書き方であるが、時代が合わない。時代を経ての譲渡か?
それとも代官附役として来島した乗九郎は別の人物か?
1744(延享元年)年12月吉日
久保諸右衛門
詳細は不明ですが、おそらく鹿児島からきた役人でしょう。
和田乗九郎から久保諸右衛門に渡されたことになるが、和田乗助政方の名前になっている。和田乗助政賀と和田乗助政方は同一人物か?
このように記述内容に少し矛盾があり、詳細は不明です。しかし私が見ているのは活字化された方なので、もしかしたら原本から複写ミスがある可能性もあります。一度、原本からの確認をした方が良さそうですね。
話は戻りますが、大阪で稲富流を学んだ北郷久利ですが、妻は示現流流祖の東郷重位の娘です。東郷重位のもう一人の娘は和田讃岐政(正)貞の妻となっています。
示現流と鉄炮の稲富流、どちらも薩摩藩の御流儀。そして当家の4代目であった平安統惟貞は示現流の東郷実勝の高弟子だった。
この示現流絡みで付き合いがあり鉄炮の稲富流まで指導を受けたのか?
文書の最後の日付け1744年以降に当家にこの文書が渡ってきたのであれば、示現流の東郷実勝から指導を受けた後になりますので、その線が強いと思われます。
しかし薩摩時代の島民は、帯刀さえ許されなかったといいますから、なぜ島役人であった当家のご先祖様が示現流や鉄炮やらと破格と思える扱いだったのか、大変な謎です。
この鉄砲関係の文書は続きがありますので、次回に続きます。