謎の鉄炮聞書の続きですが、1756(宝暦6)年に和田乗左衛門という人物によって複写されたものが、平安統惟貞に与えられています。平安統惟貞が41歳の時です。
この原本は、厚手で上質な和紙に書かれており、筆跡も美しいですね。
和田乗左衛門という人物のことがはっきりと分からないのですが、上質の和紙に書きサイン入りで渡すということは、何か理由があったのかもしれません。
このあたりの時期の平安統惟貞を取り巻く出来事を少し整理して列記してみます。
1746(延享4)年 東郷実勝より示現流の秘伝書を授かる
1754(嘉永1)年 久志検与人になる
1756(宝暦6)年3月29日 和田乗左衛門による複写の鉄炮聞書を与えられる
1756(宝暦6)年4月2日 東郷実勝 死去
薩摩藩が取り入れた稲富流砲術は、薩摩の臣下であった北郷久利が学び伝えた。その久利は示現流の流祖であった東郷重位の長女を妻とした。
そして和田讃岐守正貞は東郷重位の次女を妻とした。
この時代、示現流と鉄炮の稲富流は深く絡んでいますね。
和田乗助については、1851(嘉永4)年に稲富流の師範であった和田乗助が高山郷で指南にあたっている記録がありました。しかしこの時の乗助は鉄砲聞書に書かれた人とは時代が違います。乗助という名は、和田家が代々使っている名前だと思われます。
よって、1756年3月19日に平安統惟貞に与えられた鉄炮聞書を書いた和田乗左衛門も、稲富流の和田家の人であったのでしょう。
そして偶然なのか必然なのかは分かりませんが、平安統惟貞の師匠であった東郷実勝が1756年4月2日に他界しています。
東郷家と和田家は婚姻もあり親族ですので、病床にあった東郷実勝のはからいで、稲富流の師範であったと思われる和田乗左衛門による正式な鉄炮聞書を親交の深かった平安統惟貞に授けたのかもしれません。
あくまで推測ですが、1673年版には正式なサインが無かったので、正式な書として発行したのかもしれませんね。
当家に保管されている鉄炮聞書の経緯は示現流との絡みがあったようだと何となく見えてきましたが、これはあくまで私の考察ですので、本当に正しいかは分かりません。
それから、そもそもなぜ銃が平安統に必要であったのか、そこが分からないのですが、1つその理由かもしれない記録が残されていました。
これは、江戸期後あたりに書かれていた別の文書の最後の空白箇所に、メモ的に書かれているものを先田先生が複写されたものです。内容は鉄砲所持の願出のようです。明治期に入り鉄砲の所持はに許可が必要になったため、その許可を得るための書類への下書きと思われます。
そもそも鉄炮の所持を願い出るということは、鉄砲の使い方を知っており、そして和銃を1挺と願い出するようですが、既に代々所持していたということなのでしょう。
問題はその所持の理由です。下書きには後蘭地区に出没する鳥獣の威嚇のために使用するとのことが理由として書かれています。昔の島は、現在よりも山林が多かったので、畑や民家を荒らす鳥獣が多かったのかもしれませんね。しかし獣といっても豚や猪ぐらいでしょうか。コウモリや野鳥の方が多そうですね。
しかし後蘭の地はご先祖様の居住先からは少し遠いですし、そのあたりに銃で威嚇が必要なほどの広大な土地を持っていたのか?
当家のご先祖様が鉄炮を必要としたのは、本当にこの鳥獣対策だったのか?
可能性はありますが、戦国の江戸時代に武器ではなく鳥獣の威嚇のために使われていたことには、とても不思議な感じがしています。
これは許可を得るための単なるこじつけの理由かもしれませんが、、、
いまのところ、これ以上の詳しい理由は分かりませんが、いろいろ考察を広げて引き続き調査をしてみます。
ちなみに鉄炮については、もう所在は分かりません。許可が下りず手元から無くなったのか、必要なくなったので処分したのかは不明ですが、現存はしません。現存していたらもう少し色々分かったかもしれませんね。